- 1 名前:君塚正太 投稿日: 2008/05/11(日) 00:04:13
- 初めまして、君塚正太と申します。早速、自殺と倫理の問題に立ち入って、いきたいと思います。
自殺と倫理の問題は、紀元前から続いている問題です。ソクラテスが、パイドンで毒入りの飲み物を 飲み、彼は死にました。無知な大衆と、それらを洗脳し、大衆扇動を行なった評議会。これは、「ソクラテスの弁明」 に出ています。その次に、知っているのはセネカです。彼の教え子だった皇帝ネロの百人隊に家を包囲され、自殺をよぎなくさせられました。 彼は、妻だけは殺さないでくれ、といって自害しました。イエス・キリストも同様に、民衆に散々、誤解され、処刑されました。
ここで、二つの自殺の意義が出てきます。ソクラテスとイエス・キリストは、無知蒙昧な大衆のせいで、処刑をよぎなくされました。 しかし、この二人は、進んで、人々のためになるならばと、自殺を選択しました。 セネカの場合は、違って、外圧からの影響で、一見自殺を強制されたと思われがちです。 けれども、セネカは教え子のネロに、死をも恐れずに、圧政をしく皇帝ネロに何通もの書簡を送っています。 その結果、自害することになったのです。一目見ただけでは、彼らの動機の違いが多少は分かっても、その根本原理は変わりません。 その根本原理とは、殉教の精神です。これは決して、仕事を首になったなどの陳腐な理由で自殺をする人とは、まったく違います。
さすがに、彼らも人間です。もちろん、自己保身の気持ちもあったでしょう。しかし、彼らは自らのために生きるのではなく、後世の人々への模範を示したのだと思います。 けれども、彼らはそれを理性的に押さえ込んで、他の人々のために、死んだのです。それも、見ず知らずの人々や、敵のためにも。 哲学の学会で、倫理と自殺は、関係ある、と言われましたが、納得できませんでした。そして、大雑把に述べて二つの自殺の根本原理が存在することが分かりました。 現代日本のように、家族のために死を思いとどまる場合は、確かに多いです。けれども、それは拡大された自己中心性であり、前述した人々の自殺とは意をたがうのです。 拡大された自己中心性とは、フィヒテやニーチェの言葉を借りれば、フィヒテは「他人とは、私の自我が存在するから、存在する。」という独我論に陥っています。 ニーチェの場合は、他人などの本や、客観は存在するものではなく、所詮、幻影であると述べています。これも、かなり独我論に近いものがあります。
ソクラテスや、セネカ、イエス・キリスト等の人々は、拡大された自己中心性を廃棄しています。他人のために尽力しているのに、変にかんぐられ、あいつは傲慢だ、能力を見せびらかせていると思われたのでしょう。 この現象は、よく起こることです。ほとんどの人間は、利己心に突き動かされています。だが、稀に利己心を滅却する人が現れるのです。そういう人々は、他人から見て、傲慢、自分勝手と思われがちですが、実際、彼らはそうではないのです。 したがって、自殺が起こる根本原因が、二つあるということになります。 どこぞやの教授が、倫理と自殺は関係あるのではないか?という質問をしてきたことがありました。 私は、その時、軽く受け流しましたが、考えてみた結果、その教授の述べたことは、おかしいのです。 家族が、いて自殺を躊躇する人がいるのも知っていまし、その時の教授の質問がそうだったのです。 けれども、所詮は、肉親です。これは、倫理とは関係してきません。利己心から湧き上がるものです。 本当の偉大なる倫理観を備えた人物とは、近場の友人より遠くの知り合いを助けるものです。 なぜなら、利己心がその場合、ほとんど発露されないからです。
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