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近現代史綜合スレ
1
名前:
とはずがたり
投稿日: 2004/01/15(木) 18:45
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zinbutu.htm
近代史の人物に関するデータベース
http://sound.jp/jyosyuu/gunkayougokaisetu.htm
軍歌用語解説
戦後政治史ファン倶楽部
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/index.html
吸収したスレは
>>2-6
あたり。
311
名前:
千葉9区
投稿日: 2009/06/21(日) 17:49:27
http://www.okinawatimes.co.jp/news/2009-06-20-M_1-025-1_001.html?PSID=a12b3b95c354dfb914d0ea98f29a8692
「軽便」糸満駅確認 鉄道ファン、住宅密集地で/「戦禍免れ現存 驚き」
手洗いに弾痕も
【糸満】沖縄戦で破壊された軽便鉄道の糸満駅の一部とみられる建造物が糸満市照屋の住宅密集地に現存していることが19日までに分かった。元県立図書館館長の金城功さん(76)=那覇市=ら鉄道ファンのグループが調査し、トイレと浴室だった建物の下部部分を確認した。同鉄道の施設で現存しているのはほかに与那原町に1カ所のみ。糸満駅周辺は沖縄戦の激戦地で、金城さんは「あの戦争で破壊をまぬがれ、戦後60年余りも残っているのは驚き」と話している。(与那嶺功)
現存するトイレには、弾痕や便器、男性用小便器の間仕切り、排水用の穴などがみえる。浴室は職員用だったとみられる。戦後、上部が増築され、しばらく住民が利用していたという。
近くに住み、戦前の一帯をよく知るという伊敷喜栄さん(71)は「駅舎があった場所で、すぐ横をレールが走っていた。トイレだったのは間違いない」と話している。
調査に加わった桃坂豊さん(48)(福岡県文化財保護指導委員)は「今回の確認で、糸満駅の場所が特定できた。銃弾の跡が痛々しく、戦争遺跡でもある」と感慨深げ。
金城さんは「行政が標識などを立て、歴史的意義を広く知らせてほしい」と要望している。
軽便鉄道の施設では、JAおきなわ与那原支店の1階壁に、旧駅舎の一部分が再利用されている。
312
名前:
とはずがたり
投稿日: 2009/06/27(土) 15:22:02
左の日本が悪い,右の日本は悪くないと云う対立は不毛である。日本も英米も悪な訳である。
まあ実際に東京の非戦闘民を攻撃したのはアメリカだけど。
英、第二次大戦中に東京の毒ガス攻撃を検討 文書公開
2009.6.27 11:34
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090627/erp0906271135005-n1.htm
第2次世界大戦中の1944年に英当局が東京への大規模な毒ガス攻撃を検討していたことを示す文書が英国で公開された。英紙タイムズ(電子版)が26日に報じた。
タイムズによると、英政府の研究者は1944年5月の「ガス爆弾による東京攻撃」と題された文書で、英軍から提供を受けた東京の写真や情報に基づき、ホスゲンとマスタードガスの2種類の毒ガスを使った効果的な攻撃を分析した。
毒ガスの使用時期については、夏の大雨の合間を縫って攻撃できるのであれば「(冬より)夏の方が良い」と指摘。
また東京の住宅密集地域の道路は狭く、ガスの流れが阻害されるため「極めて多くの小型(毒ガス)爆弾」の使用を提言した。
東京への攻撃は、まず最初に焼夷(しょうい)弾を使って木造住宅が密集する地域で火災を起こした後で、近代的な建物が多い地域で、毒ガス攻撃を行うのが最も良い方法だとした。(共同)
313
名前:
小説吉田学校読者
投稿日: 2009/08/09(日) 00:59:52
インパール作戦は何のためだったのか。私も現代史の本は結構読んでるつもりだが、本当に何のためだったのか。
語り継ぐ夏:09京都/2 インパール作戦に従軍した桑原眞一さん /京都
http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20090807ddlk26040537000c.html
◇戦友慰霊が役目、鎮魂の五条通復元図作り−−桑原眞一さん(87)=下京区
「目の前で多くの仲間が倒れた。目玉が飛び出たり、腕を失ったり。即死もしょっちゅうだった。それでも怖いとか可哀そうとか考える余裕はなかった」。ずさんな計画で約7万人もの戦死・傷病者を出し、日本陸軍瓦解の発端とも言われるインパール作戦に従軍。何度も死線を越えた。
赤紙が届いたのは大学在学中の1941年12月。入隊後、大隊砲を任された。中国・南京西方で揚子江沿いの警備を約1年務め、ベトナム、カンボジア、タイへと転戦。中国への補給ルートを断つため、数カ月の行軍を経て44年2月末、インド北東部のインパールに着いた。
ここで、小銃隊はそれぞれ通常の2倍を超える20日分の米や乾パンなど食料と弾薬360発を持たされ、英印軍掃討のため、山間部の移動を繰り返した。戦況は泥沼。5月末には大隊砲の弾薬が尽き、戦闘だけでなく、飢えやマラリアで仲間がばたばた倒れた。
「時には敵と鉢合わせになり、手投げ弾でやり合った。迫撃砲がすぐそばの樹木に当たって爆発し、仲間が吹き飛ばされたこともある。毎日夕方の点呼の度、戦友が一人、また一人と減っていった」。自身もその後、イラワジ川会戦で迫撃砲の破片が左腰部分を直撃。命に別条なかったのが不思議なくらいだという。
そして、タイのノンプラドクで45年8月15日を迎えた。連隊長が停戦を命じ「次の命令があるから兵器を手入れしておくこと」と指示。すぐに敗戦のうわさが広がった。同月30日「敵に取られるよりはまし」と軍旗を「奉焼」した時、はっきり負けを悟った。全員ボロボロ泣いた。
それから約10カ月、英印軍の捕虜としてタイの兵舎で過ごし、46年6月に復員した。生まれ育った下京区の五条通かいわいでは「建物疎開」があり、空襲の延焼を防ぐため、以前の自宅は強制的に取り壊されていた。
多くの戦友の死を看(み)取った戦場から帰ってみれば、同じ小学校区から出征した同部隊の10人の中で生き残ったのは自分1人。仲間たちの死に対し、何もできないことを悔やんできたが、地元で07年8月に始まった五条通の復元図作りに加わり、少し当時を振り返る心の余裕ができた。
「通りを歩くと、どうしても昔を思い出す。戦友を慰霊することが生きて帰った自分の役目。地図を作ることで戦友らをしのぶ気持ちもあったんです」
その“成果”は9日まで立命館大学国際平和ミュージアム(北区)で展示されている。
314
名前:
とはずがたり
投稿日: 2009/09/01(火) 10:22:28
【正論】元駐タイ大使・岡崎久彦 「リベラル政権」の桎梏忘れるな
2009.9.1 02:58
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090901/stt0909010259002-n1.htm
≪政策変更には長大な時間≫
「一利を興すは一害を除くに如かず。一事を生(ふ)やすは一事を省くに如かず」という政治の要諦は、ジンギスカンに仕え、ユーラシア大陸空前絶後の大帝国である元帝国の基礎を築いた大宰相、耶律楚材(やりつそざい)の千古の名言である。
民主党新政権の発足を控えて、私がこの言葉を引用したいのには二つの理由がある。一つは過去のリベラルな政権が遺したものが長く日本国民の桎梏(しっこく)となった例があまりに多いからである。
民主党がリベラルな政権であるかどうかは今の時点ではよく分からない。ただ、民主党の中には左翼リベラルの流れを汲む人々が少なくないのも事実である。
戦後日本でリベラルあるいは左翼的な政権と言えば、三木、細川、村山、宮沢各内閣であろう。
三木内閣の残したものの中で、F−4戦闘機から空中給油能力を外したのを復元するのにはF−15の発注まで待たねばならなかった。防衛費の1%の枠を外すのには中曽根内閣まで10年を要した。武器輸出三原則の拡大解釈は三十余年を経ても今なお日米同盟の障害である。
また、三木総理が自分の靖国参拝を「個人の資格」でと言った結果、天皇の行事には公私の区別をつけるのが難しいので、戦没者慰霊のために戦後欠かさず続けられていた天皇陛下の靖国参拝がそれ以来妨げられている。それは、韓国、中国の反対で靖国が国際政治問題化する10年前の話である。
≪「自民党単独」の残滓も≫
細川内閣はさして負の遺産は残していない。1994年の北朝鮮核危機で日米間に不協和音が生じる恐れがあったが、内閣は自ら退陣して同盟の危機を避けた。それはそれなりに日本の国益に沿った立派な出処進退だったと思う。
村山内閣が、国会の多数の支持もないまま、一方的に発した村山談話が、その後日本外交に及ぼした足かせについては今更言うまでもない。
他に鈴木政権の教科書問題の時の宮沢官房長官談話、そして宮沢内閣の時の従軍慰安婦に関する河野談話は長く傷痕を残した。
315
名前:
とはずがたり
投稿日: 2009/09/01(火) 10:22:49
>>314-315
民主党政権は心して、このような後世の手を縛る一事を生むことを慎んでほしい。非核三原則の法制化などは、万一の場合によっては、国民に惨害をもたらす可能性をよく考えてほしい。党内の良識派も監視機能を発揮してほしいし、また、三木、村山政権と違うのは自民党という強力な野党が存在していることであり、自民党は国会で、そういう余計な一害が生じるのを避けるよう十分なチェック機能を働かしてほしい。
他方、省くべき一事としては、自民党支配半世紀の残滓(ざんし)は少なくない。
ただし、外交安保政策においては、他国との信頼関係維持のために、政権が代わっても一貫性が保たれるべきことは鉄則である。現に村山内閣といえども、就任早々日米同盟“堅持”の大原則を声明した。インド洋海上補給などは、民主党も支持している日米同盟の維持強化のための政策であり、省くべき一事とは性質が違う。
≪集団的自衛権に突破口を≫
しかし、むしろ同盟の信頼関係強化を損ねるような、自民党単独支配の残滓がある。その整理を民主党政権にお願いするスジかどうかわからないが、政権が代わったときこそかかる堆積(たいせき)物を整理する機会であり、そうでなければ、二大政党交代の意味がない。
その堆積物の最たるものは、集団的自衛権の行使は許されないという政府解釈である。
そもそも憲法の解釈権は、政府でなく、裁判所にあると憲法に書いてある。まして、国会が批准し、憲法が遵守義務を定めている国連憲章などの条約に明記してあるのだから、日本にはその権利がある。権利があって、その行使が許されないなどという解釈は法治国家ではあり得ないことである。
実は、選挙戦中の自民、民主の政策論争を通じて、集団的自衛権問題の一つの突破口が見えて来たかもしれないのである。
それは自民党のマニフェストが集団的自衛権という言葉を使わず、単に、日本を守っている米国を攻撃するミサイルを撃ち落とす、共同行動をしている米艦を守るという、常識で反対出来ない問題提起の仕方をしたからである。
もともと集団的自衛権が憲法問題だというのは、こじつけが重なって出来た解釈である。裁判所の有権解釈はすでに日本固有の自衛権を認めているし、集団と個別の間に線など引いていない。
民主党も、これは憲法問題とは無関係で、ただ日本国民の安全を守るにはどうするかという行政府の政策の問題だと割り切れば、それこそ自民党支配半世紀の残滓を一挙に解決することになる。
どうしても行使したくなければ、法的問題としてではなく民主党政権の間は政策として行使しないと言えば良いだけの話である。ただ、不測の事態を考えれば、それも言ってほしくはない。
とにかく国民の安全に一害を加えるのを厳に慎むことである。(おかざき ひさひこ)
316
名前:
とはずがたり
投稿日: 2009/09/15(火) 22:13:33
<河村名古屋市長>南京大虐殺「誤解されて伝わっている」 (毎日新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_takashi_kawamura__20090915_6/story/15mainichiF0915e071/
名古屋市の河村たかし市長は15日開かれた市議会9月定例会の一般質問で、1937年の南京大虐殺事件について、30万人以上が死亡したとする説について、「当時の南京の人口より多いので絶対違う」と否定し、「一般的な戦闘行為はあったが、誤解されて伝わっているのではないか」などと述べた。
河村市長は「おやじは終戦を南京で迎えた。南京の人に本当に優しくしてもらい、名古屋に帰ることができたと言っていた。30万人の虐殺があったら8年後に南京の人が優しくしてくれるのか」と疑問視。「一般的な戦闘行為で市民が亡くなったことはあった。捕虜収容所で放火があって市民が亡くなったり、残っている日本人を逃がそうとして銃撃戦になり、市民が亡くなった。そういうものが誤解されて伝わっているのではないか。事件そのものについて日中友好のためにきちんと検証し直す必要がある」となどと述べた。
東郷哲也議員(自民)の市長の歴史認識を問う質問に答えた。
河村市長は議会後、発言の真意について「日中友好を深めるため、正確なことを調べた方がいい。(死者数は)30万人説があれば、25万、3万もある。国会議員時代にも質問主意書を出している」などと語った。
河村市長は著書の中で、「南京大虐殺は国民党のプロパガンダだったかもしれないとか言っていると、『河村たかしは陰謀史観』とかいう声が聞こえてくる。ワシは特別変わったことを言っているわけではない」などと記している。
衆院議員時代の06年には、政府に対し「いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問主意書」を提出。教科書などに「市民や捕虜の殺害」などが記載されている根拠や、政府見解を改めてただした。当時の小泉内閣は「1937年の旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害または略奪行為等があったことは否定できないと考えている」と答弁書を出した。【月足寛樹、丸山進】
[毎日新聞9月15日]
[ 2009年9月15日14時14分 ]
317
名前:
とはずがたり
投稿日: 2009/10/04(日) 04:33:49
506 名前:無党派さん[] 投稿日:2009/10/02(金) 17:26:42 ID:0wwy023u
この前の「たかじんのそこまで言って委員会」で三宅久之が麻生と会って話した体験から、
言ってたけど、麻生はもの凄い楽観主義者で「もうすぐ給付金が国民に行き渡るから、
支持率は上がりますよ」みたいな態度だったそうだ。東條とそっくり。
東条英機首相
「大詔を拝し奉りて」
《およそ勝利の要訣は、「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、
我等は、未だ嘗つて戦ひに敗れたるを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる
強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。》
なかなか辞めようとしないところもそっくり。東條暗殺計画を相談された石原莞爾はそれに
賛同し、「あいつは殺しでもしない限り辞めないやつだ」と言ったそうだ。
そして、玉砕。
むかし東條、いま麻生w
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/giin/1246372643/84-86
318
名前:
とはずがたり
投稿日: 2009/10/25(日) 00:53:11
西松建設が基金設立で和解 中国人強制労働、謝罪も
10/23 12:36
http://www.shizushin.com/news/social/national/2009102301000020.htm
太平洋戦争中に強制連行され、過酷な労働を強いられたとして、中国人の元労働者ら5人が西松建設(東京)に1人550万円の賠償を求めた訴訟をめぐり、同社は23日、2億5千万円を信託して被害救済に向けた基金を設立し、謝罪することなどを条件に原告側と東京簡裁で和解した。
訴訟自体は2007年に最高裁で元労働者側の敗訴が確定したが、この判決が「被害者らの精神、肉体的苦痛は大きく、関係者には被害救済に向けた努力が期待される」と指摘したことを受けて、双方が協議。今回、訴訟とは別の「即決和解」手続きを取った。
戦後補償訴訟で、賠償責任を否定された企業側が自主的に金銭補償に応じるのは異例。同種裁判でのほかの被告企業にも影響を与えそうだ。
和解条項によると、西松側は強制連行の事実を認めた上で、企業としての歴史的責任を認識し、元労働者側に謝罪の意を表明。広島県安芸太田町の安野発電所建設工事に携わった原告ら360人の中国人元労働者を対象に、2億5千万円の「西松安野友好基金」を設立するほか、後世の教育のため記念碑を建立する。
元労働者らは1998年に提訴し、一審広島地裁で元労働者側が敗訴したが、二審広島高裁で逆転勝訴。最高裁判決は「日中共同声明で個人の賠償請求権は放棄された」として請求を棄却した。
西松側は、今年発覚したダミー団体による政治資金規正法違反事件を踏まえ「会社の今までの問題を見直す一環」として和解に取り組み、新潟県での強制労働をめぐる訴訟でも同様の和解を検討している。
319
名前:
とはずがたり
投稿日: 2009/10/25(日) 16:33:35
英国で「佐賀の乱」公文書発見 駐日大使が母国に報告
鹿島出身の徳本栄一郎さん発見
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1455771.article.html
明治政府に対する士族の反乱とされる「佐賀の乱」(1874年・明治7年)について記述したイギリスの公文書が英公文書館で見つかった。当時の駐日大使が英政府に送った報告書で、24枚の文書には佐賀の乱を単なる一地方の反乱ではなく、「明治新政府内の対立を背景にしたもので、結末に不満もあり、政府は信頼を回復していない」という内容が書かれている。外国高官の目で佐賀の乱を分析した貴重な史料といえる。
鹿島市出身のジャーナリスト徳本栄一郎氏(45)が今年6月、ロンドン郊外の公文書館で日本関連文書を閲覧して見つけた。佐賀の乱に関する外国公文書の発見は初めてとみられる。
報告書は1874年4月25日付で、幕末から着任していたハリー・パークス大使が英外務大臣あてに送っている。首謀者とされる江藤新平の処刑日から12日後の日付になる。
徳本氏によると、報告書は裁判の様子を記して「死刑に加えて江藤前法務卿と島(義勇)らはさらし首にされた。この判決は大きな不満も呼んでいるようだ」と指摘。政府軍に反抗した榎本武揚が後に特赦で要職に就いた例と比較して刑が重すぎるという意見を紹介、「佐賀の乱鎮圧で政府への信頼が回復したとは言えない」と分析している。
さらに大蔵卿大隈重信らの辞任や、鎮圧を指揮した内務卿大久保利通の動きを報告し、「新政府が分裂し、人々は個人的感情が(江藤処刑に)復讐の性格を与えたと考えているようだ」としている。
「佐賀の乱」をめぐっては、明治政府に不満を募らせた佐賀の士族が起こした反乱という通説に対し、明治維新史に詳しい毛利敏彦大阪市立大名誉教授は、大久保による謀略説を主張している。
県内でも初代司法卿で「人権の父」といわれた江藤が、功績に比べて不当な評価を受けているとし、「佐賀戦争」や「佐賀の役」と呼称変更を求める意見がある。佐賀市議会でも6月議会で中学歴史教科書の表記をめぐり議論した。
それらの議論に関心を持った徳本氏が、英国通信社勤務時から活用している英国公文書館に関連資料がないか調べた。
徳本氏は「英政府が維新直後で不安定な日本の情勢を気にしていたことがうかがえる。佐賀の乱が内乱に発展し、英国にとっても対日貿易で不利益を受けることを懸念していたのではないか。歴史を内側だけでなく、外からの視点でみることも大事だと思った」と話している。
【写真】「佐賀の乱」に関する報告書が見つかった1870年代の日本関連ファイル=英国公文書館で徳本栄一郎氏撮影
2009年10月25日更新
320
名前:
とはずがたり
投稿日: 2009/10/29(木) 09:44:34
歴史と云うには生臭いけど。
中曽根事務所が閉鎖へ 政治史の舞台また一つ消え
2009.10.29 01:10
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091029/stt0910290112000-n1.htm
国会近くの東京・平河町にある中曽根康弘元首相の個人事務所が今年中に閉鎖されることが28日、わかった。来年からは中曽根氏が会長を務める世界平和研究所(東京・虎ノ門)に拠点を移し、政治活動を続けるというが、自民党の一時代を築いた政治史の舞台がまた一つ消える。
中曽根氏の事務所がある「砂防会館」は、田中角栄元首相が率いる田中派(木曜クラブ)の本拠地だったことで知られ、現在も伊吹派(志帥会)や二階派(新しい波)が事務所を置く。
中曽根氏がここに事務所を構えたのは昭和42年。53年から同じフロアの現在の場所に移し、30年以上政治活動の拠点としてきた。
57年秋には自民党内で浮上した「中曽根総理、福田赳夫総裁」の「総総分離論」をけり、総裁選の予備選が実施された。中曽根内閣発足までの間の中曽根氏の一挙手一投足が注目され、事務所は中曽根派議員やメディア関係者で昼夜を分かたずごった返した。
首相在任中は首相官邸や自民党本部を拠点にしたが、退任すると再び事務所に戻り、ゴルバチョフ元ソ連大統領や全斗煥元韓国大統領ら多くの外国要人を迎えたほか、政局の節目では自民党の大物・中堅議員が常に出入りした。
平成15年の衆院選前には、当時の小泉純一郎首相が事務所を訪問し、引退を勧告。中曽根氏は「政治的テロみたいなものだ」と怒りを爆発させた。結局、56年にわたる議員生活から退いたが、その後も事務所で政治活動を続けてきた。
ただ、中曽根氏も91歳。政権交代により、自らも若手議員として首相に担ぎ出した故鳩山一郎氏の孫、鳩山由紀夫氏が首相になったことも一つの区切りと感じたようだ。今後は政党色を薄め、世界平和研で外交や経済の政策研究に力を入れる考えだという。
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