- 1 名前:suite 投稿日: 2005/01/22(土) 23:10 [ crm4gxok ]
- 旧「後漢書儒林伝-上」スレを移行したものです。
後漢書儒林伝に限定するのもアレなので、このように拡張することに致します。
- 69 名前:suite 投稿日: 2007/08/23(木) 07:31:33 [ 3L7fW4Ko ]
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『晋書』職官志
四征・鎭・安・平加大將軍不開府・持節督者、品秩第二、置參佐吏卒・幕府兵騎如常督制、唯朝會祿賜從二品將軍之例、然則持節・督無定員、前漢遣使始有持節、光武建武初、征伐四方、始權時置督軍御史、事竟罷、建安中、魏武爲相、始遣大將軍督之、二十一年、征孫權還、夏侯惇督二十六軍是也、魏文帝黄初三年、始置督軆7鎧、或領刺史、又上軍大將軍曹眞督中外躔鎧、假黄鉞、則總統内外躔鰍磧Å果青訛析損庸秋、宣帝征蜀、加號大督、高貴公正元二年、文帝督中外躔魁⊃匆誕茆督、及晉受禪、督躔橿上、監躔骸’掘督躔橿下、使持節爲上、持節次之、假節爲下、使持節得殺二千石以下、持節殺無官位人、若軍事、得與使持節同、假節唯軍事得殺犯軍令者、江左以來、督中外尤重、唯王導等權重者乃居之、
四征・鎭・安・平の大將軍の開府・持節督たらざる者は、品秩第二、參佐吏卒・幕府兵騎を置くこと常の督の制の如くし、唯だ朝會祿賜は二品將軍の例に從ふ。然らば則ち持節・督は定員無し、前漢は使を遣はすに始めて持節を有す。光武建武の初めに、四方を征伐するに、始めて權時に督軍御史を置き、事竟りて罷む。建安中に、魏武の相爲るや、始めて大將軍を遣はして之を督せしむ。二十一年に、孫權を征して還るに、夏侯惇をして二十六軍を督せしむるは是なり。魏の文帝の黄初三年に、始めて督軆7鎧を置き、或いは刺史を領せしむ。又た上軍大將軍の曹眞をして中外の躔鎧を督せしめ、黄鉞を假し、則ち内外の躔海鱚租せしむ。魏の明帝の太和四年の秋に、宣帝の蜀を征せしとき、號を大督と加ふ。高貴公の正元二年に、文帝は中外の躔海鴿督し、尋いで大督を加へらる。晉の禪を受くるに及びて、督躔海鮠紊彼し、監躔海鯒靴房,、督躔海魏爾彼し、使持節を上と爲し、持節を之に次ぎ、假節を下と爲す。使持節は二千石以下を殺すを得、持節は官位無き人を殺し、若し軍事なれば、使持節と同じかるを得、假節は唯だ軍事に軍令を犯す者を殺すを得。江左以來、督中外は尤も重し、唯だ王導等の權重き者のみを乃ち之に居らしむ。
『宋書』百官志上
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 70 名前:むじん 投稿日: 2007/08/24(金) 11:34:14 [ bLS9IiVk ]
- まったくおっしゃる通りで、御史中丞として軍隊を統率したことを言ってます。
三国志の文帝紀注の司馬懿のほか、荀注にも厳象が「督軍御史中丞」として見えてます。 後漢を通じて「御史中丞が某州郡の兵を督した」という記述がしばしば見られ、 その慣例が固定化されて督軍御史中丞と言ったものじゃないかと思います。 このほか三国志の杜襲伝に督軍糧御史とか督軍糧執法なんてのが見られますね。 ところで、こちらの督軍御史中丞と、夏侯惇らが諸軍を督したというのと、 それぞれがどのように担当を分けたのか、ちょっと考えてしまいます。
- 71 名前:スート 投稿日: 2007/09/01(土) 18:43:26 [ 3L7fW4Ko ]
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『晋書』宣帝紀 (第四回)
黄初二年、督軍官罷、遷侍中・尚書右僕射、 五年、天子南巡、觀兵呉疆、帝留鎭許昌、改封向侯、轉撫軍・假節、領兵五千、加給事中・録尚書事、帝固辭、天子曰、吾於庶事、以夜繼晝、無須臾寧息、此非以爲榮、乃分憂耳、
黄初二年(221)、督軍の官罷み、侍中・尚書右僕射に遷る。 五年(224)、天子南巡し、呉の疆にて觀兵す。帝は留りて許昌を鎭し、向侯に改封せられ、撫軍(撫軍大將軍)・假節に轉じ、兵五千を領し、給事中・録尚書事を加へらるも、帝固辭す。天子曰く、「吾庶事に於いて、夜を以て晝に繼ぎ、須臾も寧息する無し。此れ以て榮と爲すに非ず、乃ち憂を分かつのみ」と。
- 72 名前:suite 投稿日: 2007/09/22(土) 09:24:48 [ 3L7fW4Ko ]
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『晋書』宣帝紀 (第五回)
六年、天子復大興舟師征呉、復命帝居守、内鎭百姓、外供軍資、臨行、詔曰、吾深以後事爲念、故以委卿、曹參雖有戰功、而蕭何爲重、使吾無西顧之憂、不亦可乎、天子自廣陵還洛陽、詔帝曰、吾東、撫軍當總西事、吾西、撫軍當總東事、於是帝留鎭許昌、 及天子疾篤、帝與曹眞・陳羣等見於崇華殿之南堂、竝受顧命輔政、詔太子曰、有虜〇宛者、愼勿疑之、明帝即位、改封舞陽侯、 及孫權圍江夏、遣其將躋諤・張霸并攻襄陽、帝督躔各ぼ沺∩之、進撃、敗瑾、斬霸、并首級千餘、遷驃騎將軍、
六年(225)、天子は復た大いに舟師を興して呉を征し、復た帝に命じて守に居り、内に百姓を鎭し、外には軍資を供せしむ。行に臨み、詔して曰く、「吾深く後事を以て念と爲し、故に以て卿に委ぬ。曹參は戰功有りと雖も、而して蕭何重しと爲す。吾をして西顧の憂ひを無からしめば、亦た可ならずや」と。天子廣陵自り洛陽に還り、帝に詔して曰く、「吾東せば、撫軍當に西事を總ぶべし、吾西せば、撫軍當に東事を總ぶべし」と。是に於いて帝留りて許昌を鎭す。 天子の疾ひ篤きに及び、帝は曹眞・陳羣等と與に崇華殿の南堂に見(まみ)え、竝びに顧命を受けて輔政す。太子に詔して曰く、「此の三公を里垢觴塒るも、愼みて之を疑ふ勿れ」と。明帝即位し、舞陽侯に改封せらる。 孫權の江夏を圍み、其の將躋諤・張霸を遣はして并せて襄陽を攻めしむるに及び、帝は躔海鯑弔靴頓泙鯑い繊之を走らしむ。進撃し、瑾を敗り、霸を斬り、并せて首級千餘。驃騎將軍に遷る。
- 73 名前:suite 投稿日: 2007/10/08(月) 09:25:10 [ 3L7fW4Ko ]
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『晋書』宣帝紀 (第六回)
太和元年六月、天子詔帝屯于宛、加督荊・豫二州躔鎧、 初、蜀將孟達之降也、魏朝遇之甚厚、帝以達言行傾巧不可任、驟諫不見聽、乃以達領新城太守、封侯、假節、達於是連呉固蜀、潛圖中國、蜀相躋詢蛇其反覆、又慮其爲患、達與魏興太守申儀有隙、亮欲促其事、乃遣郭模詐降、過儀、因漏泄其謀、達聞其謀漏泄、將擧兵、帝恐達速發、以書喩之曰、將軍昔棄劉備、託身國家、國家委將軍以疆埸之任、任將軍以圖蜀之事、可謂心貫白日、蜀人愚智、莫不切齒於將軍、躋詢射濮蠻法惟苦無路耳、模之所言、非小事也、亮豈輕之而令宣露、此殆易知耳、達得書大喜、猶與不決、帝乃潛軍進討、輻鮓醒g估鸞姥鮃宗宜觀望而後動、帝曰、達無信義、此其相疑之時也、當及其未定促決之、乃倍道兼行、八日到其城下、呉蜀各遣其將向西城安橋・木闌塞以救達、帝分輻魄糞之、
太和元年(227)六月、天子は帝に詔して宛に屯し、加へて荊・豫二州の躔鎧を督せしむ。 初めに、蜀の將孟達の降ふるや、魏朝の之を遇すること甚だ厚し。帝は達の言行傾巧なれば任すべからずを以て、驟(しば)々諫むるも聽かれず、乃ち達を以て新城の太守を領せしめ、侯に封じ、假節とす。達は是に於いて呉と連なりて蜀と固くし、潛かに中國を圖らんとす。蜀の相躋詢爾和兇糧進い鰒┐漾∨瑤紳兇隆気鰰すを慮る。達は魏興の太守申儀と隙有り、亮は其の事を促さんと欲し、乃ち郭模を遣はして詐り降り、儀に過り、因りて其の謀を漏泄せしむ。達は其の謀の漏泄せるを聞き、將に擧兵せんとす。帝は達の速やかに發せんことを恐れ、書を以て之を喩して曰く、「將軍は昔劉備を棄て、身を國家に託せば、國家は將軍に委ぬるに疆埸の任を以てし、將軍に任ずるに蜀を圖るの事を以てし、心は白日を貫くと謂ふべし。蜀の人の愚も智も、將軍に切齒せざる莫し。躋詢爾倭蠅で砲蕕鵑藩澆垢襪癲惟だ路無きを苦しむのみ。模の言ひし所は、小事に非ざるなり、亮豈に之を輕じて宣露せしめんや、此れ殆ど知り易きのみ」と。達は書を得るや大いに喜び、猶與して決めず。帝は乃ち軍を潛めて進討せんとす。輻髻達は二賊と交構し、宜しく觀望して後に動くべしと言ふ。帝曰く、「達は信義無し、此れ其の相い疑ふの時なり、當に其の未だ定めざるに及びて促(すみ)やかに之を決むるべし」と。乃ち道を倍にして兼行し、八日にして其の城下に到る。呉蜀は各々其の將を遣はして西城安橋・木闌塞に向かはしめて以て達を救はんとするも、帝は輻鬚鯤かちて以て之を距ぐ。
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