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近現代史綜合スレ

1 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/01/15(木) 18:45
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zinbutu.htm
近代史の人物に関するデータベース

http://sound.jp/jyosyuu/gunkayougokaisetu.htm
軍歌用語解説

戦後政治史ファン倶楽部
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/index.html

吸収したスレは>>2-6あたり。

2 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/01/15(木) 18:45
http://jbbs.shitaraba.com/study/2246/storage/1046858414.html
大東亜戦争
1 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/03/05(水) 19:00

大東亜戦争を史実を元に冷静に検証してみましょう。
主に
大東亜戦争開戦日(昭和十六年十二月八日)
から
サンフランシスコ講和条約発効日(昭和二十七年四月二十八日)
まで
の大東亜戦争そしてGHQの占領政策を分析してみましょう。
大東亜戦争から話題がそれても構いませんが、
大東亜戦争が話題の中心であることを忘れず
大日本帝国憲法施行日(明治二十三年十一月二十九日)
から
サンフランシスコ講和条約発効日(昭和二十七年四月二十八日)
まで
のことを話してください。

3 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/01/15(木) 18:46
http://jbbs.shitaraba.com/study/2246/storage/1071296674.html
旧日本領再考
1 名前: 日帝極右保守反動分子 投稿日: 2003/12/13(土) 15:24

旧日本領である
台湾、南樺太、朝鮮、南洋諸島などに
におけるかつての日本人の足跡を辿ってみましょう。

4 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/01/15(木) 18:46

http://jbbs.shitaraba.com/study/2246/storage/1071297789.html
満洲研究
1 名前: 日帝極右保守反動分子 投稿日: 2003/12/13(土) 15:43

満洲に関するスレッドです。
満洲に関する話題でしたら
高句麗からの歴代王朝、満洲国、満鉄、中国東北三省の現状
に関することなどなど何でも構いません。
満洲は古くは高句麗、近代では満州国と
日本と非常に縁のある地域です。
そんな満洲について皆さんで語ってみませんか?

5 名前:おりーぶの木 投稿日: 2004/01/15(木) 18:46
スレ立て乙でつ。
新撰組が始まりましたので幕末ものを改めて読もうと思っている今日このごろ。

6 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/01/15(木) 18:46

http://jbbs.shitaraba.com/study/2246/storage/1041730592.html
戦後の日本歴代政権の評価
1 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/01/05(日) 10:36

サンフランシスコ講和条約が発効して日本が主権を回復した
昭和二十七年(西暦一九五二年)四月二十八日以降の
日本歴代政権の政治を評価してみましょう。
ただし現政権は除きます。

8 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/01/13(月) 17:49
確認

吉田茂内閣 昭和二十七年(西暦一九五二年)四月二十八日から昭和二十九年十二月十日まで
鳩山一郎内閣 昭和二十九年十二月十日から昭和三十一年十二月二十三日まで
石橋湛山内閣 昭和三十一年十二月二十三日から昭和三十二年二月二十五日まで
岸信介内閣 昭和三十二年二月二十五日から昭和三十五年七月十九日まで
池田勇人内閣 昭和三十五年七月十九日から昭和三十九年十一月九日まで
佐藤榮作内閣 昭和三十九年十一月九日から昭和四十七年七月七日まで
田中角榮内閣 昭和四十七年七月七日から昭和四十九年十二月九日まで
三木武夫内閣 昭和四十九年十二月九日から昭和五十一年十二月二十四日まで
福田赳夫内閣 昭和五十一年十二月二十四日から昭和五十三年十二月七日まで
大平正芳内閣 昭和五十三年十二月七日から昭和五十五年七月十七日まで
鈴木善幸内閣 昭和五十五年七月十七日から昭和五十七年十一月二十七日まで
中曽根康弘内閣 昭和五十七年十一月二十七日から昭和六十二年十一月六日まで
竹下登内閣 昭和六十二年十一月六日から平成元年(一九八九年)六月三日まで
宇野宗佑内閣 平成元年六月三日から平成元年八月十日まで
海部俊樹内閣 平成元年八月十日から平成三年十一月五日まで
宮沢喜一内閣 平成三年十一月五日から平成五年八月九日まで
細川護煕内閣 平成五年八月九日から平成六年四月二十八日まで
羽田孜内閣 平成六年四月二十八日から平成六年六月三十日まで
村山富市内閣 平成六年六月三十日から平成八年一月十一日まで
橋本龍太郎内閣 平成八年一月十一日から平成十年七月三十日まで
小渕恵三内閣 平成十年七月三十日から平成十二年四月五日まで
  森喜朗内閣 平成十二年四月五日から平成十三年四月二十六日まで

7 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/01/15(木) 18:49
その他の関連スレッド

第四十回衆院選後の政局を振り返る
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2246/1039260401/l30

大日本帝国憲法改正新憲法制定
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2246/1042000975/l30

8 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/01/15(木) 18:52
>>5
幕末の激動から帝国主義,現代史と面白い話題は満載なのに余り盛り上がらないので統一スレッドを建てました。
『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』でも読んでみようかなあ。

9 名前:おりーぶの木 投稿日: 2004/01/15(木) 19:09
>>8
「世に棲む日々」をまだ読了してないのでそれを読もうかなあと思ってます。

10 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/01/15(木) 19:14
恥ずかしながら司馬遼太郎,なぜか(メジャー過ぎてかな?)まだ一冊も読んでないのです…。

時間が出来たら読んでみたいがどの辺から読んだらいいかな?

11 名前:おりーぶの木 投稿日: 2004/01/15(木) 19:30
>>10
やっぱ「竜馬が往く」でしょう。基本ですね。「関が原」もイイッすよ。

12 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/01/16(金) 17:39
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2246/1068688996/288
>1947年に日本進歩党が民主党(芦田均、犬養健ら)に衣替えしたときは、
>市場原理を重視する「日本自由党」と、弱者救済のために市場への国家介入を主張する「民主党」という、
>当時の感覚では保守右派と保守左派、今日で言う保守とリベラルに対応する分類になっていました。

この辺の話しですな。

(1945頃)   (1947-8頃) (1950)   (1952)  (1954)    (1955)       
日本自由党─┬民主自由党─自由党─────────┬─┬┐
______↓___↑___________日本自由党┤├自由民主党―→
日本進歩党―民主党─┴─国民民主党─改進党─日本民主党┴┘
_____________↑
日本協同党─国民協同党──┘

民主党
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/jiten.html#minsyutou
民主党は「進歩党で、幣原総裁に批判的な若手議員らを中心に、自由党内で吉田首相と対立していた芦田均を引き抜く形での新党結成が計画され、1947年3月31日、進歩党を母体に、自由党離党の芦田らに国民協同党や無所属の議員も加えて結成。修正資本主義的な中道政党の立場をとった」

民主自由党
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/jiten.html#minjitou
1948年3月15日、日本自由党119名と民主党,鯲ヅ泙靴進掌暁匹蕕悩遒詭閏腑ラブ36名、無所属その他4名が合同して結成(翌日6名脱党)。

13 名前:憲政擁護者 投稿日: 2004/01/17(土) 14:24
>>12
おお、早速こちらに議論を移して下さいましたか!まさしくその辺の話です。
反吉田派保守政党については、民主党スレからの以下のコピペをご参照下さい。

>仰る通り、大日本政治会系政治家が集った日本進歩党(1945-47)、戦前派政治家が復帰して生まれた改進党(1952-54)、
>脱吉田路線を掲げた日本民主党(1954-55)は、国家主義的傾向が見られました。
>しかし、進歩党は戦前派政治家の大量公職追放で壊滅的打撃を受けたため、路線転換を図り、
>後継政党たる民主党(1947-50)、及び国民協同党との合同で生まれた国民民主党(1950-52)は保守中道路線だったのです。
>また、立憲政友会と立憲民政党が政権を争った昭和初期は、むしろ政友会が国家主義的で、民政党が国際協調派でしたね。

14 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/01/17(土) 15:34
上の議論の引用とかの便もありますし一応民主党スレで議論は続けましょうか。
向こうでの議論が一段落したらこっちへリンク貼っつけときます。

15 名前:憲政擁護者 投稿日: 2004/01/18(日) 11:21
民主党スレの戦後史論も、第2保守党から吉田茂個人の話に移っています。
そこで、こちらで吉田の話をしたいと思います。

吉田は根っからの自由主義者であり、自由主義路線こそが日本の政治・外交の進むべき道と確信していました。
国際協調と自由貿易を進めることにより、世界や日本自身の発展を導くことができる、という訳です。
また、吉田は自由主義の強い英米との協調によってこそ、日本の自由主義が達成されると考えていました。
それ故に戦前は日英同盟の復活を熱望し、戦後は首相として日米安保条約を締結したのです。
とはいえ、決して米国追従の政治・外交を志向していたわけではありません。
現に首相在任中、GHQとは何度も渡り合っています。

吉田は自由主義者として、極右・極左両方の全体主義を毛嫌いしていました。
戦時中に終戦工作をして憲兵に捕まったり、マッカーシー旋風に併せて共産党幹部を公職追放したのです。
因みに、吉田は広田弘毅内閣で外相に起用される予定が、自由主義者故に軍部に話を潰されました。

ただ、吉田は自由主義者ではあっても、議会軽視と批判されるなど、民主主義者ではなかったと言われています。
古典的な自由主義者として、「民主政治は無知蒙昧な大衆による衆愚政治を招く」と考えていたようです。
ですから、吉田を「自由主義者」ではなく「リベラリスト」と書くと、今日の感覚では間違っていることになります。
またそれ故にエリート嗜好で、池田勇人や佐藤栄作に代表される官僚を次々と議会に送り込んで登用し、
大衆迎合的で政治理念がないとして戦前派党人政治家をこよなく嫌っていました。
因みに、河野一郎が吉田に嫌われた筆頭格でしたが、孫の麻生太郎が河野の息子・洋平の側近となったのは皮肉ですね。

一方で吉田は明治人の気風を持ち、日本の伝統を愛する民族主義者でもありました。
これは実父が土佐藩士で自由民権運動に携わったことと、大久保利通の次男・牧野伸顕が岳父だったことが影響しています。

吉田はよく、「軽武装経済優先路線」を築いたと言われますが、吉田本人の意図は違ったといわれています。
つまり、日本に共産主義革命が起こらない様にするために、当面は民生の安定が最優先であり、再軍備の余裕はないが、
それ相応の経済力を持つに至った場合には、専守防衛のための軍隊を持つべきである、と考えていたようです。
これは数々の国会答弁では触れていないので、そういう誤解も無理ないでしょう。

因みに私の思想は、吉田茂に関する著作を読み漁ったことが大いに影響しています。

16 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/01/18(日) 11:37
> 国際協調と自由貿易を進めることにより、世界や日本自身の発展を導くことができる、という訳です。
まあこの辺は賛成ですね。経済繁栄すればこその弱者救済も可能と思ってますので,自分の中で左翼と自由競争は矛盾しません。

民主政治が衆愚政治に堕する危険もよく理解できますが(ばらまきの自民党政治がだらだら続く様はまさに),有権者の見識を期待しております。

17 名前:憲政擁護者 投稿日: 2004/01/19(月) 00:54
>>16
これは「参加民主政治論」の受け売りですが、
有権者の見識というのは、やはり政治参加の教育効果によって得られるものだと思います。
しかし、専門知識の多い国政レベルでの直接的政治参加には難があるので、
生活に身近で、一般有権者の判断し易い、基礎自治体レベルから始めるべきでしょう。
戦後日本は民主化が進んだと言っても、まだまだこの点で遅れていると思います。

18 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/03/04(木) 21:23
http://www2.asahi.com/senkyo2003/localnews/kagawa/OSK200310140025.html
《検証 香川の総選挙史:上》小選挙区制で「自民王国」

 香川は、3つある衆議院小選挙区を自民が独占し、他党の国会議員がいない「自民王国」だ。しかし、かつて70年代には、県知事と高松市長が「革新」で、野党勢力を勢いづかせていた。どこにターニングポイントがあったのか。政権交代を問うといわれる今回の総選挙を前に、香川の選挙史を振り返る。まずは革新の動きから。

 「前川さんをかつぎ出した社会、共産、公明、民社各党幹部のどの顔もゆるみっ放し。そこへかけつけた革新の脇信男・高松市長と『新しい地方政治をやろう』とがっちり握手した」(74年8月27日付朝日新聞)

 元香川大学長の故前川忠夫氏(09〜88年)は野党4党に推され、この年の知事選で7選を目指す現職を破って初当選した。

 元社会党衆院議員の三野優美(よしみ)さん(72)は振り返る。「このころは『政権が取れる』という情熱にあふれていた」

 この時代、香川の革新の「看板」は、三野さんが秘書としてつかえた故成田知巳氏(12〜79年)だ。香川郡多肥村(現高松市多肥上町)生まれ。東大から三井鉱山などを経て、47年に旧香川1区で初当選。以後76年まで12回連続当選し、社会党委員長に上り詰めた。

 故脇信男氏(19〜97年)は、成田氏の秘書から高松市長になった。71年に社共共闘で初当選し、連続6期。全国革新市長会長も務めた。

 前川氏の知事当選は、脇氏の初当選から3年後のこと。「社会・公明・共産・民社」の4党共闘は当時でも珍しかった。以来3期12年、憲法擁護を看板に掲げて県政を担った。

 81年9月の朝日新聞に掲載された「新人国記」で、前川氏は「香川の革新の強さ」をこう語った。「琴平などは早くから全国の人が集まって都会化し、進歩的な人が多かった。農民運動も昔から盛んだった」。こんぴらさんに代表される「都会」としての活気が、革新を支えたという見方だ。

 それがなぜ、30年の時間の中で「自民王国」に変貌(へんぼう)したのか。

 三野さんは「小選挙区制のためだ」と憤る。三野さんは86年、90年、93年と旧香川1区で3期連続当選し、成田氏以来の社会党の議席を守った。

 しかし、与党となった細川政権時代の94年1月、小選挙区比例代表並立制を導入する政治改革4法が成立。三野さんは党議に従わず、本会議で反対票を投じたが、流れは変わらなかった。

 一方、共産党県委員会の田村守男委員長(54)は「最初は『反自民』で県政をつくったのに、前川さんの引退後、社会党は自民と手を握った」と社会党を批判する。

 政権が取れると思った時代に取れず、取ったと思えば流れが急転する。自社さ政権が誕生すると、社会党は衰退。96年の選挙で、自民が香川の3小選挙区を独占。その時、社民党(旧社会党)は、四国全体で議席を失っていた。
 (10/12)

19 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/03/04(木) 21:23
http://www2.asahi.com/senkyo2003/localnews/kagawa/OSK200310150039.html
《検証 香川の総選挙史:下》「大物」消えて調整の時代

 香川の革新・中道勢力は、成田知巳氏や、旧民社党を結成した西尾末広氏(1891〜1981)らを生んだ。

 一方で保守勢力も、総選挙中に急死した総理大平正芳氏(10〜80年)や、保守合同による自民党誕生に一役かった三木武吉氏(1884〜1956)といったそうそうたる面々が活躍した。

 しかし、こうした重鎮が舞台を去った80年代以降、政党や派閥の「大物」は生まれていないといっていい。

 「最近、口角泡を飛ばしておらぶ(叫ぶ)ような演説会がなくなったね。候補者に熱意がなくなった」。自民党県連の木村嘉己幹事長(74)は、そう話す。「落ちる心配がないからかな」という声もある。

 中選挙区時代、旧香川1区は成田知巳氏が長い間議席を確保。残る2議席を自民の木村武千代、福家俊一、藤本孝雄の3氏が激しく争う時代が続いた。旧2区も、70年代の初めごろまで福田繁芳、加藤常太郎、大平正芳の3氏によるつばぜり合いが展開されていた。

 総選挙となれば「自民の敵は自民」。自民の県議でも、代議士の系列が違うと選挙中は口をきかないとまでいわれた。その激しさが大物を生む素地にもつながった、と木村氏は言う。

 しかし、1選挙区で1人しか当選しない小選挙区制度が導入されると、選挙前の調整で「勝負」がつくようになった。旧2区でライバルだった大野功統氏(67)と森田一氏(69)は、森田氏が比例ブロックに回ることで折り合いがついた。前回、無所属で出馬した平井卓也氏(45)と現職藤本孝雄氏(72)の争いも、平井氏が当選して自民入り後、藤本氏が比例に回って収まった。

 この安定感をどう崩すか。近づく解散に備え始めていた連合香川の幹部はこの6日朝、新聞各紙を読み比べて顔をしかめた。「民主・自由の合併大会」が1面トップと思ったのに、若い石原国交相の「道路公団総裁を更迭」に押しのけられていた。幹部はうなった。「小泉内閣はうまい」

 小選挙区制は、中選挙区制よりも政権交代の可能制が高まるともいわれる。その中では、政治家個人よりも政党のイメージをどうアピールするかが重要な鍵を握る。

 一方で、「個」が政治に大きな波紋を投げかけるケースが地方から起きてもいる。そのひとり、田中康夫・長野県知事は民主党の立候補予定者を応援するため訪れた高松市で講演し、こう話した。

 「小異を捨てて大同につくという言葉がある。私はこれはあまり好きじゃない。小異を捨てる必要はない。小異を抱えながらも大同につくっていうことです。それは自分を捨てるってことじゃないです」
 (10/13)

20 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/06/21(月) 02:00
杉原千畝記念館入館10万人!
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040620-00000007-cnc-l21

八百津町八百津の「杉原千畝記念館」の有料入館者数が19日、10万人を突破し、10万人目の愛知県の男性と前後の2人に、記念品が贈られた。開館4周年を前にしての達成となった。

 記念館は、第2次大戦中に“命のビザ”を発給して多くのユダヤ人を救った同町出身の外交官・故杉原千畝氏の功績を伝えようと、2000年7月に開館。ビザや写真、肉声テープなどを展示している。

 10万人目となったのは、愛知県半田市の無職古川正春さん(92)。1人前は、三重県鈴鹿市の主婦豊田久乃さん(30)、10万1人目は名古屋市の会社役員桑原恵子さん(65)。

 赤塚新吾町長らと一緒に記念館前でくす玉を割って節目を祝した後、記念品として八百津せんべいやみそ漬けなど町特産品のセットが贈られた。古川さんは、「杉原さんの足跡を以前から見てみたいと思っていた。(10万人目となって)感無量です」と喜んでいた。

 町によると、最近は県内や愛知県の中学や高校の見学も多く、イスラエルからの来館者も増えているという。(中日新聞)
[6月20日11時24分更新]

21 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/07/05(月) 20:50
下山事件で浮上、「ライカビル」解体 姿消す戦後史舞台
http://www.asahi.com/national/update/0705/019.html

 昭和史上最大の謎とされる下山事件が5日で55年を迎えた。連合国軍総司令部(GHQ)直属の日本人情報機関のアジトがあった通称「ライカビル」(東京都中央区日本橋室町3丁目)の解体作業が始まった。米軍将校や右翼関係者が出入りし、同事件の「謀略の拠点」として当時の東京地検も注目した。自他殺の結論が出ないまま半世紀がすぎて老朽化が進み、「戦後裏面史の証人」は姿を消す。

 戦前から残るビルはれんが壁の5階建て。「日本に3台しかない」と記された蛇腹式扉のエレベーターのほか、4階に巨大な金庫もあった。石造りの階段の床面はすり減っていた。

 事件が起きた1949年当時、1階にカメラのライカを取り扱うシュミット商会があり、「ライカビル」と呼ばれた。2〜4階は貿易会社「亜細亜産業」。GHQ直属の謀略機関「キャノン機関」につながる日本人情報機関の役割を担った、とも言われる。

 事件のあった7月5日午前9時半すぎ、国鉄総裁の下山定則氏が消息を絶った三越はビルの南約200メートル。ビル隣の建物にある地下鉄出入り口は地下道で三越につながっており、疑惑を深めた。

 下山総裁は翌日未明、足立区内の常磐線の線路上で轢死(れきし)体で発見された。衣類にぬか油と塩基性の特殊な染料が付いていた。朝日新聞が入手した東京地検の内部資料には、東京工業薬品染料協同組合名簿から63社がリストアップされ、ライカビルだけ「×」印があった。

 キャノン機関ナンバー2で米バージニア州に住むビクター松井氏(当時76)は99年秋、朝日新聞の取材に「キャノン機関は事件にはかかわっていないが、私もライカビルへは出入りした。右翼や大陸浪人、GHQ関係者らが交わるサロンのような存在で、キャノン専用の小部屋もあった」と証言していた。

 亜細亜産業は東南アジアから生ゴムを密輸したり、北朝鮮との密貿易で共産圏の情報を収集したりしていたという。同社は事件後に閉鎖され、社長は98年に死亡した。

 庶務課長を務めたことがある社長の弟(83)は「兄がどういう仕事をしていたかは知らない。ビルが取り壊されるのは寂しいけど、歴史ということだね」と話す。

 昨年、ビルを購入した不動産会社は「昭和史の裏舞台だったとは知らなかった。レトロな雰囲気にひかれたが、老朽化が激しかった」。6月下旬から解体を始めた。再開発計画は白紙だ。

 〈下山事件〉 国鉄が約3万人の人員整理を発表した翌日の1949年7月5日、下山定則・初代国鉄総裁が自宅を出たあと、東京・日本橋の三越に入ったまま行方不明になった。翌6日午前0時20分ごろ、足立区の五反野付近の国鉄常磐線北千住―綾瀬間の線路で遺体で発見された。東大の鑑定は「死後轢断」と他殺説の根拠となる結果を出した。しかし自殺説の根拠となる「生体轢断」との主張も他の法医学者から出され、米情報機関による謀略説も取りざたされた。 (07/05 16:04)

22 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/08/06(金) 01:02

おいおい。凄いねぇ。血盟団事件ってのはまだ現代史なんか?!

歴代首相指南役、四元義隆氏が死去…血盟団事件で服役
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040805-00000512-yom-soci

 戦後、歴代首相の指南役と言われた四元義隆(よつもと・よしたか)元三幸建設工業社長が6月28日、老衰のため、神奈川県鎌倉市内の病院で死去していたことが5日、わかった。96歳だった。

 告別式はすでに、親族だけで済ませた。

 四元・元社長は、東大在学中の1932年、井上準之助・元蔵相らが暗殺された「血盟団事件」にかかわったとして、殺人罪で実刑判決を受けて服役。その後、近衛文麿、鈴木貫太郎両元首相らの秘書を務めて政界とのつながりを持ち、戦後、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作ら歴代首相と親交があった。中曽根康弘・元首相の在任中には「ご意見番」と呼ばれ、その後も、政治の舞台裏で活躍した。

 55年に三幸建設工業(東京都中央区)の社長に就任。2000年から会長となり、昨年4月に退任した。(読売新聞)
[8月5日21時53分更新]

23 名前:さむらい 投稿日: 2004/08/16(月) 23:38
戦後の日本は日本国憲法に守られたのではありません。
自衛隊、在日米軍、日米安保、
核の傘
つまりもし他国が日本を攻撃したら
アメリカは核(在日米軍基地に恐らく配備されているであろう核)を
使うかもしれないぞというプレッシャー
があったからこそ守られたのです。
実際これらの力の空白の生じた
南樺太、千島列島、歯舞諸島、色丹島、竹島
も侵略されてそのままになってますしね。
(樺太、千島守備隊がいましたが一旦武装解除しましたし
 南樺太、千島列島、歯舞諸島、色丹島を守るという意味では
 大量のソ連軍には無力でしたからね。
 あれだけの軍隊あのような補給等の状態から
 ソ連軍の北海道上陸を阻止したことはすごいことだと思いますが。 )
確かに吉田茂の軽武装主義で国防費の負担が少なくなり
経済復興、経済発展を成し遂げましたが。

24 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/08/26(木) 00:34
AFPが復活60周年 パリ解放5日前、奪還秘話を配信 
http://www.asahi.com/international/update/0823/006.html

 フランス通信社(AFP)が20日に「復活60周年」を迎えた。1944年8月の「パリ解放」5日前、ドイツ監視下にあった仏情報公社(OFI)を元記者らのレジスタンスが自力で奪い返した。

 AFPは、1835年にできた世界初の情報配信サービス業、アバス通信が前身。1940年にフランスを占領したドイツは同通信をOFIに改め、対独協力政権の宣伝メディアにした。

 AFPが18日に配信した「奪還秘話」によると、44年8月20日朝、アバス時代の社員ら約10人がパリのOFI本部に自転車で乗りつけ、内部に突入した。驚く10人ほどの編集部員を前に、演説を始めたのは実行グループの最年長で、後に初代社長となるマルシャル・ブルジョン氏だ。

 「動かないで。みなさんは今後、ドイツ人のためではなくフランスのために働くことになる」

 ドイツの検閲官をみんなで地下室に閉じ込め、この日を待ちわびていた新聞人たちに電話した。

 記念すべき初配信は同日午前11時30分。「自由な新聞が続々と生まれそうだ。フランス通信はそのために初の配信を始める」。記事はタイプで打たれ、レジスタンスや地下新聞の拠点に自転車で届けられた。AFPの名もこの時からだ。

 現在、165カ国に取材拠点を持ち、ロイター通信(英)やAP通信(米)と並ぶ大手。欧州のほか中東やアフリカなどに濃密な情報網を築いている。

(08/23 19:18)

25 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/10/10(日) 14:57
中国、阿波丸を来年引き揚げへ・北京原人の頭骨探す
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20041009AT3K0902409102004.html
 太平洋戦争末期の1945年4月、台湾海峡で米軍潜水艦に撃沈された日本の大型貨客船「阿波丸」に北京原人の頭骨化石が積まれていた証拠があるとして中国が来年、海底に沈んでいる阿波丸を再度引き揚げて頭骨を探す準備を始めた。新華社電が9日、伝えた。

 50万―20万年前と推定される北京原人は脳の大きさから現代人と猿人のほぼ中間とされるが、頭骨は66年に発見された後頭骨と額の骨だけが残存。30年代に北京郊外の周口店で発見された五つの頭骨は41年に行方不明になっており、行方を探る努力が続けられている。

 北京原人の専門家で引き揚げ計画にも加わる李樹喜氏は、具体的な「証拠」については言及しなかったが、米国政府から提供された資料を分析した結果、阿波丸に頭骨が積まれていた可能性が高まったと指摘。撃沈から60年を迎える来年、これらの資料を公開し、引き揚げ作業を行うという。 (19:27)

26 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/10/13(水) 17:21
あった無かったの水掛け論は不毛だと思うが…

抗議受け漫画休載 南京大虐殺めぐり集英社
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041013-00000094-kyodo-soci

 「週刊ヤングジャンプ」で連載中の漫画「国が燃える」(本宮ひろ志氏作)に登場した南京大虐殺の描写に対し、地方議員グループが「歴史を歪曲(わいきょく)している」と抗議したのを受け、発行元の集英社は13日、28日発売号から当分、この漫画を休載することを明らかにした。
 集英社は「描写の参考にした写真は『ねつ造された』との指摘もある。そういう資料を使ったのは不適切だった」としている。
 「国が燃える」は昭和初期の官僚の半生を描いたフィクションで、2002年11月から連載。9月16日発売号と22日発売号で、旧日本軍が南京で市民らを殺害する様子を描いた。
(共同通信) - 10月13日12時39分更新

27 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/10/16(土) 12:21
大町に疎開の「木崎会」が最後の里帰り
http://mytown.asahi.com/nagano/news02.asp?kiji=4755

 第2次世界大戦末期に東京都世田谷区から大町市の木崎湖畔に疎開した児童でつくる「木崎会」(約80人)が結成20周年を迎え、32人の会員がこのほど、大町市などに12回目の「里帰り」をした。里帰りのたびに老人ホームへの慰問や祭りへの参加を続け、世田谷区の区民まつりに同市の特産品の出展を持ちかけるなど、自治体を結ぶ橋渡し役も果たしてきたが、会員の高齢化などを理由に会としての里帰りは今回が最後になるという。

 木崎湖畔には44年8月から45年11月にかけて、世田谷区の多聞、祖師谷、塚戸、砧の4国民学校の児童延べ500人近くが九つの民宿に分宿する形で疎開していた。木崎会は84年、「40年ぶりの里帰り」を機に発足し、おもに隔年で里帰りを続けてきた。

 里帰りのたびに、「当時お世話になった感謝の気持ちを表そう」と、市内の養護老人ホーム「鹿島荘」を慰問し、寄付金を贈ったり、会員がダンスを披露したりするなどして交流を進めてきた。寄宿先の民宿は代替わりがあるものの、同世代の経営者やおかみさんたちと旧交を温めている。

 先月末の2泊3日の里帰りでは、結成当初の高橋恭男元市長や市幹部らを招いて、湖畔の温泉施設で20周年記念パーティーを開いた。席上、腰原愛正市長から「市と区の橋渡し役に尽くした」などとして、感謝状などが贈られた。45年5月から第3次の疎開先になった北安曇郡白馬村の旧神城国民学校(現白馬南小学校)なども巡った。

 会は、当時の6年生らが中心になって結成され、70歳前後の人たちがほとんどという。会長の阪上順夫・東京学芸大名誉教授(72)は「私たちもいつの間にか老人ホームにお世話になる世代になった。会としては最後だが、元気な者同士、声を掛け合って里帰りを続け、区と市の交流も続いてほしい」と話した。

 疎開当時、砧国民学校5年生だった浜砂和子さん(70)は「冬に軒先のつららがどんどん大きくなるのにびっくり。ガラス戸のない破れ障子から吹き込む風が冷たかったけど、全面結氷した湖面でげたスケートをしたり、氷がせり上がる御神渡り現象も見られたりして楽しかった」などと、思い出話に花を咲かせていた。

(10/15)

28 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/10/17(日) 23:38
対米開戦通告の遅れ、最終電文修正が一因 元大使が新説

 昭和十六年の日米開戦で最後通告の手渡しが遅れたのは、軍部と外務省本省による工作があったからだとする研究報告が十六日の日本国際政治学会で発表された。真珠湾攻撃が米国から「だまし討ち」と非難された原因が、駐米日本大使館の怠慢にあったという通説の見直しを求めるもので、米大統領から昭和天皇にあてた親電を軍部と本省が差し止めて最終電文を修正したことが通告遅れにつながったと指摘している。
 兵庫県東浦町で開かれた同学会で、元ニュージーランド大使の井口武夫・尚美学園大教授(日本外交)が発表した。
 昭和天皇あてのルーズベルト大統領親電が東京電報局に届いたのは開戦直前の十六年十二月七日正午。井口氏は、親電の暗号が平易だったため午後三時ごろには、親電の解読を終了していたと推論。午後五時に、十四部構成のうち駐米日本大使館への打電が保留されていた最後通告部分の「十四部」を東京電報局から発電した。このため、「時間的には符合する」として、親電解読と最後通告修正の関連性が認められると指摘している。
 十四部は電文の十三部までが打電されたあとも本省で約十五時間保留されていたが、軍部の圧力を受けた本省が大統領親電を解読し、この内容を検討して十四部に修正を加える必要があったからだと初めて指摘。また軍部と本省が大統領親電を解読していた根拠として次の状況を挙げる。
 グルー駐日米大使が東郷茂徳外相に外相公邸で大統領親電を手渡したのは八日午前零時半。この後、東郷外相が首相公邸で昭和天皇への上奏文を東条英機首相に見せたのが午前二時。移動時間(十五分程度)を差し引けば、わずか一時間十五分で昭和天皇への上奏文を外相が決裁したことになる。井口氏は「事前に親電を解読し、要約を作成していたから可能だった」と推論する。
 大統領親電が一見和平を呼びかけながら仏印からの全面撤退を要求する強硬な内容だったため、軍部の開戦決意は一層不動のものになった、と井口氏は分析している。
 結局、十四部は原案で「合衆国政府が現在の態度を持続する限り今後交渉を継続するも妥結に達するを得ず」と条件付きで交渉を打ち切る内容だったが「合衆国政府の態度にかんがみ今後交渉を…」と単刀直入に交渉を打ち切る文面に修正されていた。井口氏は「親電内容が判明した時点で修正を加えたもので最終的な通告の遅れにつながった」と指摘している。
 波多野澄雄筑波大教授(日本外交史)「軍部の圧力の有無は立証が不十分で、さらに検討が必要だ。ただ解読した大統領親電を最後通告の十四部に反映させた可能性は十分あり、通告遅れの責任を現地の日本大使館だけに押し付けるのは無理があろう」
(産経新聞) - 10月17日3時9分更新

29 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/10/18(月) 19:52
>>28
ソース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041017-00000001-san-soci

30 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/11/30(火) 23:11
宮崎の人でしたか。

小村寿太郎しのび、墓前祭−−日南 /宮崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041130-00000165-mailo-l45

 日南市飫肥出身の外交官、小村寿太郎(1855〜1911)の命日の26日、同市楠原の墓地で墓前祭(小村寿太郎侯奉賛会主催)があった。市や地元関係者、遺族ら約20人が墓前に玉ぐしを供え、「誠(まこと)の人」の遺徳をしのんだ。
 来年は小村寿太郎の生誕150年、小村が日本全権を務めた日露講和条約締結100年。市や県、民間で各種の記念事業が計画されている。遺族の小村幸子さん(75)=飫肥2=は「侯の誠、正直を子供たちに伝える機会になれば」と話した。

11月30日朝刊 
(毎日新聞) - 11月30日17時50分更新

31 名前:無党派さん (/3J5SzQQ) 投稿日: 2004/12/08(水) 19:01
少しテーマ外ですが・・・

国会図書館、ウエブサイトも06年から保存へ
http://www.nikkei.co.jp/news/past/honbun.cfm?i=AT1E04008%2007122004&g=P3&d=20041207

 国内で出版されるすべての書籍・録音物を収集・保存している国立国会図書館が2006年から対象をホームページ(HP)などウェブサイトにも広げる。ネット時代を迎え、情報伝達手段としてのHPの役割が大きくなっているにもかかわらず、随時更新などによりデータが消滅していることを懸念。電子データの形で保存することにした。2008年をメドに一般利用者の閲覧も認める方針だ。

 収集には、ネット上の住所に当たるドメイン名を手がかりに、ネット内を自動検索してデータベースに取り込むソフトを用いる。当面は国内発を示すドメイン名が「jp」で終わるサイトを読み取り、状況を見ながら、範囲を拡大するかどうか検討する。日々変わるサイト内容を逐一追い続けることは困難なため、収集期間を設定。毎年1月から3カ月程度かけて、その時点の内容を読み取るなどの措置を検討している。

32 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/12/08(水) 19:08
ほう,これは興味深い。>>31
個人的に更新による情報散逸は悲しむべきものだと思ってましたから。HPは基本的に雑誌みたいなものだし読み捨ての部分も大きいけど図書館は一部の雑誌はちゃんと保存の対象にしてますしねぇ。
「選挙でGO」の過去の履歴などどっかに全部残しといて欲しいものでした。

あとスレ違い等は余り気にせず書き込んで下さいな。俺が適当なところに貼り付け直したりしますし。

33 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/12/14(火) 15:08
旧三井御三家だけに新御三家,物産・銀行・不動産辺りがカネ出すべきか?

「三井港倶楽部」が閉館 炭都繁栄の象徴 所有の三井鉱山 売却先募る 大牟田市
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041214-00000075-nnp-kyu

 産業再生機構の支援を受けて再生中の三井鉱山(本社東京)は十四日、福岡県大牟田市西港町に所有する明治建築の洋館「三井港倶楽部(くらぶ)」を売却したい考えを明らかにした。港倶楽部は三池港に出入りする外国航路の上級船員の宿泊所として建てられ、三池炭鉱で栄えた「炭都」の歴史を今に伝える建物。九州を代表する洋館でもある。現在、同社は結婚式場やレストランとして活用しているが、営業は二十五日で終了する。「現在の形のまま維持してくれるところがあれば」と引き受け手を募っている。

 港倶楽部は一九〇八(明治四十一)年に建てられ、三池炭鉱の主力坑・三川鉱の東隣に位置する。木造二階建てで、木組みの幾何学模様が白い外壁を飾る「ハーフティンバー」様式が特徴。三井系企業の社交場としても使われ、かつてはビリヤード室やボーイ部屋もあった。

 三井鉱山は昨年、同機構の支援が決まって以来、石炭やコークスの輸入販売・製造など主力事業以外の業務の整理に着手。今年八月には港倶楽部を管理運営してきた子会社の株式を売却し、倶楽部の経営は三井鉱山が行ってきた。倶楽部の営業は二十五日のランチが最後となる。

 同社は「社内でも閉館を惜しむ声は強い。公共性と歴史のある建物として今後も活用してほしい」と話している。
(西日本新聞) - 12月14日14時32分更新

34 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/12/15(水) 12:36
こんなページみっけた。

昭和の注目の選挙区
http://www.geocities.jp/showahistory/history3/58e.html

35 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/12/15(水) 14:52
こんなページも
むしろ面白かったのは筆保書記長の本音トークの部分。

救国のキリストか銀座のドンキホーテか
愛国党総裁 赤尾敏 24時間密着取材!
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/right1.htm

 しばらく、立ち話をした。私が、大喪の礼の日に見かけた金ピカ右翼の話をすると、「ああ、いいところに気づきましたね」と、腹にすえかねているものを吐き出すかのように、喋りはじめた。
 「今の右翼はもう、任侠右翼ばっかりですよ。ヤクザが右翼のふりをしている。だから、世間の右翼に対するイメージがどんどん悪くなっていく。真面目に政治活動やっているものが迷惑してるんです。だいたい、任侠の連中のやっていることは、要するに恐喝、ゆすりたかりだからね。街宣車買うと、頭金だけ払って残りは払わないし、マンションに事務所を構えると家賃を払わず、結局、大家がカネを積んで出ていってくれと頼むまでいすわる。そしてそのカネを握ると、その後もよそへ行ってまた同じことをやる」
 戦前の右翼と戦後の右翼を大きく分かつのは、一つは資金源の問題である。戦前は軍部と財閥が大きな資金源だった。戦後はそのルートが絶たれ活動は低迷するが、岸政権の時代の前後から、自民党と財界が左翼つぶしのために新たに資金を提供するようになる。その地下水のようなカネの流れのメカニズムは、ロッキード事件で児玉誉士夫が摘発され、一端が明るみに出たが、その後も日を追って街宣車の数が増えてゆくのを見ると、ガソリン代を提供するパイプはますます太くなりつつあるらしい。
 「街宣車が急に増えたのは、ロッキードの頃でしょう。あの頃、『田中打倒!』ってやってたら、公安じゃなくてマル暴の捜査四課が出てきて、『お前らが田中内閣打倒とか、自民党攻撃とは何事だ!』と言って取り締まりしてましたよ。警察はもう、自民党べったりだから。『お前ら右翼は、日教組と共産党だけ攻撃してればいいんだ』と、はっきり言う警察署長もいますしね」
 「この頃では、右翼というのが本来、純然たる政治活動だということがわからなくて、ただのシノギの一種だと思ってるヤクザも多いんですよ。愛国党でも、地方の支部なんかは地元のヤクザに嫌がらせをされて、迷惑してるんです。ここは俺たちの縄張りだからカネを出せって。政治活動に縄張りなんかあるわけないでしょう。それで断ると『覚えとれよ』と。広島や福山では、ウチの党員が地元ヤクザにバットでめった打ちにされたり、包丁で背中を刺されるという事件も起きてるんです。その後? いやこれは刑事事件ですから、警察に処置を頼みましたけど……任侠右翼とまともに正面からぶつかったら……やはり損でしょう……」
 「世の中、いったいどうしちゃったんだろうねえ……。70年安保の頃までは政治に熱気があった。左も右も人をひきつけたものだけど。昔は、街宣やってても人が集まったんですよ。何百人という人が赤尾総裁の演説を聴いてくれた。演説が終わると拍手がわきおこってね。新聞売るのでも、人が殺到してさばききれなかったくらい。それも安保がすぎたら、ぴたーっと人が集まらなくなった。この5年くらいは特にひどい。一人も聴衆がいないときもる。本当にどうしちゃったんだろう……ねえ……」
 私たちをぼんやり照らしだす、街頭の白い酷薄な光を、筆保は嘆息とともに見上げた。
 でも、と私は言った。天皇の御不例から崩御、大喪の礼に至るまでの国民の反応を見て、右翼は活気づいたんでしょう? あの記帳者の列を見て、体勢は我らにありと自信を深めたんじゃないですか?
 「いや、そうでもない。みんな困ってる。こうれからどうしたらいいのか……。もう国民に訴えかけるテーマがなくなってしまったでしょう。右翼はみんな困ってますよ。仕方ないからこれからは「切り取り」、企業を攻撃してカネをむしりとることですけど、それに専念しようって言ってるのもいますよ。任侠右翼の連中は特に、カネがかかるんですよ、接待で。大喪の礼の時も全国から集まってきたから、接待が大変だったらしいですよ。銀座とか赤坂とかで。ビラ貼りしてると、よく会いますよ。あいつらはビラ貼りなんて、こんな面倒で地道なことしないからね。飲んでるときに私の顔を見ると、照れくさそうな顔をする。『ごくろうさん』なんて言ってね」

36 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/12/18(土) 13:24
みんなの国有地が税金を払わなくて良い宗教法人の元に。。どーなの?
時効も国に拠る接収も関係ないんだねぇ。
アイヌ人よ立ち上がれ!北海道からシャモ(和人)を全員追い出せ!(笑)
(magentaさんすんません,冗談です)

2004年12月17日(金)
富士山8合目以上の土地所有権、国から浅間大社に
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20041217/K2004121702890.html

 富士山の8合目から頂上にかけての土地の所有権が17日、国から富士山本宮浅間大社に移った。東海財務局が同日、土地の譲与決定を大社側に知らせたもの。所有権を巡っては、国側と大社の間で訴訟に発展し、74年の最高裁判決で大社側の所有が認められていたが、実際に所有権が移るまでに30年かかったことになる。同財務局は「静岡、山梨の県境が確定しておらず、登記手続きなどが取れなかった」と説明している。

 また、8合目から上が大社の私有地になるが、「登山客からの入山料は取らないと聞いている」(同財務局)という。

 富士山8合目以上の土地は約400万平方メートル。徳川家康が大社に寄進したとの記録があるが、明治維新後に国有地とされた。神社の施設などがある約16万平方メートル分については52年に大社側に譲与されたが、富士山頂が返還されなかったため、大社側が国を提訴し、最高裁まで争った。

 今回譲与されるのは、富士山測候所や県道用地などをのぞいた約385万1000平方メートル。

富士山頂付近の土地、浅間大社に譲与 (読売新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/society/story.html?q=18yomiuri20041217i112&cat=35

 徳川家康から寄進されたことを示す古文書が残されており、最高裁が1974年に、浅間大社の所有地と認定してから30年。財務省東海財務
局が同日、譲与通知書を大社に手渡し、所有権問題が決着した。

 譲与されたのは、8合目以上の土地(約405万平方メートル)のうち、すでに大社奥宮の境内地となっている約16万平方メートルと、富士
山測候所敷地や登山道など計約3万5000平方メートルなどを除く約385万平方メートル。

 山頂付近では静岡、山梨の県境や、地元市町村の境界線が定まっていないため、土地登記ができないなどの理由で、最高裁判決後も国が所有し
てきた。

 大社は1999年ごろから譲与通知の早期発行を国に働きかけており、財務、環境省などと協議を重ねた結果、譲与が決まったという。
[ 2004年12月18日1時40分 ]

37 名前:とはずがたり 投稿日: 2004/12/18(土) 13:40
意外と(?)ケチだったんだねぇ。

税務署と「わが闘争」?ヒトラー8億4500万円滞納 (読売新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/world/story.html?q=18yomiuri20041218i504&cat=35

 ナチス・ドイツ総統ヒトラーが、1933年に権力を掌握するまで税金逃れに奔走し、40万5000ライヒスマルク(現在の貨幣価値で約800万ドル=8億4500万円)を滞納していたことが17日、独研究者の調査で分かった。ヒトラーは首相就任後に支払いを免除されたという。

 税務専門家がミュンヘンの文書館でヒトラーの納税記録を発見。それによれば、ヒトラーは33年、アーリア人の人種的優越を説いた著書「わが闘争」の売り上げで123万ライヒスマルクの収入を得、うち60万ライヒスマルクについて納税義務が生じたが、納付しなかった。

 ヒトラーは記録には「著述業」と記載され、ほかにも新車のメルセデスを「社用車」として資産から差し引くよう試み、机の購入費などを他の「必要経費」と共に控除対象にしようと画策していた。

 ミュンヘンの税務署は33年以降、所得税免除などの措置を相次いで実施。税務署長はヒトラーに納税免除を提案後に、独税務当局のトップに昇進した。(ロイターES時事)

[ 2004年12月18日13時6分 ]

38 名前:magenta 投稿日: 2004/12/18(土) 15:19
>>36
実は私、元参院議員の萱野茂氏の主張にはかなり共感しているんですね。
(二風谷ダム問題など)
排除の論理に陥らず独自の文化を残していくのが望ましいというのが主張の中にあったはずです。

39 名前:名無しさん 投稿日: 2004/12/18(土) 17:45
>>36,38
北海道は日本の「植民地」ですから…
アメリカインディアンやアボリジニらと同様に、
収奪した土地に対して返還や補償をするのが本来はスジなんでしょうけどね。

40 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/05(水) 18:45
安全保障スレや政治思想スレにも関連しそうだが取り敢えず現代史と云う事でこちらに。

【南京大虐殺関連資料】

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/535/1038323808/405-406
カマヤンさんとこから転載

405 名前: カマヤン 投稿日: 2004/12/02(木) 05:48

↓このサイトを作った方を、褒め称えます。すげえ大変なんだ、こういう作業は。

南京事件資料館
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/
★このホームページの目的
* 「南京事件はでっちあげ」という主張を,一次資料に基づいて検証します。
* 「歴史修正主義」に反対する人に,一次資料を提供します。
* 「自由主義史観」が欧米の「歴史修正主義」の日本版に過ぎないことを検証します。

資料一覧
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/sub1.html

南京事件論争史
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/ronso_history.html

南京事件FAQ
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/nankin_faq.html


406 名前: カマヤン 投稿日: 2004/12/02(木) 06:15

南京事件の真実
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm
「徹底した史料の読解によって、南京事件の真実を明らかにします」
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ  

南京事件資料集
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/

南京事件小さな資料集
http://www.geocities.jp/yu77799/

41 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/05(水) 19:03
>>40
厳然として日本軍の虐殺はあったのだ。
大東亜戦争中のアメリカの日本市民への無差別空襲や広島と同じく。

中国や朝鮮が謝罪と賠償を要求し続けるのはただ一つ自民党政治家が戦後続けてきた妄言のせいであるに尽きる。
なんであんな昔の事でギクシャクしなければならないのか,国益を損ねる莫迦な発言を発信し続けた売国奴・国賊の自民党政治家どもの猛省を促したい。

42 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/14(金) 10:11
おお,鮎川義助の孫!名門鮎川家の御曹司が44迄独身でいいんかね?×1?

杉田かおる極秘挙式で逆転勝ち
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050114-00000031-nks-ent

 自称「負け犬女の代表」が、チョ〜玉のこしに乗っちゃった。女優杉田かおる(40)が、日産グループ創始者、故鮎川義介氏の孫で投資会社「テクノベンチャー」の鮎川純太社長(44)と電撃結婚していたことが13日、分かった。ファクスで、11日に入籍を済ませたと報告。12日夜には都内で挙式・披露宴も行った。男と酒が大好きで借金持ち…大胆奔放な発言で世間を楽しませてきたが、名家の御曹司を射止めて人生を一発大逆転した。
 杉田は、結婚発表ファクスに「ウソのような本当の話」とつづった。「今までも、ドラマチックな人生を歩いてきた、私らしいと受け止めていただけましたら幸いです」。文面から、御曹司との結婚に、自分も驚いている様子が浮かんだ。
 あけっぴろげなキャラだが、人生最大の勝負のとき。慎重にコトを運び、見事着地させた。公には結婚話は12日に浮上。杉田はほとんど姿をみせず、珍しく沈黙を守った。杉田の母親も13日、都内の自宅でインターホンで「はっきりしたら娘が説明すると思います」と話しただけ。夕方にファクスを流したが、会見予定もない。鮎川氏も12日から、取材対応せず。テクノベンチャー社も「連絡がつきません」と繰り返した。
 しかし、2人は、杉田が11日朝に週刊誌の直撃取材を受けると、その日のうちに入籍。12日夜には都内でごく内輪だけで挙式・披露宴を行っていた。披露宴のもようを撮影したTBS「中居正広のキンスマ」によると、杉田や妹が号泣し、鮎川氏は「これまで本当に頑張ってきたこの3人の家族ですが、これからは自分が加わり、4人でやっていきます。どうぞよろしくお願いします」とあいさつしたという。くしくも同番組のスポンサーの1つは日産自動車。
 関係者によると、昨年8月、杉田が100キロマラソンに挑戦した日本テレビ「24時間テレビ27 愛は地球を救う」の打ち上げに、鮎川氏の姿があり、ワインを持参して、完走を祝っていたという。ちなみに同番組のスポンサーの1つも日産自動車。
 杉田なりに、世間への地ならしはしていた。昨年12月、著書「杉田かおる語録」の発売イベントでは「新しくできた恋人と別れました」と発言し、“その男性”とは100キロマラソン走破直後の昨年9月から交際し、3カ月で破局したと説明。一方で「来年は玉のこしに乗ります。今年で負け犬は終わり。来年は勝ちに行きます! 」と宣言していた。3カ月で破局したと言った相手が実は鮎川氏だったのでは、とも言われている。
 波瀾(はらん)万丈の半生だった。名子役として国民的人気になる一方で、私生活は10代から荒れた。両親の離婚、借金地獄も味わった。酒におぼれ、けんかを繰り返し、仕事もうまくいかず、恋も成就しなかった。しかし、30代半ばからはそれを逆手に取って「負け犬」になりきり、再び上昇機運に乗った。昨秋には、母親、妹と暮らしていた郊外から、都心の高級マンションに転居。事務所の倒産で抱えた借金も、返済のめどがついたといわれる。
 そしてついに負け犬人生と決別。杉田は結婚後も仕事を続ける。今度はどんな顔をみせるのか。セレブ・キャラに変身しちゃうのか。まだまだ楽しみだ。
(日刊スポーツ) - 1月14日9時23分更新

43 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/14(金) 18:09
2005年01月13日(木)
杉田かおる玉の輿、日産コンツェルン御曹司の評判
http://news.goo.ne.jp/news/fuji/geino/20050113/20050113-f-21.html?C=S
(夕刊フジ)
 大ヒット曲「鳥の歌」をリリースし、最近は“負け犬”キャラとして人気の女優、杉田かおるさん(40)の結婚話が急浮上してきた。お相手は日産グループ創始者、鮎川義介氏の孫というのだから仰天だ。事実なら、それこそ“玉の輿”だが、財閥創業者の直系に当たる御曹司の評判は−。

 「義介氏は昭和初期の超大物です。そのお孫さんが、杉田さんと結婚ですか?! 最近は、鮎川一族の話など聞いたことがないから、大物の亡霊が出てきた感じだ」。財界関係者は驚く。

 杉田さんの結婚情報を“仰天スクープ”として掲載した週刊文春が「超玉の輿婚」と報じた相手は、ベンチャー企業向け投資などを行う『テクノベンチャー』会長兼社長、鮎川純太氏(44)。

 同社は、東京・築地本願寺近くの10階建て雑居ビルの4階にある。周辺には米穀店や青果店が立ち並び、下町の風情が残る。受付電話で、純太氏に面会を求めたところ、女性社員から「社長は不在です」との答えが返ってきた。

 普段から多忙で、あまり出社しないという純太氏の社長としての仕事ぶりには、「守秘義務がありますので…」と口を閉ざした。

 杉田さんとの婚約話について、社員らは12日、初めて知ったといい、「マスコミの問い合わせが殺到しているが、答えようがない」と困惑を隠せない様子だった。

 一躍、脚光を浴びることになった純太氏は昭和35年、米ボストン生まれ。成蹊大学経済学部卒業後、ボストンのマサチューセッツ工科大学経営大学院を修了。平成元年に山一証券入りし、4年2月から現職を務める。

 純太氏の友人は「山一時代、M&Aを担当し、仕事はそつなくこなしていた。お坊ちゃまタイプでなく、芯のしっかりした男だった。米国にもハイレベルな人脈がある」と話す。

 同誌によると、「中肉中背で、端整な顔立ち」「趣味は狩猟と日本刀の収集」というから、一般人とはケタが違う。

 信用調査会社によると、同社は昭和24年創業。業界内全国2648社中928位、社員7人、昨年12月期の売り上げは6億円と、それほど大きな会社ではない。

 だが、「超玉の輿」とされるのは、理由がある。純太氏は、日本史の教科書にもその名前が載っている「日産コンツェルン」を一代で築いた鮎川義介氏の孫に当たる超一流の大御曹司なのだ。

 「最近は、経団連で、ベンチャー投資の講演で講師として招かれるなどの活躍もしている」(関係者)。同社の大株主にも新日鉱ホールディングス、日立製作所、日産自動車など、かつてのコンツェルン内企業がズラリと並ぶ。

 祖父・義介氏の長男が、純太氏の父、弥一氏にあたり、弥一氏の弟は参院議員も務めた鮎川金次郎氏。「弥一氏が本邦初のベンチャーキャピタル企業としてテクノベンチャー社を創設し、純太氏が後を継いだ」(同)

 義介氏の大叔父は井上馨元外務相、純太氏の母方の祖父も宮内庁の侍従長を務めた人物。親族には日立製作所の創業者らがおり、家系は折り紙付きだ。

 そもそも、日産コンツェルンは日本15大財閥の1つ。第一次世界大戦後から昭和初期までに台頭した新興財閥で、日窒や理研などとともにコンツェルンと呼ばれた。

 不況で経営危機となった久原財閥を引き継ぐ形で誕生した日産コンツェルンは昭和13年、政府の要請もあって満州に移転。満州重工業開発株式会社として、満州鉄道に代わる重化学工業をほぼ独占支配した超大物企業だった。

 「戦後の財閥解体でコンツェルンは解散されたが、その後も日産や日立などグループ企業の結びつきは強く、『春光懇話会』という親睦・情報交換会があります」(財界関係者)

 12日、結婚話について口を閉ざした杉田さん。昨年末は、「負け犬は今年で終わり。来年は勝ちにいきます。玉の輿を狙います」と宣言していただけに、2人の今後が注目される。

44 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/21(金) 00:21
日本との断交も視野 朴大統領暗殺未遂で韓国が文書公開
http://www.asahi.com/politics/update/0120/004.html

 韓国外交通商省は20日、74年8月にソウルで朴正熙(パク・チョンヒ)大統領(当時)が在日韓国人青年に銃撃された暗殺未遂事件(文世光事件)に関する外交文書を公開した。犯人が偽造の日本旅券で入国した上、日本の警察から盗んだ短銃が使われたため日韓関係は極度に悪化。韓国側が断交まで視野に入れて、日本側に特使派遣などを強く求めた当時の状況が明らかになった。

 文書は韓国政府の公電や日米との会談記録、捜査関連資料など計15件、約3000ページ。作成後30年たった外交文書を公開する情報公開原則に基づいて開示された。

 朴政権は対日世論の悪化を背景に、事件に対する日本の謝罪と韓国側捜査で関連が指摘された在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)など北朝鮮関係団体の取り締まりを強く日本政府に要求。佐藤栄作元首相、大平正芳元外相、椎名悦三郎元外相ら「大物級」特使が田中角栄首相の親書を持参するよう求めた。

 日本の国民世論を背に「謝罪特使と思われる」と渋る日本側に韓国の態度が硬化。同年9月5日には金東祚(キム・ドンジョ)外相が駐韓米大使代理と会い、「日本が誠意ある措置をとらなければ韓国としても国交断絶、大使召還まで含む措置を考慮せざるを得ないだろう」と述べ、「田中首相か木村(俊夫)外相に米側の関心を表明して影響力を行使できないか」と持ちかけた。

 だが、韓国の要求に対し米側は最後まで「等距離」を強調し、日韓に冷静な対応を促した。

 結局、椎名氏が特使を受諾。同年9月19日に訪韓して遺憾の意を表明するとともに田中首相の親書を朴大統領に手渡し、政治決着した。

   ◇

 〈文世光事件〉 74年8月15日にソウルで起きた朴正熙・韓国大統領暗殺未遂事件。偽造旅券で入国した在日韓国人の文世光・元死刑囚が、独立記念式典で演説中だった大統領に向かって短銃を発砲。大統領は無事だったが、壇上にいた陸英修夫人が被弾して死亡した。韓国政府は「北朝鮮の指令を受けての犯行」と発表した。元死刑囚は同年12月に刑を執行された。

(01/20 12:03)

45 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/21(金) 00:23
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1043205301/772-780
日本植民地支配の徴用 「韓国政府が個人補償」 外交文書
日韓条約交渉文書、一部を初公開=韓国での個人補償問題に影響も
−日本と朝鮮半島関係資料集
など

46 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/23(日) 00:31
日本側の朝鮮総連への腰の引けた態度が目に付く気がするが。。
しかし王道楽土の社会主義建設を進めていた北朝鮮と軍事クーデターで政権簒奪の韓国ではねぇ。

文世光事件:韓国政府・外交文書公開 日韓捜査に食い違い
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20050121ddm007030045000c.html

 ◇韓国側、不満あらわ−−「総連への捜査を忌避」

 【ソウル堀信一郎】20日公開された文世光事件の外交文書のうち、韓国法務省の資料で、両国の捜査結果の食い違いが浮き彫りになった。特に焦点の在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の関与について韓国側は「日本は朝鮮総連の捜査を忌避している」と指摘し、日本側の捜査姿勢に不満をあらわにしている。事件発生から死刑執行まで、わずか4カ月。文書が公開されても、謎は残されたままだ。

 ◆指令があったか

 文元死刑囚がいつどのように犯行を決意したかについて、韓国側は「73年9月に朝鮮総連地方幹部が指令した」と断定。一方、日本側は「73年9月初めに在日本韓国青年同盟が8・15朴政権打倒のスローガンを掲げた時」とし、単独で決意したと結論づけている。

 ◆贈答の意図は?

 日韓とも文元死刑囚が朝鮮総連地方幹部から朝鮮ニンジン酒などを受け取っていたことを突き止めている。しかし、韓国側が同時に「革命のために努力しろというメッセージ」が伝えられたと明らかにしているのに対し、日本側は「異例なことではあるが、それ以上の関係は不詳」と結論付けた。

 ◆謀議はあったか

 韓国側は「朝鮮総連の指示により、地方幹部が文氏を扇動し、朴大統領狙撃や韓国政府転覆、共産革命を謀議した」と当時書類送検された朝鮮総連地方幹部との謀議を明確にしている。だが、日本側は「(同幹部による)狙撃教唆や陰謀の確証はない。同幹部を被疑者とみる捜査はできない」と共謀性を否定した。

 ◆資金協力は?

 韓国側は「74年5月中旬、文元死刑囚が朝鮮総連の地方幹部に犯行計画を報告し、7月25日に同幹部から現金80万円を受け取った」と断定した。日本側はこの地方幹部を資金提供者とは決めつけず、「マエダ」という名の正体不明の人物が75万円の犯行資金を提供したと推定している。

 ◆入院の理由は?

 文元死刑囚は74年2月に東京都内の病院に入院したが、韓国側は費用29万円を朝鮮総連の地方幹部から受け取り、「偽装入院した」と断定。「入院中に共産主義教育と狙撃要領の訓練を受けた」と結論づけた。日本側は入院費用の出所は不明としながら「病室は7人部屋のため、特別学習には適さない」と偽装を否定した。

 ◆万景峰号乗船の目的

 文元死刑囚は事件前、大阪港に停泊中の北朝鮮の万景峰(マンギョンボン)号に乗船していた。韓国側は「74年5月3日、文氏は朝鮮総連職員の案内で万景峰号に乗船し、北朝鮮の工作指導員から朴大統領の暗殺指令を受けた」と断定した。日本側は「日時は未確認だが、乗船したことは明白だ」としながらも、北朝鮮の指令伝達には触れていない。

47 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/23(日) 00:32

 ◇米通じ対日圧力−−韓国

[ソウル堀山明子] 韓国政府が公開した文世光事件の外交文書では、朴正煕(パクチョンヒ)政権が朝鮮総連に対する取り締まりを日本に実施させるため、米国カードを使って圧力をかけようとする外交戦略の実態が浮き彫りにされた。事件の背後に北朝鮮の指示と朝鮮総連の協力があったとみる韓国は、朝鮮総連に対する規制を最大の外交目標にしていた。

 韓国外務省作成の狙撃事件特別外交計画案(8月26日〜9月15日)によると、韓国政府は、対日外交の重点として▽強制捜査の催促▽日本の陳謝▽犯罪人引き渡し▽朝鮮総連など反韓国団体の活動抑止−−と明記したリストを作成していた。

 さらに実行された項目の横には手書きで日付が書かれており、「日本側の態度に我々政府が納得できない場合、強硬な対日抗議を行うとの文書を発送」の横には椎名悦三郎自民党副総裁が特使として訪韓する直前の「9月14日」の日付があった。別の文書には日本が朝鮮総連に対する規制を取らない場合、国交断絶も含めた5段階の対抗策を講じるシナリオが記されており、こうした韓国政府の強い意思を日本側に伝えたとみられる。

 同計画案の対米課題には「米国政府要人を通じた対日圧力交渉」という項目があり、▽外相の訪米▽米国要人への直接説明▽駐米大使への特別訓令−−などのリストが挙げられ、9月中旬の日付が書かれていた。

 また、9月9日作成の対日交渉対策案によると、米国を通じて対日圧力をかけた経過について、▽外相が米国大使代理にわが国の理解と支持を求める(9・2)▽駐米大使に米国が対日影響力を行使するよう、交渉を指示(9・3)▽フォード米大統領、キッシンジャー米国務長官が訪米する日本の首相と外相に影響力を行使するよう、駐米大使に特別交渉を指示(9・3)−−と、日誌形式で掲載されている。

 日韓両国は当時、9月19日に再発防止のテロ対策で合意する方向で田中角栄首相の親書を作成中で、朝鮮総連規制をどこまで明記するかをめぐり攻防を続けていた。韓国政府は、田中首相が19日に訪米する計画である点に着目。米国を通じて、朝鮮総連への規制が具体的に確約されるよう働きかけていたとみられる。

 ただ、当時のフォード米政権は、日韓関係の悪化は北東アジアの安保体制を弱体化させると懸念しており、むしろ仲介役となって日韓関係改善を促していた。韓国の駐米大使から外務省への9月11日付公電は、米国務次官補から「韓日間の事態に深刻な関心を持っており、早く事態を収拾するよう要請された」と報告している。

 ◇最後に「バカでした」−−文・元死刑囚

[ソウル堀信一郎] 文世光元死刑囚は、1審(74年10月19日、死刑判決)、2審(同年11月20日、控訴棄却)とも起訴事実を認め、12月17日の大法院(最高裁)で上告を棄却され死刑が確定。12月20日に死刑が執行された。文元死刑囚は公判の中で自分の思想を語り、最後には「バカでした」と悔いながら死刑台に消えたという。

 韓国紙「朝鮮日報」出身の金泰浩(キムテホ)氏の著書「終わらない審判」(韓国・三民社)によると、文元死刑囚は「いつから共産主義思想を持ち始めたのか」との裁判官の質問にはこう答えている。

 「高校1年の時からだ。韓国人なので民族差別を受け、べっ視された。こうした民族的なコンプレックスを解消するために共産主義の本を読んだ」

 公開された外交文書「狙撃事件の真相と背景」によると、文元死刑囚は、高校在学中から「共産党宣言」「金日成(キムイルソン)選集」「毛沢東語録」など共産主義関係の本を読んだ。

 その過程で、日本の資本主義社会構造と、在日韓国人の不満を解消するには、全世界が共産主義社会になることだという考えに至ったという。高校2年で中退する際には「勉強すべきことは全部した。だからやめる」と話していたという。

48 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/23(日) 00:33

 1審の判決公判によると、死刑の代価を払うことになった、国立劇場での狙撃はわずか7秒間の出来事だった。▽座席で銃を取り出そうとして1発目が誤発▽通路に移動して舞台に向かい、約20メートルの距離から撃った2発目は演説台に当たった▽舞台に近づいて発射した3発目は不発▽約18メートルの距離から発射した4発目が、陸英修(ユクヨンス)夫人に命中▽聴衆の足に引っかかって倒れながら発射した5発目は演壇後ろの国旗に当たった−−と明らかにされている。移動距離は約19メートルだった。

 死刑場には、たばこ、コーヒー、麦茶が用意されていた。「私はバカでした。韓国に生まれていれば、こんな罪を犯さなかった。朴大統領に心から申し訳ないと伝えて下さい。国民の皆さんにも申し訳なかったと伝えて下さい。(死亡した)陸女史と(流れ弾に当たって死亡した)女子学生の冥福をあの世に行っても祈ります。だまされて過ちを犯した私がバカで、死刑になっても当然です」

 死刑執行直前の言葉は、嗚咽で何度も中断したという。

 ◇事件の74年、南北朝鮮の対立が先鋭化−−韓国で民主化闘争、激しさ増す

 文世光事件が起きた74年は、南北朝鮮の対立が先鋭化する一方、韓国では朴正〓大統領の「維新体制」に反発する民主化闘争が激しさを増していた時期だ。

 韓国と北朝鮮は72年7月、自主・平和・民族大団結をうたった「南北共同声明」を発表した。しかし、南北分断後、初めて政府間レベルで行われた対話と交流は、統一への希望どころか双方の体制固めの転機になった。

 韓国は水も漏らさぬ北朝鮮の強力な統治体制に驚き、北朝鮮は韓国の発展ぶりに危機意識を募らせた。朴政権は「南北対話を進めるため総力体制を準備する」と非常戒厳令を宣布、国会を解散させ、同12月、維新憲法を公布した。強大な権限が大統領に集中し、言論・政治活動が厳しく制限された。

 一方、北朝鮮も新憲法を制定し、金日成氏が新設された国家主席に就任した。南北とも独裁的な支配が強まった。

 朴政権の強権政治は、日本社会も巻き込んだ。朴大統領の政敵、金大中氏は非常戒厳令宣布により、帰国を断念し、日本など海外で民主化闘争を展開したが、73年、滞在中の東京のホテルで、韓国の情報機関に拉致された。金大中事件である。

 同事件に絡め、北朝鮮は、南北対話を忌避する姿勢を鮮明にした。統一への展望が失われつつある中、韓国では学生運動が活発化し、維新体制撤廃運動が行われる。朴政権はこれに徹底した弾圧でのぞみ「政府転覆を企図した」として学生、知識人らを連行・起訴する「民青学連事件」(74年)が起きている。

 韓国政府は、日本で「金大中救援運動」など「反朴運動」を展開していた在日韓国人組織に対しても敵意をむき出しにした。「日本が北朝鮮の対南工作の中継基地」と警戒心を強め、在日韓国人留学生や研修生を次々とスパイ容疑で逮捕した。「在日社会」では、朴政権の強権政治に動揺、危機感を深める在日韓国人青年が多かった。

 文世光事件は、金大中事件の翌年に起きた。当時の韓国・捜査当局の発表によると、文世光・元死刑囚も「金大中救援運動」を行っていた。

 70年代、朝鮮半島情勢は、南北共同声明の「明」から金大中事件、文世光事件へと暗転する。この二つの事件を機に南北朝鮮の対立は決定的になった。北朝鮮による日本人拉致事件が多発するのは、文世光事件から数年後のことだ。[薄木秀夫]

49 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/23(日) 00:33

 ◇「北朝鮮の関与、不思議でない」−−小此木政夫・慶応大教授

 私は「文世光事件」が起きた1974年8月15日の朝、2年間の韓国留学を終えて帰国したのだが、当時は、朴正煕政権が厳しい国際情勢の中で必死に生き残りを図ろうとしていた時代だった。翌75年にサイゴンが陥落した時には「いずれ韓国も北朝鮮に解放されてしまうかもしれない」という危機感があふれていた。

 米ソ緊張緩和(デタント)の影響を受けた南北対話も73年には終わり、南北対立は激化した。南北は激しい体制間競争を行っていたし、同年の金大中氏拉致事件で韓国の国際的な評判は地に落ちていた。北朝鮮側には、朴政権を倒しさえすれば北朝鮮主導で統一できるという発想があったのではないか。韓国側捜査結果のように、北朝鮮がこうした事件を起こしたとしても不思議ではない。

 日本と朝鮮半島の関係では、韓国が65年の日韓国交正常化以降、日本の資金を導入して経済発展を始めていた。北朝鮮とすれば、日韓関係にくさびを打ち込み、韓国の経済発展をなんとか止めなければならないという発想があったのではないか。

 そうした観点から見れば、在日韓国人である文世光元死刑囚を使ったのは、暗殺に失敗しても日韓関係を壊せるという思惑があったかもしれない。その点では、ある程度成功したともいえる。

 事件後の日韓関係を悪化させた(「北からの脅威はない」という)木村俊夫外相の発言は、一種のデタントぼけだろう。当時の田中政権内のデタント派は「日中国交正常化の次は北朝鮮だ」程度の認識で、朝鮮半島で深刻な闘争が行われているとは考えていなかったのではないか。だから、朴政権が朝鮮総連取り締まりを要求しても、「それは行きすぎだ」という話になった。

 今回の外交文書からは、韓国側の認識を改めて確認できる。だが、韓国側の文書だけでは日本側の見方がはっきりと分からない。日本も早く関連文書を公開すべきだ。[澤田克己]

 ◆文世光事件関連の動き(すべて1974年)◆

 7・18 大阪市の派出所から拳銃盗まれる
 8・15 文世光事件。韓国大統領夫人が死亡
   16 大阪府警、偽造旅券取得に協力した疑いで日本人女性を逮捕
   17 韓国、北朝鮮工作員と朝鮮総連関係者に犯行を指示されたという「自供」内容を発表
      朝鮮総連、関与否定の談話発表
   18 「自供」で名指しされた朝鮮総連関係者が「韓国発表は根拠がない」と否定会見
   19 大統領夫人の国民葬に田中角栄首相出席
      日本、日韓首脳会談で捜査協力を約束
      北朝鮮、「事件は朴政権延命のための陰謀」と反論
   20 韓国首相が演説で「日本に責任ないと言えぬ」と主張
   27 韓国が捜査結果を発表
      韓国外相、国会答弁で対日政策で「最大の覚悟」と言明
   29 木村俊夫外相、参院での答弁で「(朝鮮半島において)北朝鮮からの脅威はない」と発言。この発言で、韓国の反日デモが激化
   30 朴正〓大統領、駐韓日本大使に「(事件は)日韓関係に重大な影響与える可能性ある」と通告
 9・ 6 デモ隊の一部がソウルの日本大使館に乱入
   19 椎名悦三郎・自民党副総裁が特使として訪韓
10・ 7 ソウル地裁で初公判
   19 ソウル地裁で文世光被告に死刑判決
12・17 上告棄却で死刑確定
   20 死刑執行

 ◆事件前後の国際情勢◆
1961・ 5    朴正〓少将が軍事クーデター
  65・ 6    国交正常化の日韓条約締結
  68・ 1    北朝鮮武装ゲリラがソウル侵入
  70・ 3    「よど号」ハイジャック事件
  71・10    中国が国連加盟
  72・ 2    ニクソン米大統領が訪中
      5    米ソが第1次戦略兵器制限条約(SALT1)調印
      7    統一に関する南北共同声明
      9    日中国交正常化
     12    韓国、大統領権限強化の「維新憲法」公布
  73・ 8    金大中氏拉致事件
      9    金正日氏が労働党書記に
  74・ 2    北朝鮮、金日成主席後継者に金正日氏指名
      8    文世光事件
  75・ 4    サイゴン陥落し、ベトナム戦争終結
      7    日韓外相会談で金大中事件に政治決着
  78年ごろから? 北朝鮮が日本人を拉致
  79・10    朴正〓大統領暗殺される
  83・10    全斗煥韓国大統領狙ったラングーン爆弾テロ事件
  87・11    大韓航空機爆破事件
毎日新聞 2005年1月21日 東京朝刊

50 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/23(日) 00:37
【文世光事件】>>46-50

日本人の在日韓国朝鮮人への差別意識がこの事件の遠因にあるとするならば我々日本人は日本人の名誉のためにこういう差別意識を持った日本人同胞を莫迦にし差別せねばなるまい。。
・・って差別する方もなんらかのコンプレックスを抱いているのだろうし在日問題や同和問題は難しいですなぁ。差別と恨みの連鎖は何処かで断ち切らねばならないのに。。

51 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/27(木) 22:15:02
困窮、岸田劉生…お金 必死に工面 大阪で手紙発見
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050127-00000024-san-soci
自分の絵 分割でいいから買ってほしい
 『麗子像』などで知られる近代日本の代表的洋画家、岸田劉生(一八九一−一九二九年)が、関東大震災で避難していた京都から大阪の知人にあてた手紙が二十七日までに、大阪市内の古書店で見つかった。自分の絵を分割でもいいから買ってほしいという切羽詰まった内容で、困窮ぶりがひしひしと伝わってくる。当時、関西には多くの文化人が震災を逃れて移り住んでおり、彼らの被災生活を知る貴重な資料だ。
 手紙は、大阪府東成郡田辺町(現・大阪市東住吉区)の久米利助という人物にあてたもので、大正十二年十月二十一日付、京都・聖護院局の消印が押されている。
 内容は「この前、春陽会に出した椿花篭の図(五百円)をもしよろしかったら二度払い位にてとって頂けませんか、今二百円、来年の正月頃あと三百円で」と、自作を分割払いで買い取ってくれないかと、申し入れている。
 後半では、自分の絵を買ってもらえない場合、自ら収集している葛飾北斎の浮世絵の購入についても打診。「北斎の富士三十六景の中十五、六枚、その中一枚二百余円のものあり。(中略)それらをまとめて五百円に」などと書いている。
 大正末の物価は、冷蔵庫約三十円、自転車約七十円、新聞の月決め購読料が一円の時代で、五百円は相当な金額になる。
 『劉生日記』によると、結局、この手紙の相手である久米利助は十月二十九日に劉生宅を訪れ、「麗子像」の素描を百円で購入しただけだった。
 関東大震災は大正十二(一九二三)年九月一日に発生、家屋の焼失などで死者・行方不明者約十四万人の被害が出、都市機能もマヒした。このため作家の谷崎潤一郎や直木三十五らが関西に避難した。
 当時、劉生は、神奈川・鵠沼(くげぬま)(現・藤沢市)に住んでいたが自宅が半壊し、名古屋を経て、十月三日に京都・南禅寺に転居。翌日、志賀直哉のところに借金を申し込みに行ったが断られている。
 岸田劉生の京都時代に詳しい高知県立美術館の篠雅廣館長は「劉生は着の身着のままで逃げてきたうえ、関東に住んでいたときから古美術の趣味があり、東洋画や浮世絵など相当高価なものをずいぶん購入していた。こうしたいろいろな要因が重なって、当時はかなりお金には困っていたのだろう。手紙には、お金を工面するときの劉生の細やかな性格などもうかがえ、価値のある資料」と話している。
 ■岸田劉生(きしだ・りゅうせい) ジャーナリスト、岸田吟香(ぎんこう)の4男として東京で生まれる。武者小路実篤と知り合い、柳宗悦、バーナード・リーチら『白樺』同人と交流。大正7(1918)年、長女の麗子をモデルにした制作を始めた。昭和4(1929)年、満州(現・中国東北部)旅行の帰途、山口県徳山で病に倒れ、急逝した。代表作には『麗子微笑』(東京国立博物館)、『切通しの写生』(東京国立近代美術館)がある。いずれも重要文化財。
(産経新聞) - 1月27日15時5分更新

52 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/28(金) 17:45:55
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/179.html?c=0
岡山生まれ。司法官僚、政治家。父は津山藩士。明治21年(1888)東京帝国大学法科卒業。東京控訴院部長、大審院検事、司法省民刑局長等をへて44年(1911)司法次官。大正元年 (1912)検事総長。8年(1919)臨時法制審議会副総裁。10年(1921)に大審院長に就任。12年(1923)第2次山本内閣司法相となる。翌年貴族院議員に勅選、枢密顧問官に任命される。また同年から復古的日本主義を唱え、国本社を主宰。のち枢密院副議長、議長を歴任。昭和14年(1939)首相。戦後A級戦犯として終身禁錮刑となった。

平沼騏一郎
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/ww2/jinbutu/hiranuma.htm
 1867.10.2〜1852.8.22。 岡山県出身。
 1888年帝大法律学科卒業。司法省に入り判事。1905年大審院検事、06年民刑局長。日糖事件の摘発を指揮する。07年大逆事件を捜査。11年第2次西園寺内閣で司法次官。12年検事総長、14年にはシーメンス事件を総指揮。21年大審院長。23年第2次山本内閣で法相。24年貴族院勅選議員。枢密顧問官となり、また国本社を創立。26年枢密院副議長。27年の若槻内閣や30年の浜口内閣など政党内閣を攻撃する。この結果元老西園寺公望に嫌われ、首相候補に推挙されず。34年の帝人事件や35年の天皇機関説事件にも背後で関わったと見られる。36年枢密院議長、同年国本社を解散。この頃から新米英派と妥協するようになる。39年に大命降下で組閣。国民精神総動員運動を展開する。しかし8月、ソ連との関係が悪化している中で、突如独ソ不可侵条約が締結されると、総辞職。「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉は流行語になった。40年から41年に掛けて国務相。45年枢密院議長。ポツダム宣言受諾に反対した※。48年A級戦犯で終身禁固刑となり、52年病気仮釈放直後に死去。

※他の資料と矛盾するがこちらが誤りか。

53 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/28(金) 17:46:43
http://www.geocities.jp/since7903/zibiki/ko.htm
「国体明徴運動」
 貴族院勅撰議員・美濃部達吉法学博士の学説「天皇機関説」に対して、貴族院における菊池武夫議員が提出した質問に美濃部が反論したことによって、発生した運動。
 本来美濃部の「天皇機関説」は政党政治に法的解釈とよりどころを与えるものとして一般に通説と解されてきた。また、美濃部の東大における師は、枢密院議長の一木喜徳郎であったから、西園寺公の秘書であった原田熊雄などは、
「大体において美濃部博士は当て馬であって、要するに一木枢密院議長攻撃が目的である」
 と考えていた。その動きを後ろで操っているのが、右翼団体「国本社」の総帥にして、かねてから枢密院副議長にとどめられて憤懣を燃やしていた平沼騏一郎であると原田は考えていたのである。
 ところが、この機関説攻撃に政党までが与するようになった。当時多数を握りながら野党に置かれて苦悶していた政友会は、山本悌二郎を中心として美濃部を攻撃。衆議院はついに国体明徴に関する決議を採択した。
 野にある退役軍人会もこれに呼応し、軍部、特に皇道派が機関説排撃に動き、美濃部と一木枢府議長はますます窮地に追い込まれた。四月九日、美濃部の著作が発禁処分を受けた。
 内閣は美濃部博士を訴追することを防ぎたかったので、美濃部が貴族院の議席を拝辞することを希望していた。また、特定の学説を排撃することも希望しなかったので当初は国体明徴の声明を出すことを拒んだが、陸軍内部はどうにもおさまらなくなり、陸相を通じて国体明徴を声明する要請がたかまった。八月三日、政府は国体明徴を声明。翌月十八日、ついに美濃部は貴族院議員を拝辞した。
 しかし翌日、新聞紙上で美濃部は、
「私が貴族院議員を拝辞したのは混乱を収めるためであって、学説を放棄したわけではない」
 と語り、紛議が再燃した。大角海相などは岡田首相に、
「(もう一度)声明をしてくれ、声明をしてくれないと何が起こるかわからん」
 と依頼した。閣僚らは、軍部の動きは政友会などの岡田内閣倒閣派と連動していることを見抜いていたから非常に憤慨したが、陸軍の代表者である陸相自身の腰が定まらないものだから、事態は紛糾し、十月十五日、「天皇機関説はわが国体に反する」旨を再度声明することになった。
 さきにのべたように、機関説は政党と政党政治を是認化する憲法学説であったから、政友会の行動はまさしく自らの足元を掘り崩したものだとしか言いようがない。

一木枢密院議長はこの運動の最中、何度も辞意を洩らしていたが、西園寺にそのつど止められ、果たせなかった。しかし今度は牧野伸顕内府が老齢の故を以て内大臣拝辞。この後任として斎藤実が就任したが、その斎藤はこの直後に起こった二・二六事件によって射殺されるのである。

54 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/28(金) 17:47:08
>>53-54

「国本社」

国本社会長・平沼騏一郎  大正十三(1924)年発会し、昭和十一(1936)年解散した、右翼思想団体。
 主催したのは司法官僚の巨頭平沼騏一郎である。平沼は国本社創立に先立ち辛酉会を主催していたが、これを母胎とした。また、竹内賀久治が創刊し、流行の民本主義に対抗する雑誌「国本」を機関誌として発足した。
 会長には平沼が、副会長には東郷平八郎、山川健次郎が就任。役員は顔ぶれの変動はあるものの、ビッグネームだけ挙げれば司法官僚系では原嘉道、鈴木喜三郎、山岡万之助、塩野季彦ら。内務官僚では後藤文夫ら。海軍軍人系では加藤寛治、末次信正、小笠原長生、有馬良橘ら。陸軍軍人では宇垣一成、荒木貞夫、真崎甚三郎、小磯国昭、四王天信孝らが加わっている。
 目的は社則に依れば、「国本を固くし国体の精華を顕揚する」ことであり、日本国粋主義を高々と標榜する右翼団体であった。機関誌「国本」も、そういった傾向を持ち、同時に反共・反欧米・反デモクラシー的な論文を掲載した。
 国本社自体の活動はともかく、その人脈は平沼騏一郎の政治運動の大きな一部であったと見なされている。
 特に政党内閣期とその後において平沼は幾度となく首相候補に挙げられ、それを官界・軍部におおきな影響を持つ国本社のメンバーが陽に陰に支援した。従って平沼を中心とする人脈の動きは常に元老西園寺公望とその周辺から「ファッショ」、国本社は日本ファシズムの牙城と目されて平沼は総理の座を逸し続けた。
 思想結社としての国本社の規模は、昭和十年に内務省警保局調査によれば全国道府県に三十九支部、会員数は一万七千人以上といわれる(翌年、内務省刑事局の調査によれば倍増どころではなく、十一万余といわれる)。
 昭和十一年二月、青年将校決起の二・二六事件が発生し、鎮圧されると宮中人事の刷新があり、一木喜徳郎枢密院議長が内大臣に転じ、平沼副議長の議長昇格となった。平沼はここで国本社会長を辞任、それにともない国本社自体も解散した。のちに西園寺は平沼を「エラスティックだからね」と評している※が、それはこのときに国本社解散を件を踏まえているからであろうか。

※戦争末期に終戦派として工作する等確かに実に柔軟ではあるな。

56 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/28(金) 18:05:49
【平沼騏一郎特集】>>52-56

http://www.hiranuma.org/japan/
http://www.hiranuma.org/japan/talk.html
「平沼邸炎上す」
「父のこと」

なかなかドラマが有るねぇ。小説の題材に十分なりそうだ。
しかし右翼の巨頭としての平沼の姿は赳夫の目にはこう映っていたようだ。
> 西園寺公に、平沼は神がかりで、迷信家であると、嫌われた祖父。
>明治維新以後、西洋礼讃で、日本本来の姿が失われつつあるのを嘆じて、
>自ら国本社を興し当時のマスコミによりファッショの首魁とされていた祖父、
>この祖父のために弁解させてもらえば、騏一郎は、神がかりでも、ファッショでも、右翼でもない。
>強いて言うならば、神を信じ、神ながらの国日本を誇りとし、
>日本の伝統と文化をこよなく愛した愛国者だったのである。

>長年親交の深かったグルー米国防長官代理に一生懸命働きかけて、何んとか戦争になるのをくい止めようとしていたのであるが、
>これが軍に洩れ、「鬼畜米英に内通する国賊」とまでいわれ、その命をねらわれ、軍の意を体した右翼の神官が、
>騏一郎の郷里美作出身の代議士の紹介状を持って現れ、面談中の騏一郎めがけて、至近から、首から上をねらい、拳銃弾を浴びせかけ、五弾が顔面から首にかけて命中、騏一郎は瀕死の重傷を負った。
>七十歳を過ぎていたにも拘わらず、奇跡的に一命を取留めたのであるが、このことは平沼家にとっても一大事件であって、父にとっても大変なことであったと想像出来る。

平沼騏一郎は右翼の大物でしかも複雑怪奇と云って辞めた無能なイメージがあるが,開戦にも反対し,最終局面では無条件降伏派として活躍したのか,知らなかった。
それにもかかわらず戦争へ至る過程での指導的立場によりA級戦犯として服役したのか。。まぁ東京裁判の基準も全然公平なものではないだろうしね。

司法官僚のボスとしてまた観念右翼の大物として暗躍した姿と戦争回避に動く姿は被らないが,親米反共右翼だったと云う事なのか?それとも軍部と結んでの政党政治の排撃は権力闘争の一環であったか?
神憑りではあったが戦争が仕事の軍部と司法官僚出身者との違いが此処にあったのか?

57 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/28(金) 18:56:12

http://www.t-kyoichi.com/Profile.htm
津島家系図

http://www.yosano.gr.jp/yosanoke/index.html
与謝野家の人々

http://www.mitsu-net.com/profile/grandpa.html
下条みつ
下条康麿・下条進一郎・石川一郎(初代経団連会長・元昭和電工株式会社社長)

http://www9.ocn.ne.jp/~senyou/keizu2.html#7
岸・安倍・佐藤・松岡

>>56
平沼家 <中川>恭四郎
 <飯田>包亮 ||――赳夫―広子・慶一郎・正二郎
<平沼> ||――節子
晋┬淑郎―広 (一家で騏一郎の養子となる)
  └騏一郎

http://www.hatoyamakaikan.com/family/index.html
鳩山会館

あと政治家で先祖自慢してた奴いたっけかやあ?

58 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/01/28(金) 18:59:55
河野家

http://www.yohei-kono.com/profile/profile.html

河野太郎 長男 昭和38年1月10日生
河野 香 同妻 昭和40年2月25日生

河野二郎 次男 昭和39年10月26日生
河野典子 同妻昭和44年12月4日生

河野治子 長女 昭和43年11月2日生

故河野治平 (祖父:神奈川県議会議員、県議会議長)
故河野一郎 (父:衆議院議員、建設大臣、農林大臣、経済企画庁長官)
故河野謙三 ( 叔父:参議院議員、参議院議長)

田川誠一 (従兄弟:衆議院議員、新自由クラブ代表、自治大臣・国家公安委員長)
河野太郎 (長男:衆議院議員)

59 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/02/07(月) 16:40:47
http://www.geocities.jp/since7903/
History of Modern Japan

60 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/02/07(月) 17:49:53
箱庭的アジア植民地資料中心
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/1429/colo/menu.html

61 名前:片言丸 (/3J5SzQQ) 投稿日: 2005/02/11(金) 19:49:26
真珠湾攻撃 最後通告に相違 日米保管の文書、25カ所
http://www.sankei.co.jp/news/050207/sha037.htm

 昭和16年12月8日(米国東部時間7日)の真珠湾攻撃当日に、在米日本大使館の野村吉三郎、来栖三郎両大使が、米国のハル国務長官に渡した対米最後通告と、日本が保管している対米最後通告に、25カ所の相違があることが6日、分かった。米国が受け取った最後通告の中には、日本で保存している文書にはない単語が含まれている部分もあり、新たな議論を呼びそうだ。

 昭和史を研究している徳島県小松島市の米国パシフィック・ウエスタン大学名誉教授、茶園義男さん(79)が相違を指摘した。

 茶園名誉教授は、米国立公文書館に保管されている対米最後通告の写しを入手し、日本の外務省が外交文書として公表している最後通告と、開戦当時に日本が在米大使館に送った最後通告の暗号電文を米軍が傍受し解読した「マジック」文書の三つを比較検討した。

 その結果、アルファベットや数字の大文字、小文字、コンマなどを含め、25カ所の相違を確認。単語部分は21語で、活字数で83字の相違を数えた。数字以外の相違の9割は、日本が公表している文書と米国が保管している最後通告との相違で、日本の公表文書と米軍の「マジック」の間では、相違はわずかだった。

 日本から14部に分けて打電された最後通告の8部目には、米国が受け取った文書にだけあり、日本の公表文書や「マジック」にない単語も見つかった。日本政府として反論するため米国政府からの申し入れを引用した部分「両国政府が第三国と締結しているいかなる協定も−」の「第三国と」の表現が、日本の公表文書は「with any third powers」だったが、ハル長官が受け取った文書では「with any third power or powers」になっていた。

 茶園名誉教授は「日本が公表している最後通告と米国が受け取った最後通告は同じであるべきなのに、相違があり、一方で米軍が傍受したマジックとよく似ている。そのからくりを解く必要がある」と話している。

                  ◇

 ≪対米開戦の通告遅れ≫昭和16年12月8日(米国東部時間7日)、日本の最後通告が真珠湾攻撃より約50分遅れ、米国から「だまし討ち」と非難された。開戦約30分前に在米日本大使が米国務長官に最後通告を手渡す予定だったが、在米日本大使館でのタイプ清書が間に合わなかった。その原因と責任の所在について、現在も議論が続いている。

【2005/02/07 東京朝刊から】

62 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/02/12(土) 19:13:19
冷徹に現在の岐阜県出身と記述すべし。
親父の任地の旭川でたまたま生まれただけの井上靖が北海道出身になっているのは納得が行かないぞ,俺は!!


島崎藤村は何県出身?生地・長野の村は岐阜に越県合併
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050212-00000305-yom-soci

 長野県山口村が13日、県境を越えて岐阜県中津川市に編入合併される。

 同村出身でこれまで辞書などで長野県生まれと表記されてきた島崎藤村(1872―1943年)の出生地をどう表記するか。出版社や地元の人たちに、戸惑いの声も出ている。

 藤村が生まれたのは、当時の筑摩県馬籠(まごめ)村。同村の区域を含む筑摩県東部は1876年、長野県に統合され、馬籠地区は1958年の合併で山口村となった。藤村は、9歳で上京したものの、馬籠宿を舞台にした「夜明け前」など古里への思いが詰まった作品も数多く残しており、「信州人」という認識が定着している。

 岩波書店は広辞苑で長野県生まれと表記しており、改訂間近だけに対応に苦慮しているという。編集部は「岐阜県とした上で、旧国名や旧県名をカッコ書きする案もあるが、字数の都合や各人物が持っている雰囲気もあり、難しい問題」と話す。

 大辞林を出版する三省堂も「文化的なものには一般化された認識がある。いきなり(越県合併という)新しい状況を書いても理解されない」と、困惑気味だ。

 「長野県歴史人物大事典」など、藤村を扱う書籍を数多く出している郷土出版社(長野県松本市)は「藤村は信州人、という精神風土に合わせた表記が必要だが、改訂の際は、越県合併にも触れないわけにはいかないのでは」と話している。

 表記が変更される可能性について、山口村・馬籠宿にある「藤村記念館」関係者は「藤村自身はどう思うだろうか。越県合併しても、藤村が生まれたのは信州であることに変わりはない」と指摘する。

 藤村の孫の妻で、馬籠宿で土産物店を営む島崎黎子さん(68)は「藤村が信州を描いたのは確かだが、作品が変わるわけでもなく、馬籠も変わらない。(藤村が反対運動の象徴となった)昭和の合併のころとは、時代が違う。岐阜になるからといって、どうこう言う時代ではない」と話す。

 山口村教育委員長の小川洋一さん(71)は「藤村の古里が馬籠であることに変わりはない。信州の藤村でも岐阜の藤村でもなく、今や作品が外国語にも訳されている『世界の藤村』ですから」と話す。
(読売新聞) - 2月12日14時43分更新

63 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/02/21(月) 17:10:18
クリック20世紀
http://www.c20.jp/index.html

64 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/03/02(水) 10:40:52
http://www.rs.kagu.sut.ac.jp/~infoserv/museum/si/keisan.html
計算尺

http://www.concise.co.jp/store/rule/
CONCISE計算尺ネット販売

<計算尺>復刻へ 滋賀県職員がネットで呼びかけ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050302-00000025-mai-soci

 かけ算や割り算、三角関数などさまざまな計算に使え、技術者の必需品だった計算尺の復刻計画が進んでいる。電卓やコンピューターが普及し、教育現場から姿を消して30年余。40代以上でなければ見たことのない計算機だが、アナログ式の計算用具の魅力を知る人たちの間で、価値が見直されている。[西脇真一]
 インターネットで「計算尺愛好会」を運営する大津市の滋賀県職員、木村悟さん(43)が全国の愛好者に復刻を呼びかけた。木村さんは学校で計算尺を習わなかったが、中学時代に先輩の持つ計算尺にあこがれていた。10年ほど前に中古品を手に入れて以来、さまざまな機種を探し求め、現在300種類以上を所有。自分が携わる農業関係の仕事でも使うことがあるという。
 計算尺は、有効数字が3けたで、概算値を素早く知るには便利なため、電卓の登場まで盛んに使われた。日本商工会議所は54年から検定試験を実施し、最盛期の65年ごろは年間40万人以上が受験。学校に計算尺クラブができるほど普及していた。
 しかし、高校では70年、中学は77年に学習指導要領が改訂されて教育現場から消え、検定試験も82年を最後に終了した。
 木村さんらが復刻を依頼したのは、最盛期に年100万本以上を生産していたトップメーカーの「ヘンミ計算尺」(本社・東京)。同社は70年代に一般用の生産を打ち切り、特殊用途向けだけを扱っていた。木村さんが1月からネットで1本4500円で希望者を募集したところ、179本の申し込みがあり、200本を発注した。
 購入を希望する理由は、「懐かしい」「企画がおもしろい」がほとんどだが、「講義で使いたい」という大学教員もいる。木村さんは「若い人に計算する感動を味わってほしい。簡単な機能の子供用も作ってみたい」と語っている。
 純国産ロケット「H2」の生みの親で国の宇宙開発委員会参与、五代富文さん(72)の話 かつては計算尺や手回し計算機、そろばんを使い分け、ロケットの軌道や強度などの計算をしていた。計算尺は一目で概算値が算出できる。数学の面白さが分かるだけに、ぜひ残してほしい。
 ◇ことば=計算尺
 17世紀に英国で発明され、日本には明治中期に伝わった。一般的な形は、定規のような棒形で、円形もある。固定された上下二つの本尺と、真ん中をスライドする滑尺、表面上を動く縦のラインが入った透明のカーソルがついている。目盛りは対数スケールで、滑尺を移動させるとカーソル上に答えが出る仕組み。
(毎日新聞) - 3月2日10時17分更新

65 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/03/05(土) 15:41:01
日本は帝国政府の官僚機構がそのままに横滑りなった。1940年体制と云われる由縁である。
一方,独逸は首都決戦を経験し帝都伯林は蘇連に依り解放され,ヒトラーは伯林の地下壕で服毒自殺を図っているが,その際海軍元帥デーニッツを後継に首相兼国防軍総司令に指名,ヒトラーの指名ではなく自らの意向で政府を組織し体裁を整え,総司令部をフレンスブルクに移して終戦交渉に当たる。ヒトラーの後継にしては戦後懲役10年で済んでいるのもの終戦時の斡旋が利いてるのか?
第二次大戦早々イギリスへ逃げた(?)ヘスが精神異常ながら終身刑を喰らってるのと比べてなんかアンバランスな感じがしなくもない。

http://www.uraken.net/rekishi/syusen10.html
第2次世界大戦〜終戦までの4ヶ月
本筋6:ドイツ降伏〜ヒトラー側近達のその後〜

http://www.geocities.jp/showahistory/history1/16c.html
ヘス謎の単機投降

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/index.html
第二次大戦資料館

http://members.at.infoseek.co.jp/hitler/
あまりにドイツ的、人間的な人物
アドルフ・ヒトラー Adolf Hitler

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/biblo/germany/ha/bormann.html
マルティン・ボルマン(官房長官)Martin Bormann(1900-45?)
 ベルリン陥落時にヒトラーの地下壕からの脱出に失敗して死亡したとされる。死体が発見されなかったため、南米への逃亡説も流れた。46年のニュルンベルク国際軍事法廷では欠席裁判で「住民と捕虜の殺害」などの罪で絞首刑の判決を受けた。

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/biblo/germany/ha/himler.html
ハインリヒ・ヒムラー(全ドイツ警察長官) Heinrich Himler (1900-1945)
−第二次世界大戦でもっとも忌み嫌われた男−
 1934年7月に、突撃隊隊長レームとほとんどの幹部やシュトラッサーを筆頭とするナチス純理論派を粛正した親衛隊は、その後、突撃隊にとって代わり、ナチス党の軍事部門としての地位を確固たるものとした。ヒムラー自身も1934年には国家秘密警察長官(いわゆるゲシュタボ)に就任し、1936年には全ドイツ警察長官に就任。
 敗戦間際の1945年4月に、ヒムラーは自分の身と親衛隊を救うため、ヒトラーを見限ることを決め、西側連合国と単独交渉を計画し、スウェーデンの赤十字代表フォルケ・ベルナドッテ伯爵に接触した。西側連合国はこの申し出を拒否し、この背信行為ととも言えるこの行動をラジオ放送で暴露した。総統官邸の地下壕でそれを知ったヒトラーは激怒し、ヒムラーをナチス要職のすべてのポストから罷免する。

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/index.html
カール・デーニッツ(最終階級:海軍元帥)Karl Doenitz(1891-1980)
−ヒトラーの後継者−

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/index.html
ヘルマン・ゲーリング(最終階級:国家元帥)
Hermann Goering(1893-1946)−国家元帥まで上り詰めた戦争政治屋−
39年、ヒトラーはゲーリングを後継者として指名し、40年には彼のために国家元帥の名称を創設した。しかし…40年の空軍力でイギリスを屈服させることに失敗したことを皮切りに、43年のスターリングラードで包囲されたドイツ軍への物資空輸作戦の失敗によって、ゲーリングの名声も権力の失墜も決定的となった。44年までにはナチス首脳部の実質的な決定機能から退き、絵画コレクションに傾倒するとともに、薬物への依存が高まり、常軌を逸していた。45年には再び野心を露わにし、ヒトラーの後継者としての立場を確かめる電報をヒトラーに送った。これが、マルティン・ボルマンによって裏切り行為としてヒトラーに伝えられ、激怒したヒトラーはゲーリングを逮捕、すべての地位を剥奪した。

66 名前:杉山真大 (sB4AwhxU) 投稿日: 2005/03/31(木) 00:07:59
これを時代錯誤と言わずして何と言う!しかも何を考えているんだ民主党は!!!

4月29日を「昭和の日」に 今国会で祝日法改正へ
http://www.asahi.com/politics/update/0330/007.html
2005年03月30日23時42分

 「みどりの日」にあたる4月29日が「昭和の日」に、「国民の休日」とされていた5月4日が「みどりの日」に変わることになった。祝日法改正案が今国会で成立する見通しとなったためで、実際に変わるのは07年からになる。

 改正案については衆議院内閣委員会が30日の理事会で4月1日に採決することで合意。自民、公明、民主各党は賛成する方針で、今国会で成立する運びとなった。

 同改正案は過去2回、衆参両院のいずれかを通過しながら、衆院解散に伴って廃案になった。自民・公明両党が昨年の通常国会に共同で再提出し、衆議院で継続審議になっていた。

[My HP] http://politics.mtcedar.com/

67 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/03/31(木) 13:17:22
戦争で中止、幻の1940年万博入場券 一宮の青山さんが保存
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050331-00000009-cnc-l23

[愛知県] 1940(昭和15)年に東京と横浜の2会場で開催予定だった「紀元2600年記念 日本万国博覧会」の抽選券付き回数入場券を保存している、一宮市西島町の織物業青山恭一さん(64)が、入場券の一宮市への寄贈を検討している。日本万博は日中戦争の影響で中止となったのに伴い、入場券の大部分が払い戻されており、博覧会協会によると回数入場券を1冊丸ごと残していた例は珍しいという。

 回数入場券は12枚つづり。1冊10円で、表紙の通し番号が抽選番号になっている。当時、東京に住んでいた青山さんの父・洋さんが購入したもので、万博中止後の44年、戦争激化に伴い一家で蒲郡市に疎開した後も、入場券はそのまま保管していた。

 70年の大阪万博の際、中止した日本万博の入場券と大阪万博の入場券の交換が可能となったため、洋さんは「家族で万博に行ける」と喜んだが、開幕前年の69年、念願を果たせないまま66歳で亡くなった。

 その後、入場券は名古屋市に住む青山さんの兄が保存していたが、愛・地球博(愛知万博)の開催に合わせて「愛知万博の盛り上げに利用できないか」と青山さんが譲り受け、一宮市への寄贈を打診中。

 既に、愛知万博の会場を訪れたという青山さん。父親が「大阪万博に行ける」と入場券を眺めながら喜んでいた顔を思い出したと言い、「父の夢がかないました。戦争で中止された万博から65年。無事開かれた万博に平和を実感した」と話している。 (広瀬和実)
(中日新聞) - 3月31日10時51分更新

68 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/04/14(木) 21:11:04
ナチスがらみでは一儲けした印象のあるスイスの銀行だが。。

ナチス被害遺族へスイスの銀行は23億円支払え 米裁判
http://www.asahi.com/international/update/0414/009.html
2005年04月14日19時33分

 ナチスによる大量虐殺(ホロコースト)の犠牲者家族らが、UBSAGやクレディ・スイス・グループなどスイスの複数の銀行に対し、預けた資産を勝手にナチスに供出したなどとして起こした損害賠償訴訟をめぐって、ニューヨークの連邦地裁は13日、2人の犠牲者の遺族14人に対し2190万ドル(約23億円)の支払いを認めた。AP通信などが伝えた。同地裁は数千人のユダヤ人遺族らへの計15億5000万ドルの支払いを98年に命じており、その分配を特別の法廷に委託していた。

 同通信などによると、オーストリアの製糖工場の大株主だった犠牲者らは、ナチス・ドイツによる同国併合が迫ったため、株をスイスの銀行に移したという。銀行は合意なしに株を売却することはないと約束したものの、犠牲者やその家族が逮捕されたり、国外に逃亡したりした間に、圧力に屈してドイツの投資家に株を譲り渡したという。

 ロイター通信は、この訴訟をめぐってこれまで約3000件の支払いが認められたが、1件あたりの平均は12万9千ドル、としている。

69 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/04/16(土) 11:49:51
日露戦争の真の功労者児玉源太郎特集

乃木希典なんて無能よ。

http://www.c20.jp/p/kgentaro.html
http://www.c20.jp/1904/12203ko.html
業を煮やした児玉源太郎は、乃木希典司令官からその指揮権を強奪し、わずか半日で二〇三高地の占領に成功した。 正確には、80分+30分で、だ。 そして、奪った二〇三高地を観測点として、この日のうちに旅順港内のロシア艦隊に砲撃を開始し、ほどなく壊滅的打撃を与えている。

http://www.jacar.go.jp/cloud_kodama.htm

http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/77.html?c=0

http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kodama_ge.html

70 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/04/16(土) 12:08:47
奉天会戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E5%A4%A9%E4%BC%9A%E6%88%A6

目先の勝利や戦争拡大の雰囲気に惑わされず、講和への道を開いた兒玉源太郎は、翌年7月、日露戦争に気力の全てを注ぎ込んだかのように脳卒中でこの世を去った。

71 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/04/16(土) 12:19:35
児玉源太郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%92%E7%8E%89%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E

なんと。。>菅直人元民主党代表の長男・源太郎は、彼にちなんで名付けられた。

72 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/04/25(月) 20:48:53
こんな仕事というか芸能者がいたんですねぇ。昔なりの社会保障制度だったのでしょうか?

最後の越後瞽女・小林ハルさん、105歳で大往生
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050425-00000506-yom-soci

 最後の越後瞽女(ごぜ)として知られる新潟県黒川村の小林ハルさんが25日午前2時10分、老衰のため、同村内の特別養護老人ホームで亡くなった。105歳だった。

 告別式は28日午前10時から同県荒川町坂町1750の1、ベルホール会津屋荒川で。喪主はなく、特養ホームを運営する社会福祉法人「愛光会」理事長、高沢正樹氏が葬儀委員長を務める。

 瞽女は、三味線を抱え家々を巡り歩きながら、民謡や小唄などを披露する盲目の旅芸人。冬場の娯楽が少ない雪国の「越後瞽女」は名高く、一時は500人を超えたとされる。戦後、急速に姿を消した。

 新潟県三条市の農家に生まれ、生後100日で白内障のため失明。4歳で瞽女に入門し、8歳で初めて旅に出た。1973年まで各地を歩いた。78年、文化庁から「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」の技芸者と認定され、79年に黄綬褒章を受章。2002年には吉川英治文化賞も受けた。
(読売新聞) - 4月25日11時47分更新

73 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/05/05(木) 01:17:25
>6月23日を「沖縄戦終結」、9月18日を「柳条湖事件」、12月8日を「太平洋戦争勃発」
やべぇ,歴史好きを自認してる筈なのに一つも知らんわ。。昔から年号とか覚えるの苦手やったしましてや日付をや。
当日はgoogleに頼んでバナー変えて貰いましょうよ。

「銃後」「御真影」知らず 大学生、沖縄戦の日も
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050504-00000084-kyodo-soci

 「銃後(じゅうご)」「御真影(ごしんえい)」といった言葉を知っている学生が減り、近代史に関する日付として6月23日を「沖縄戦終結」、9月18日を「柳条湖事件」、12月8日を「太平洋戦争勃発」と正しく記憶している割合も低下していることが、教育史研究者の岩本努さんの調査で分かった。特に加害の歴史については理解不足が目立った。
 岩本さんは「中高校で近代史を十分教えず、マスメディアもあまり取り上げない。中国、韓国で反日運動が高まる中、歴史を正しく知らなければ、本当の意味の友好関係を築くことはできない」と話している。
 岩本さんの講義を受けている中央大の44人、法政大の79人を対象に4月に調べた。
(共同通信) - 5月4日16時41分更新

74 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/05/08(日) 13:23:25
秀吉の朝鮮出兵「抵抗の碑」返還の可能性 調整本格化
2005年05月08日09時46分
http://www.asahi.com/politics/update/0508/001.html?t5

 20世紀初頭に旧日本軍の将校が朝鮮半島から運び去ったとされ、現在は東京・九段の靖国神社境内にある「北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)」が、朝鮮半島に返還される可能性が出てきた。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、地元の義勇軍が活躍したことをたたえた石碑で、韓国と北朝鮮が返還を求めるための調整を開始。日本政府も靖国神社側との仲介に乗り出す考えだ。同神社も「韓国と北朝鮮の調整がつき、日本政府から正式に要請があれば応じる」(社務所)としている。

 日本政府関係者によると、韓国の李海●(イ・ヘチャン)首相と北朝鮮の金永南(キム・ヨンナム)・最高人民会議常任委員長がジャカルタで4月下旬に会談した際、碑の返還方法や保管場所をめぐって意見交換した。これを受け、6日の日韓外相会談で、韓国の潘基文(パン・ギムン)外交通商相が「返還が実現すれば日韓関係のみならず、南北関係の改善にも寄与する」と要請。町村外相は「靖国神社側とよく話をしながら、誠意を持って対応したい」と応じた。

 この碑は18世紀初頭、現在の北朝鮮・咸鏡北道内に建てられた。義勇軍の子孫が韓国側に多いことから、返還する場合も、どちらに返還するか、韓国と北朝鮮の調整が必要とされていた。(●は王へんに賛)

75 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/05/15(日) 00:01:38
米国防総省:ポーツマス条約ゆかりの海軍工廠も閉鎖
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/america/news/20050514k0000e030026000c.html
[ワシントン及川正也] 日露戦争を終結させたポーツマス講和条約ゆかりの歴史的な米海軍基地が消える?−−。米国防総省が13日発表した国内基地統合・閉鎖リストの中に、今年で100年を迎える同条約調印の場所、ポーツマス海軍工廠(こうしょう)(米メーン州)が含まれた。

 同条約は1905年、セオドア・ルーズベルト米大統領の仲介で小村寿太郎、ウィッテの日露両全権代表の間で署名。米側が交渉場所として提供したのがニューハンプシャー州ポーツマス市の隣町にある同工廠「ビルディング86」の一室。

 交渉は8月8日に始まり1カ月後の9月5日に調印。ルーズベルト大統領はこの功績でノーベル平和賞を受賞。同ビルには交渉当時の写真を飾った記念室もある。

 同工廠は、ロサンゼルス級原子力潜水艦の整備などに使用されている。閉鎖により約4000人の基地従業員の職が失われるため、地元選出議員らが反発している。

 調印100年記念行事を計画している「ポーツマス講和条約記念委員会」広報責任者のステファニー・シーコードさんは「工廠は歴史を象徴する場所で、ポーツマスの人々も誇りに思っている。閉鎖は最終決定ではないし、議員らも反対している」と語り、基地存続を訴えた。
毎日新聞 2005年5月14日 11時00分

77 名前:とはずがたり(1/2) 投稿日: 2005/05/26(木) 10:07:21

「クリスマス・プレゼント」と称して日本へ復帰
奄美群島 
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/japan/amami.html

旧アメリカ領
1946年2月2日 北緯30度以南の奄美諸島が日本の行政権から切り離され、米軍の統治下に入る
1952年2月4日 サンフランシスコ平和条約に基づいて、北緯29度以北(トカラ列島の十島村)が日本へ復帰
1953年12月25日 奄美諸島が日本へ復帰

2002年は沖縄返還30周年でマスコミなども特集を組んでいたが、2003年は奄美返還50周年。でも全国的にはあんまり話題にならないでしょうね。

沖縄はアメリカ軍の占領とともに日本から切り離されて米軍の統治下に置かれたが、翌46年2月2日には北緯30度以南の奄美諸島の行政権も日本政府から米軍へ移された。発表はわずか4日前。奄美諸島では戦時中に空襲は受けたが米軍が上陸したことはなかった。終戦から半年経って突如日本から切り離されるなんて、奄美の住民たちにとってはまさに晴天の霹靂だ。

ただしアヤシイ兆候は敗戦直後からあった。奄美大島にいた日本軍の武装解除にやって来た米軍が携えてきた降伏文書にはNorthern Ryukyu(北部琉球)と書かれていたため、日本軍司令官は「ここは琉球ではなく、九州・鹿児島県に属する奄美群島である」と署名を拒否。すったもんだの押し問答の末、米軍側はマニラの司令部と相談してAmami Gunto Kagoshima Ken(鹿児島県奄美群島)と文面を訂正し、ようやく日本軍が降伏手続きが行われるという一幕があったのだ。

奄美諸島は鹿児島県だが、もともと沖縄の文化圏で言葉は琉球方言だし、かつて琉球王朝の統治下に置かれた歴史もある。17世紀初めに薩摩藩が琉球を征服した時に薩摩の直轄領に移された。アメリカは沖縄上陸の前から「琉球人は日本人によって虐げられていた少数民族である」と分析し、米軍の占領が終わっても沖縄は日本へ返さず、韓国のように独立させることも検討していた。そこで奄美諸島も「もともとは琉球の領土」とみなし、日本から切り離して沖縄の一部に加えるのが当然と考えたようだ。

アメリカは軍政府の下に琉球人による民政府を作り、限定的な自治を行わせることにした。しかし沖縄本島は激しい地上戦で破壊され交通・通信は壊滅状態だったので、沖縄、宮古、八重山、奄美の4つの「群島」に分け、それぞれに自治政府を作った。

こうして奄美では46年3月に本土出身の「日本人」が公職から追放されて鹿児島へ強制送還され、10月に「奄美人」による臨時北部南西諸島政庁が発足、50年11月には奄美群島政府に昇格し、ちょっとしたミニ国家のようになった。米軍の指令によって、本土企業の支店や営業所は接収されて公営企業となり、大島中央銀行も誕生した。群島政府知事や群島議会の選挙に先駆けて、協和党や社会民主党などの独自政党が生まれ、地下組織として結成された奄美共産党は当初「奄美人民共和国の独立」を掲げた。

78 名前:とはずがたり(2/2) 投稿日: 2005/05/26(木) 10:07:43
>>77-78

しかし、4つの群島知事選の結果はいずれも「日本復帰の実現」を公約にした候補が勝利したため、不愉快になったアメリカは51年4月、新たに琉球臨時中央政府を設立し、群島政府は廃止することを決定。翌52年4月に琉球政府を発足させた。琉球政府のトップである主席は公選ではなく米軍からの任命で選ばれ、親米派の元英語教師を主席に据えた。こうして奄美の行政は沖縄と一体化することになった。

1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約では、琉球列島(日本式に言うと南西諸島)は正式に日本から切り離されてアメリカの施政権下に置かれた。平和条約の調印を前にして本土復帰運動が急速に盛り上がったが、なかでも激烈だったのが奄美。復帰要求の署名運動では、14歳以上の住民のうち99・8%もの署名が集まり(沖縄本島では72%)、数千人規模で村ぐるみの断食祈願(つまりハンガーストライキ)が繰り返された。

なぜかというと、日本と切り離された打撃は沖縄より奄美の方が大きかったから。アメリカ統治が始まってから本土との往来は禁止され、後に緩和されはしたものの本土へ行くにはパスポートが必要になったし、渡航許可は那覇を経由して申請したので手続きに数週間かかる。本土への商品出荷は「外国製品」として関税がかけられたため売れなくなり、日本政府や鹿児島県からの補助金はストップしたうえ、アメリカからの援助は沖縄本島の復興が優先されたので奄美にはほとんどまわってこなかった。このため奄美住民の生活は困窮し、沖縄のように基地産業で潤うこともなく、人口20万人のうち3万人が仕事を求めて沖縄本島へ移っていった。

ところでその頃、すでにアメリカによる沖縄統治の目的は変わっていた。サンフランシスコ平和条約ではアメリカによる施政権を認める一方で、日本の潜在主権も認められ、将来的に琉球列島(南西諸島)が返還される道を残したものになった。アメリカが施政権を保持するのは、当初のような「少数民族である琉球人の独立のため」ではなく、朝鮮戦争以降の東西冷戦の中で東アジアにおける軍事拠点を確保するためになった。そうなると、基地がない奄美諸島を占領し続けてもアメリカにとってメリットはない。むしろ復帰運動が激しいことでマイナスになった。

かくして53年になると、アメリカは奄美諸島を日本へ返還する方針を明確にした。一時は沖縄に近い与論島と沖永良部島を除外する案も出たが、小中学生が血書の嘆願状を出したり、「奄美と一緒に返還されないのなら島民全員で移住する」と決議するなど激しい反対運動が起きたため、結局すべての奄美諸島を返還することに決定した。返還日は12月25日だったので、アメリカはこれを「クリスマス・プレゼント」だと自画自賛した。

奄美の人たちは本土復帰が決まって万事メデタシかと言えば、新たな問題も生まれた。沖縄で働いていた3万人の奄美人は、奄美復帰とともに琉球人から日本人、つまり法的には「外国人」になってしまった。沖縄で仕事を続けるためには居住許可が必要となり、政治的権利は剥奪され、公務員にもなれなくなり、また土地所有権の取得が認められないなど、沖縄に住む奄美人は様々な差別を受けることになったのだ。こうした「民族分断」がもたらす矛盾が解消されたのは、72年に沖縄が日本へ復帰して、本土人も沖縄人も奄美人もみんな同じ「日本国民」になってからのこと。

79 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/05/27(金) 17:59:12

旧日本兵:「数十人生存」情報も 半数が帰国希望
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050527k0000e040098000c.html

ミンダナオ島ダバオ市北方50キロの山々。この山中に元日本兵が生きている可能性が高いという=昨年12月、寺嶋会長らの捜索隊が撮影

 フィリピンに出征した旧日本兵らでつくる「曙光会」の近藤敏郎さん(83)によると、昨年12月20日にフィリピンから帰国した厚生労働省の遺骨収集団から、ミンダナオ島のキバウエ東方で中内続喜(つづき)さん(85)=高知県明治村(現・越知町)出身=ら3人が生存しているとの連絡が入ったという。近藤さんは「3人は現地のモロ族という部族に保護されているらしい。同島には旧日本兵の生存者が57人おり、半数が帰国を希望していると聞いた」などと話した。

 ◇未帰還者は21人

 厚生労働省によると、戦死情報がなく家族などの話から判断した旧日本兵の未帰還者は今年4月現在、21人。中国16人、旧ソ連2人、樺太とビルマ(現ミャンマー)、ベトナムの各1人で、フィリピンはゼロとなっていた。ただ、ミンダナオ島については、旧日本兵26人が集団で住んでいるという情報があり、72年8月と73年11月に現地を捜索したが、確証が得られなかった経緯がある。
毎日新聞 2005年5月27日 15時41分

80 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/05/27(金) 18:31:21
精鋭の豹兵団、80%が戦死…元日本兵2人が所属
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050527-00000305-yom-soci

 防衛庁防衛研究所や戦友会の戦跡記録によると、ミンダナオ島で生存していた元日本兵と見られる2人が所属していたとされる旧陸軍第30師団は、1943年(昭和18年)6月、朝鮮半島の平壌で編成された。

 「豹(ひょう)兵団」と呼ばれ、総員約1万6000人、20歳代前半の兵士が主力だったが、80%が戦死したという。

 当初は対ソ連戦に備えていたが、南方の戦局悪化により、44年4月、ミンダナオ島防衛のため出動を命じられた。

 2人が所属していたとされる同師団捜索第30連隊は、車両などを備えた約470人の偵察部隊。同年6月、同島に到着し、ジャングルや山岳地帯で活動したという。

 第30師団の戦友会「豹の会」会長の市川豪一さん(89)(大阪府東大阪市)によると、同師団は「豹兵団」と呼ばれた精鋭部隊だった。

 しかし、戦場は米軍の制空権の下にあり、各地で激戦となった。同年10月にはマッカーサーが北のレイテ島に上陸、第30師団からも主力部隊が投入されたが壊滅した。45年3月には米軍がミンダナオ島上陸を開始。部隊は散り散りとなり、ジャングルなどでのゲリラ戦に突入した。同師団の戦死者・生死不明者は1万2000人を超え、日本に帰還したのは3000人程度に過ぎなかった。

 豹の会の戦跡記録によると、捜索第30連隊は、上陸した米軍と速射砲などでの激しい戦闘となり、劣勢の中、切り込み作戦などで応戦した。大勢が決してからは、飢えと病に苦しみながらジャングルの中を進み、投降が始まったのは9月になってからだった。

 同連隊では、在籍473人中、287人が戦死したという。
(読売新聞) - 5月27日13時38分更新

81 名前:ぽんこ 投稿日: 2005/05/28(土) 00:05:52
今朝、ドイツのラジオで日本海海戦のことを言っていました。
それはニュースではなく100年前の今日の出来事と言った感じでした。
ドイツでは3紙のうち1紙のみウェブ上で取り上げていました。
しかし英米の新聞のウェブではどこもやっていないようでした。
かなりの大事件だと思うのですが、やはりロシア(あるいは欧米全体)にとっては恥で、その配慮があるのかもしれません。
http://www.asahi.com/national/update/0527/TKY200505270145.html
http://www.asahi.com/international/update/0527/013.html
http://www.welt.de/data/2005/05/27/723522.html?search=japan&searchHILI=1

82 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/05/28(土) 00:28:26
>>81
おお,情報提供感謝です。
そういえば対馬海峡での慰霊祭にロシアから初めて参加者がとか云うニュースもどっかで見ました。

白人が黄色人種に負けたという意味ではとてつもない衝撃的事件だったでしょうからねぇ。

83 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/05/28(土) 00:30:34
日露戦争の日本海海戦100年 ロシアで水兵追憶の式典
2005年05月27日18時28分
http://www.asahi.com/international/update/0527/013.html

 日露戦争の日本海海戦から100年たった27日、ロシアでは海軍が「水兵追憶の日」として全艦艇で式典をするなど、各地で催しがあった。だが、海戦史上最大の敗北とあって、受けとめ方は様々だ。

 極東の太平洋艦隊ではこの日の朝、母港ウラジオストクに停泊中の全艦艇上で水兵たちが黙祷(もくとう)をささげた。海戦参加者の墓にも、艦隊の幹部らが献花をした。

 バルチック艦隊の本拠地だったクロンシュタット軍港に7月、海上自衛隊の練習艦隊が初めて友好訪問するなど、日ロの防衛交流も進んでいる。ザハレンコ海軍司令官代理は、最近訪ロした先崎一統合幕僚会議議長に「東郷平八郎連合艦隊司令長官を尊敬している」と語った。

 しかし、ロシアのメディアには、主力艦がほぼ壊滅した海戦にいろいろな評価が出ている。

 国防省機関誌「赤い星」は27日、海戦の敗因に「艦隊建設計画のずさんさ、砲撃力の弱さ」などをあげ、「いまも予算不足で老朽艦ばかり。状態は変わらない」と強調した。

 一方で、現代のロシアの歴史教科書は海戦を「戦史上、恥辱の一ページであり、民族の誇りに痛切な打撃を与えた」と位置づける。

 愛国主義的な志向を強めるプーチン政権下のロシアでは、海戦をタブー視する傾向もある。週刊紙モスクワ・ニュースは「忘れたい歴史でも、忘れると同じ失敗をする」と警告した。

84 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/05/28(土) 00:35:10
ドイッチュ語じぇんじぇんわからん・・。

Aus dem Gedachtnis: Erster in Asien
http://www.welt.de/data/2005/05/27/723522.html?search=japan&searchHILI=1

Vor 100 Jahren versenkten die Japaner bei Tsushima die russische Ostseeflotte. Gerade 40 Jahre hatte Japan gebraucht, um sich nach seiner Offnung durch die Flotte des amerikanischen Commodore Perry von einem isolierten, in uralten Traditionen verharrenden Land in eine moderne Macht mit entsprechenden Interessen zu verwandeln. Weil man in Tokio Einflusgebiete auf dem chinesischen Festland gewinnen wollte, kam es 1894 zum chinesisch-japanischen Krieg. Doch alle Siege fuhrten nicht zum gewunschten Erfolg, legte sich doch der russische Zarenstaat dazwischen. Er besetzte die Mandschurei, durch die die Transsibirische Eisenbahn verlief, und pachtete den Hafen Port Arthur.

Keine zehn Jahre spater fuhlte sich Japan stark genug, diese Scharte auszuwetzen. Am 9. Februar uberfiel seine Flotte das russische Ostasiengeschwader in Port Arthur. Zwei Tage spater erst erklarte es den Krieg.

Um die Niederlage auszugleichen, beschlos man im Juni 1904 in St. Petersburg, die Baltische Flotte nach Wladiwostok in Marsch zu setzen. Doch erst am 15. Oktober konnte sie unter dem Kommando von Admiral Roshdestwenskij aus Liebau auslaufen. 34 000 Kilometer lagen vor ihr. Es wurde eine Reise in den Untergang.

Viele der 36 Kampf- und neun Begleitschiffe waren veraltet, andere nicht im besten Zustand. So blieb die Marschgeschwindigkeit langsam. Auch muste, weil kein Land das Anlegen erlaubte, die Kohle auf See ubernommen werden - die Hamburg-Amerika-Linie sicherte sich den Auftrag, entsandte 60 Kohledampfer und konnte von dem Gewinn ihre Luxus-Schiffe "Amerika" und "Kaiserin Auguste Victoria" bauen.

Als der russische Verband in die Tsushima-Strase zwischen Japan und Korea einlief, erwartete sie dort bereits die japanische Flotte unter Admiral Togo mit Schiffen, sie schneller und starker gerustet als die russischen waren und taktisch besser gefuhrt wurden. Die Folge der zweitagigen Seeschlacht war eine Katastrophe. Lediglich drei kleineren russischen Schiffen gelang der Durchbruch nach Wladiwostok. Acht Schlachtschiffe, neun Kreuzer und die meisten Begleitschiffe wurden versenkt oder auser Gefecht gesetzt. Mehr als 4000 russische Seeleute kamen um, 7300 und drei Admirale gingen in Gefangenschaft. Japan verlor drei Torpedoboote und 116 Mann.

Angesichts dieser Niederlage akzeptierten der Zar wie der Meiji-Kaiser - Japan hatte sich finanziell ubernommen - das Vermittlungsangebot der USA, das am 5. September 1905 zum Frieden von Portsmouth (USA) fuhrte. Japan erhielt die Mandschurei, Port Arthur und Korea als Einflusgebiete. Damit war es als erste asiatische Nation zu einem weltpolitischen Faktor geworden. Peter Dittmar

Artikel erschienen am Fr, 27. Mai 2005

85 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/05/28(土) 00:35:44
>>84
=Translated by Alta Vista=
http://babelfish.altavista.com/

From the memory: First in Asia
Before 100 years the Japanese sank the Russian Baltic Sea fleet with Tsushima. Straight 40 years Japan had used, in order to transform after its opening by the fleet of the American Commodore Perry of an isolated country remaining in age-old traditions into a modern power with appropriate interests. Because one wanted to win in Tokyo spheres of influence on the Chinese mainland, it came 1894 to the Chinese-Japanese war. But all victories led not to desired success, put nevertheless the Russian Zarenstaat between them. He occupied the Manchuria, by which the Trans-Siberian railway ran, and leased the port haven Arthur.

Japan did not feel ten years later strongly enough to out-sharpen this scharte. On 9 February its fleet attacked the Russian Eastern Asia squadron in haven Arthur. Later only it explained two days the war.

In order to adjust the defeat, one decided in June 1904 in pc. Petersburg to set the Baltic fleet after Wladiwostok in march. But only on 15 October it could run out under the command of admiral Roshdestwenskij from Liebau. 34,000 kilometers lay before it. It became a journey into the fall.

Many of the 36 combat and nine consort ships had become outdated, others not in the best condition. Thus the cruising speed remained slowly. Also had, because no country permitted the creation, which are taken over coal on lake - the Hamburg America line secured itself the order, sent 60 coal steamers and could from the profit her luxury ships "America" and "empress Auguste Victoria" build.

When the Russian federation ran into the Tsushima road between Japan and Korea, it expected there already the Japanese fleet under admiral Togo with ships, it faster and than the Russian were more strongly prepared and were tactically better led. The consequence of the two-day sea-battle was a disaster. The break-through succeeded to only three smaller Russian ships at Wladiwostok. Eight battle ships, nine cruisers and most consort ships were sunk or put out of action. More than 4000 Russian sailors died, 7300 and three admirals went into shank. Japan lost three torpedo boats and 116 men.

In view of this defeat accepted the Zar like the Meiji emperor - Japan had financially taken over itself - the offer of mediation of the USA, which led on 5 September 1905 to the peace of Portsmouth (the USA). Japan received Manchuria, haven Arthur and Korea as spheres of influence. Thus it had become as the first asiatic nation a world-political factor. Peter Dittmar

Articles appeared at the Fr, 27 May 2005

86 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/06/05(日) 03:28:16
歴史教科書 扶桑社版の誤り指摘
高嶋琉球大教授 「沖縄戦など5カ所」
http://mytown.asahi.com/ehime/news02.asp?kiji=4926

 歴史教科書の問題に取り組んでいる琉球大学教育学部の高嶋伸欣教授が3日、県庁で会見し、県内の県立中学校などで使用されている扶桑社版の歴史教科書について、「記述の誤りが14カ所あり、(今春の検定に通った) 改訂版でも5カ所残っている」 と指摘した。また、今夏の中学校教科書採択に向けて「慎重に教科書を選んでほしい」 と訴えた。

 高嶋教授は教科書問題について講演するために来県し、これに先だって会見した。 沖縄の視点を採り入れた公民の教科書づくりに取り組んでいるほか、扶桑社版教科書の内容に反対する講演活動などをしている。

 高嶋教授は、扶桑社版の歴史教科書には 「太平洋戦争での沖縄戦の開始時期を45年4月と記述しているが、実際には3月下旬から始まっている」 など誤りが14カ所あると指摘。 02年に同社に対して指摘したが、今でも直っていないという。

 今夏の教科書採択の対象となる改訂版でも 「沖縄戦の記述などに誤りが5カ所残っており、扶桑社の教科書づくりに対する姿勢が問われる」と話した。同社の公民教科書(改訂版) についても「改憲が当然のテーマとして記述されている」 と、問題点を述べた。

 そして、「愛媛では誤った記述がある教科書で子供たちが学んでいる。 これは教科書を採択した社会の責任だ」 と訴えた。 高嶋教授は4日に県美術館(松山市堀之内) で、5日は歴史文化博物館(西予市) で講演する。

 一方、扶桑社版歴史教科書の執筆者の一人である拓殖大学の藤岡信勝教授や俳優で前衆院議員の森田健作氏が講演する 「歴史教科書シンポジウム」 (教科書を改める愛媛1000人委員会主催) が5日、県民文化会館(松山市道後町2丁目) で開かれる。
(6/4)

87 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/06/05(日) 11:32:36
またぞろなんか言い出したぞ。。
どーでもいいけど「自由主義史観」って名前は不正確なんじゃないの?

「集団自決強要は虚構」 自由主義史観研
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050605-00000007-ryu-oki

[東京] 新しい歴史教科書をつくる会副会長の藤岡信勝拓殖大学教授が代表を務める自由主義史観研究会は4日、都内で緊急集会「沖縄戦集団自決事件の真相を知ろう」を開催。5月下旬に座間味村、渡嘉敷村で実施した聞き取り調査などを基に「旧日本軍による集団自決の強要は虚構」として、教科書・教材から削除を求める決議を採択した。

 決議は(1)文科省に教科書検定方針を改め、「集団自決強要」の記述を削除する指導を求める(2)教科書会社やその他の出版社に、教科書や教師用指導書、副読本などから記述削除を求める―といった内容。
 藤岡代表は座間味村で海上挺進隊第一戦隊の梅澤裕隊長(当時)の伝令の役目をした男性、渡嘉敷村の集団自決で生き残った男性ら3人の証言をビデオにまとめて紹介し、「今回の調査で自決が強要されていないことが明らかになった」とまとめた。
 さらに「戦争の悲劇は忘れてはいけない。肉親の中で最も弱い者から殺された事件の重さに比べて、軍命は一割の比重かもしれない。しかし、自決を軍命とするのは、旧軍のみならず日本人、日本国に対する侮辱だ」と語り、聴衆に賛同を呼び掛けた。
 集会では横浜市内の中学校に勤める服部剛教諭が集団自決は軍命ではないとする考え方を導く、模擬授業を再現した。
(琉球新報) - 6月5日11時17分更新

88 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/06/20(月) 17:50:08
国際法上は東京大空襲も原爆投下も明白な違反だよな。
日本が生産能力の85%を破壊されてもまだ戦い続ける狂った状態にあっとしてもだ。
勿論操縦士にも航法士にも何の責任も罪も無かろうが英雄でも無いことは確かだな。

広島原爆:
投下機の元航法士「自分の仕事をしただけ」
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050620k0000e040076000c.html

[オークリッジ(米テネシー州)國枝すみれ] 広島に原爆を投下したB29型爆撃機「エノラ・ゲイ」の元航法士、セオドア・バン・カークさん(84)は19日までに、毎日新聞との単独会見に応じた。「原爆は戦争終結を早め、多くの命を救った」と持論を繰り返す一方、「核兵器廃絶が理想だ」と話した。

 ジョージア州ストーンマウンテン在住で引退生活を送るバン・カークさんは、オークリッジで開かれた原爆開発計画「マンハッタン・プロジェクト」60周年記念行事に招かれていた。戦後60年たち、エノラ・ゲイの乗組員12人のうち、現在まで生存しているメンバーは、バン・カークさんを含め3人に減っている。

 −−原爆投下の瞬間の気持ちは。

 ◆うまくいった、よかった、と思った。不発だったらと心配した。爆弾を投下し、爆発した。作戦は成功だ。マンハッタン・プロジェクト全体も成功だと思った。これで戦争が終結する、少なくとも終戦が早まると思った。5年間の従軍で、戦いに疲れきっていた。家に帰りたかった。我々はみなプロの兵士集団というより、むしろ軍服を着た民間人だった。

 −−60年たって、同じ気持ちですか。

 ◆全く同じだ。変わりない。

−−原爆投下は必要なかったのでは。

 ◆原爆投下前の段階で、日本の生産能力の85%は破壊されていた。論理的な人間ならずっと前の段階で降伏していたはずだが、日本は最後まで戦うと主張し続け、多くの人々が連日死んでいた。日本本土への侵攻作戦が実施されていたらもっと犠牲は増えた。私は真実を知っている。原爆は戦争終結を早め、多くの命を救った。疑いの余地はない。

 −−核兵器についてどう思いますか。

 ◆核兵器は廃絶されるべきだと思う。誰もが核兵器を持っていない状態が最も理想だと思うが、もし他国が核を持っていたら、米国はそれより1つ多くの核を持っているべきなのだ。

 −−米国ではエノラ・ゲイの搭乗員を英雄視する向きもあります。

 ◆私の仕事は単に(太平洋西部の)テニアン島から広島に飛行機を飛ばし、爆弾を落とし、旋回して家に帰っただけ。自分を英雄だとは思わない。第二次大戦に参加した兵士は全員がそれぞれの役割を果たし、私も自分の仕事をしただけだ。
毎日新聞 2005年6月20日 15時00分

89 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/06/23(木) 11:48:45
時効はないみたいですが収監されるとも限らないんですね。
ナチスもひどい事してたんだなぁと思いますが日本の三光作戦の実体と比べてどうなんでしょうかね?>村民560人の虐殺事件
更にはアメリカの空襲や原爆なども非戦闘員への無差別攻撃であって国際法違反である。新型爆弾に関しては知らないが空襲に関しては戦争中に日本政府はアメリカに抗議している。
勿論ソ連は日ソ中立条約の規定を破って参戦した上にシベリア抑留で日本兵は辛酸を舐めた。
我々は当時の気の狂った列強の行動をきちんと後世に伝えて行かねばなるまい。

61年前の村民虐殺で終身刑 元ナチス親衛隊10人
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/kokusai/20050623/20050623a3740.html
2005年 6月23日 (木) 08:45

[ローマ23日共同] イタリア・ラスペチアの軍事法廷は22日、1944年8月12日にトスカーナ州で起きたナチス親衛隊(SS)による村民560人の虐殺事件で、元隊員10人に終身刑を言い渡した。被告はいずれも80歳以上でドイツ在住。高齢のためもあって裁判には出廷せず、収監されるかどうかも未定。

長年ローマで埋もれていた関連書類が発見されて実行犯が判明したため、トスカーナ州など5団体が訴えを起こし、昨年4月に裁判が始まった。

判決によると、被告らは同州サンターナ・ディ・スタゼマ村で、農民などで組織された非正規軍であるパルチザンの隠れ家を教えるよう教会の司祭に要求。司祭が「パルチザンはいない」と答えると、村民のほぼ全員、560人を射殺しガソリンをかけて燃やした。10歳以下の子ども72人が含まれ、腹を割かれた妊婦もいたという。

90 名前:とはずがたり 投稿日: 2005/07/30(土) 04:42:36
宮脇(俺が宮脇と云ったら俊三の事である)の親爺さんは長吉という元軍人ながら軍部の増長を快く思ってなかったようだ。
黙れ事件という事件のの当事者だったらしい。
また宮脇の奥さんは彫刻家で離婚したらしい。本に出てくる奥さんは再婚相手か?二人ぐらい娘が居たと思ったがどっちとの子だ?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E8%84%87%E9%95%B7%E5%90%89
宮脇長吉(みやわきちょうきち 1880年2月5日 - 1953年2月16日)は、日本の軍人・政治家。紀行作家宮脇俊三(1926年 - 2003年)の父。

香川県の農家の四男として産まれる。兄弟には田中義一内閣や幣原喜重郎内閣等で大臣を務めた政治家三土忠造(漢学者だった三土家の養子と
なった)、内務官僚として埼玉県や千葉県等の知事を歴任した宮脇梅吉(埼玉県知事時代に、初めて大宮・浦和・与野の「埼玉市」を構想し
た)がおり、地元では優秀な兄弟として知られていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E8%84%87%E4%BF%8A%E4%B8%89
http://hamayan.livedoor.biz/archives/10775031.html
帝国議会「黙れ事件」
http://military-web.hp.infoseek.co.jp/rare/rare-army-satoh.htm

Wikiの説明はなかなかつぼを心得てるね。宮脇の文章に慣れたら植村なんて不味くてとても読めたもんじゃねぇ。。
>地理や歴史の深い教養に裏打ちされた簡潔かつ格調高い文章、軽妙なユーモアにあふれた文章を書くことで知られる。熱心な鉄道ファンであ
りながら、鉄道ファン特有の嫌味さがほとんど無い飄々とした文体は多くの人々に受け入れられ、鉄道ファン以外にも多くのファンが存在す
る。「鉄道紀行」を文学の一ジャンルにまでした、と評されることもある(しかし、「鉄道紀行文学」で宮脇並みのレベルの作品を生んでいる
人物はその後誰もいない、とも言われている)。

91 名前:杉山真大 ◆mRYEzsNHlY 投稿日: 2005/12/17(土) 14:01:32
授業で「赤紙」配布 戦争拒んだ生徒に「非国民」 福岡
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1116734086/129

92 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/01/07(土) 10:24:23
スクリュー音聞き分け 12歳“軍人”死と直面
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200601060019.html
2006年01月06日

 「戦艦大和の犠牲のおかげで生き残った」。小学校を卒業したばかりで軍の極秘訓練を受け、12歳で戦争に投じられることを運命づけられた旧海軍「少年研究生」の一人は、自らの生還の経緯をそう振り返った。六十数年前の少年たちは、10代の大半を死と向き合いながら生きていた。

 「機雷学校少年研究生(給仕)」。神奈川県横須賀市に住む榊原勇さん(78)の海軍時代の履歴表には実態を隠すためか、したこともない「給仕」が加えられている。

 「海軍が研究生を募集するらしい。詳しくはわからんが、勉強もできるし手当も出るようだ」

 66年前、小学6年の2学期。担任教師の言葉は、経済的に余裕がなかった榊原さんには魅力的だった。2年の「研究」の後、高校や大学へ進学する夢もふくらんだ。

 現在の同市田浦町にあった海軍水雷学校で試験を受けた。合格した榊原さんら15人は翌春から、研究生と教官らしか出入りを許されない同校の木造2階建ての建物で生活し、訓練を受けた。

 2階の講堂にはピアノと、米国で発明されたばかりで当時の日本では非常に珍しかった電子オルガン。教官の軍人がそれらを弾き、少年たちに音階を答えさせた。

 「わからねえのか、これが。でくのぼうっ」。元研究生の一人、同市佐原1丁目の三上金次さん(78)は、答えられない研究生への教官の怒声を、よく覚えている。

 訓練はしだいに実践的になった。ビルの屋上から電車の音を聞いて音符で再現したり、録音した米海軍の空母や潜水艦のスクリュー音を聞き分けたり。榊原さんは「実験動物に対する過酷なテストのようだった。訓練の目的も、だんだん分かってきた。『訓練に大金が投じられている』とも聞かされ、軍人を目指さざるをえなくなった」と語る。

 少年水中測的兵となった研究生らは、太平洋戦争末期に海へ出た。榊原さんの乗った巡洋艦は、米軍の機雷で封鎖された北陸沖の海を強行突破。爆沈を免れた直後の45年春、絶体絶命の命令が下った。

 「米軍が上陸した沖縄に水上特攻する」

 榊原さんは死を覚悟したが、間もなく特攻は中止に。先に出撃した戦艦大和が途中で撃沈されたためだった。別の駆逐艦で沖縄に向かうはずだった同市上町4丁目の元研究生、高橋豊さん(78)は「大和の犠牲がなかったら、今ごろ私たちも海の底だった。助かったのは奇跡的だ」と話す。

 元研究生のうち2人は、台湾に向かう途中で船が撃沈されるなどして帰らぬ人となった。

93 名前:杉山真大 ◆mRYEzsNHlY 投稿日: 2006/01/11(水) 18:22:40
この辺りは興味深いですねぇ。現在の女性運動にも通じるところがあるか!?>「金銭感覚の違いなどから次第に違和感を覚えていった」

東条内閣蔵相と市川房枝氏の証言を公開へ 国会図書館
http://www.asahi.com/national/update/0110/TKY200601100390.html
2006年01月11日14時24分

 日米開戦時に東条内閣の蔵相を務めた故・賀屋興宣(かや・おきのり)氏と婦人参政権運動の最前線で活躍した故・市川房枝氏の証言の録音テープと速記録が、13日から国立国会図書館の憲政資料室で公開される。

 賀屋氏は東京裁判でA級戦犯として終身刑を受けたが、10年間の服役後に仮釈放されて政界に復帰。その後、法相や自民党政調会長などを務めた。

 自らの戦争責任について「当時の閣僚で、事実上の開戦・和平の決定機関であった大本営政府連絡会議のメンバーでもあり、日本人として最も重大な責任を感ずべき一人だ」と言及。東京裁判については「侵略戦争を罰するという国際法の概念がない中で、事後法による戦争裁判は不当きわまりない」と不満を述べつつも、「苦痛をなめた多数の日本人に対する道義的責任はあり、巣鴨に収監されることには納得していた」と語っていた。

 市川氏は、日本で最初の女性運動団体「新婦人協会」の結成から解散に至る苦労話に触れて、「一癖も二癖もある人が多くて、団体としてまとまって活動していくのが難しかった」などと述懐した。同協会を一緒に作った女性運動家の故・平塚らいてう氏についても、「金銭感覚の違いなどから次第に違和感を覚えていった」と話している。

 今回の証言は、現代日本政治史上、重要な役割を果たした10人を対象に、国会図書館が聞き取りをしたものの一つ。

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94 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2006/01/14(土) 12:18:44
>>92
音感で敵味方のスクリュー音って聞き分けられるんでしょうか?
昔は内燃機関も騒音でしたが・・・・
>>93
市川は、奥むめをの悪口も言ってるんでしょうか?祈全文テープ起こし。


それはそれ。
この「文芸春秋」記事、私も読みましたが、ただの観光記事でありました。元捕虜の怒りも当然。
でもなんで、ユダヤ人団体が?
あと、読売のロサンゼルス駐在記者の記事の悪文ぶりも酷い。「当地」ってロス?アリゾナ?紀尾井町?バターン?
なんで、上段では「月刊『文芸春秋』」なのに下段は「月刊誌『マルコポーロ』」
(「月刊文芸春秋」なんて雑誌はないぞ、あるのは「文芸春秋」)

「バターン死の行進」記事、ユダヤ人団体が文春に抗議
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060114i504.htm?from=main5

【ロサンゼルス=古沢由紀子】日本軍が捕虜米兵らを炎天下歩かせた「バターン死の行進」についての月刊「文芸春秋」の記事が「歴史を誤って伝えるものだ」として、ユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)は13日、当地で抗議の記者会見を開き、文春側に元捕虜らへの謝罪を求めた。
 記事は、同誌の昨年12月号に掲載された「『バターン死の行進』女一人で踏破」。ジャーナリストの笹幸恵さんが、フィリピンで行進のルートを4日間かけてたどり、「栄養失調気味の私ですら踏破できた」と報告。「日本軍による組織的残虐行為」との批判に、疑問を投げかけた。
 行進を体験した元米兵でアリゾナ州立大名誉教授のレスター・テニーさん(86)は、文春側に抗議文を送付。会見で、「水や食事をきちんととって歩いた彼女の行程は、当時の状況とかけ離れている」と批判した。
 同誌編集部は「抗議文などを見ておらず、現段階ではコメントできない」としている。
 同センターは1995年、文芸春秋社の月刊誌「マルコポーロ」の「ナチスのガス室はなかった」とする記事に抗議し、同誌は廃刊になった経緯がある。
(2006年1月14日11時3分 読売新聞)

95 名前:杉山真大 ◆mRYEzsNHlY 投稿日: 2006/03/01(水) 21:54:07
ちなみに「平和荘」はこちら → http://www.linkclub.or.jp/~k-nomura/retro/sumida/RIMG0513.jpg

大空襲の証人、取り壊し 東京のアパート平和荘
http://www.chunichi.co.jp/00/sya/20060301/eve_____sya_____009.shtml

 一九四五年三月十日未明の東京大空襲で焼け野原となった東京都墨田区で、奇跡的に戦禍を逃れた鉄筋二階建ての建物が今春、取り壊される。空襲前は税務署だった建物に家を失った人々が住み始め、戦災被害者の願いが込められて「平和荘」と名付けられたアパートだ。

 建物を管理する財務省関東財務局東京財務事務所によると、二八年に建てられた。保存されている四一年の地図には、両国橋税務署と記録されている。

 鉄筋づくりで、当時としてはよい建物だった。戦中戦後の混乱で人々が逃げ込みアパートとして使われ始めたため、税務署は移転したとみられる。

 取り壊しのきっかけとなったのは、昨年十二月三十一日夜の火事。住民六人のうち二人が軽傷を負った。半焼だったが倒壊の危険があるため、住民らは親族に身を寄せたり、区の住宅に移り住んだりした。財務局は、今春にも建物を取り壊し更地にし、入札する予定という。

 火事で別のアパートに移った川崎忠雄さん(64)は、自宅を空襲で焼き払われ、たどり着いたのが平和荘だった。当時は三歳ぐらいだが記憶は鮮明だ。「荷車に家財道具を載せ小岩(江戸川区)から歩いてきた」。一面の焼け野原を父親が荷車を引っ張り、母親が後ろから押した。

 入居時には同じような境遇の家族五、六世帯が生活していた。その後、二、三十世帯に増えたが、東京五輪があった六四年ごろから公営住宅へ転出する人が増えた。周りに高層マンションが建ち始め、屋上から見えた隅田川の花火は、今はもう見えない。「取り壊しはやっぱり切ないね。六十年も住むと愛着が出る」と寂しそうだ。

 知人が住んでいたという東京空襲犠牲者遺族会の事務局長星野弘さん(75)も「保存して空襲の記念の場所にしたい、と言っていたのだが」と残念がっている。

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96 名前:杉山真大 ◆mRYEzsNHlY 投稿日: 2006/03/22(水) 16:16:17
偏っているのは被爆者の発言を偏っていると非難する学校教育の現場の方では?

「政治的発言、被爆者は自粛を」平和推進協の要請に波紋
http://www.asahi.com/national/update/0322/TKY200603220146.html
2006年03月22日12時52分

 長崎市の外郭団体・長崎平和推進協会(推進協)が証言活動をする被爆者に「政治的発言」の自粛を求め、波紋が広がっている。関係者は「言論の自由の侵害だ」と方針撤回を求めるが、推進協は拒んだままだ。

 1枚の文書が発端だった。タイトルは「より良い『被爆体験講話』を行うために」。推進協が1月20日、継承部会に所属する被爆者29人を集めた総会で手渡した。

 「意見が分かれる政治的問題についての発言は慎んでいただきたい」と記し、具体例として(1)天皇の戦争責任(2)憲法(9条等)の改正(3)イラクへの自衛隊派遣(4)有事法制(5)原子力発電(6)歴史教育・靖国神社(7)環境・人権など他領域の問題(8)一般に不確定な内容の発言(劣化ウラン弾問題など)の順で示している。

 危機感を抱いた被爆者らがつくった「被爆体験の継承を考える市民の会」は今月13日、推進協に方針の撤回を求めた。

 代表の舟越耿一(ふなこえ・こういち)長崎大教授(60)は「原爆は戦争という時代の中で落とされた。いま日本は戦争への準備を始め、核戦争の脅威も迫る。『政治』を抜きに語れない」。8項目を選んだ理由も不透明だと指摘する。

 推進協によると、以前から被爆者の証言について「話が聞きにくい」「主張が偏っている」という声が、学校などから寄せられていた。丸田徹事務局長(60)は「このままでは話を聞いてもらえなくなるし、中立性を保つことが必要だと考えた。文書は撤回しない」と話す。

 推進協は83年、原水爆禁止運動の分裂をきっかけに官民一体の幅広い組織を目指して生まれた。政治的に意見が違っても、核兵器の廃絶と平和の実現という「最大公約数」で団結しよう。今回の要請はその方針の再確認が狙いだったという。

 だが、推進協の設立に深くかかわった前長崎市長の本島等さん(84)は「一つの価値観への忠誠を強いて戦争へと突き進んだかつての道が現れた」と危機感を示す。

 88年12月に市議会で「(昭和)天皇の戦争責任はあると思う」と発言。90年1月、右翼団体のメンバーに市庁舎前で銃撃されて胸に重傷を負った。「民主主義は少数の意見も尊重し、議論を交わせること。社会全体が言論の自由を軽視するようになるのは心細く、寂しい」

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97 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/03/25(土) 03:18:39

杉原氏の「懲戒処分なし」 政府、答弁書で表明
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/seiji/20060324/20060324a1490.html
2006年 3月24日 (金) 18:42

 政府は24日、ナチス・ドイツに追われたユダヤ人難民に日本通過査証(ビザ)を発給して約6000人を救い、「日本のシンドラー」と呼ばれた元外交官の故杉原千畝氏に関し、「定説」だった外務省による懲戒処分はなかったことを明らかにした。同日の閣議で決定した鈴木宗男衆院議員の質問主意書に対する答弁書で示した。

1940年に在リトアニアの領事代理だった杉原氏は、殺到するユダヤ人難民に独断でビザを大量発給。このため47年の帰国後、訓令違反として処分を受け退職に追い込まれたとされていた。

これについて答弁書は「(外務省の)指示要件を満たさない者にも発給した」と「違反」があったことは認めた。ただ外務省の保管文書で確認できる範囲では「懲戒処分が行われた事実はない」とした。

98 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/03/25(土) 11:51:57
日中和平探った近衛文麿の自筆23枚、鏡台引き出しに
http://www.asahi.com/politics/update/0325/004.html
2006年03月25日08時02分

鏡台の鏡と台の間に引き出しがあり、その中に終戦工作の記録が隠されていた=東京都港区で

 太平洋戦争の末期、近衛文麿元首相(1891〜1945)が中国の蒋介石政権との間で和平交渉を模索したことを示す資料が見つかった。近衛が書き写し、家族の鏡台に隠していたもので、交渉の可能性を探るため北京で行われた会談の内容などが記録されていた。

 近衛の娘の山本斐子(あやこ)さん(74)が、昨年秋に発見した。母の縫子さんが使っていた三面鏡の、鏡と化粧台の間に外からは分からないように作られた引き出しに隠されていた。便箋(びんせん)23枚に万年筆で書かれていた。斐子さんら家族によれば、すべて近衛の筆跡だという。

 近衛家に伝わる文書類などの保存にかかわってきた東郷神社(東京都渋谷区)宮司の松橋暉男さんらが解読した。その結果、北京にあった燕京大のレイトン・スチュアート学長を仲介役にして、蒋介石政権と和平交渉ができないかを模索した記録とわかった。内訳は、スチュアートから近衛への手紙の訳文など39年のものが2点、近衛の側近がスチュアートの秘書と会談した45年5月の記録が2点。スチュアートはルーズベルト米大統領、蒋介石と親しいことで知られていた。

 45年5月の2点は、会談の内容が一問一答の形で記録されていた。「和平問題に蒋介石は自由に対応できるのか」と日本側が尋ねると、「直接全面和平は希望するところだが、日中和平は対米関係とは切り離せない」との回答。「中国を圧迫、侵略する必要も力も日本にはもうない。疑うのをやめてほしい」と日本側が話すと、「その通り。戦争をやめよう」と答えていた。

 戸部良一・防衛大学校教授(政治外交史)によると、交渉の存在は知られていたが、内容が明らかになったのは初めて。スチュアートは日本軍に拘禁されていたため、日本側が接触できたのは45年8月11日になってだった。すでに手遅れで、スチュアートにできたのはポツダム宣言の受諾を勧めることだけだったという。

 敗色が濃厚になった45年、軍部は終戦工作に警戒を強めていた。近衛が隠し場所を探していたので、鏡台のからくりを教えると、とても喜んだことを斐子さんは母から聞いていた。「憲兵隊の家宅捜索などに備えたのだろう」と斐子さんは思っている。

 発見された記録は松橋さんらが「近衛文麿『六月終戦』のシナリオ」(毎日ワンズ)としてまとめ、来月4日に出版される。

99 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2006/03/26(日) 06:53:13
蒋介石について「(日本にとって)忘恩の裏切り者」とか何だかんだ言っている人もいますが、
この記事読むと、満州事変の後には抗日戦は念頭にあったんだなと思う。国土統一に並々ならぬ野望が見てとれる。
北伐→国共→抗日というのが蒋介石のプランだったのではないかと私見。

「雪恥」対日戦へ決意の文…蒋介石日記、米大で初公開
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060325it05.htm

【パロアルト(米カリフォルニア州)=古沢由紀子】毛沢東と並ぶ現代中国の指導者、蒋介石(1887〜1975)が長年にわたってつづった日記の原本が24日、当地のスタンフォード大フーバー研究所で、初公開された。
 日中戦争の導火線となった満州事変(1931年)をめぐる心情や、当時の中国の最高実力者としての本音などがつづられており、中国近現代史や日中関係史の第一級資料として注目される。これまで台湾の研究者が日記の写しから一部を抜粋、引用してきたが、蒋介石自筆の原本が公開されるのは初めて。
 蒋介石が1917年から、75年に台湾で死去するまでつけていた日記は昨年、遺族から、台湾研究で知られる同大に寄託された。歴史資料としての価値が高いとして、大学が遺族に公開を要請したという。
 この日は、原本の一部が国民党関係者や研究者、報道陣に公開された。
 公開された日記は原本とコピーの計5日分。満州事変の約3週間後の10月7日の日記は、「雪恥」(恥辱をぬぐい去る)という2文字から書き始めている。「(対日関係は)戦争の勝敗にあるわけではなく、民族精神の消長と国家の存亡にある」「私が持っているのは、良心、人格、そして革命の精神主義だけだ」「もしも倭寇(わこう)(日本)が、わが政府を追いつめて、わが民族の独立と存続の余地をなくそうとするならば、もはや、勝敗や利益を考えている場合ではなく、自ら犠牲によって、国家の格を示し、民族精神を発揚しなければならない」などと記され、対日戦に向け徐々に決意を固める様子がにじんでいる。

100 名前:杉山真大 ◆mRYEzsNHlY 投稿日: 2006/04/01(土) 20:05:23
この種のリサイクルって結構昔から行われてたんですね。

明治期のレール大量発見、大阪三越の解体現場から
http://www.asahi.com/national/update/0401/OSK200604010053.html
2006年04月01日19時41分

 昨年5月に閉店した旧三越大阪店(大阪市中央区高麗橋)の解体現場から、明治時代に近畿一円の鉄道で使われたレール約500本が見つかった。1917(大正6)年に完成した7階建ての同店の建築時に、古レールを鉄筋として再利用したとみられる。日本最古で現存例が少ない「幻のレール」も数多く見つかり、各地の博物館や研究者から引っ張りだこになっている。(四倉幹木)

 大阪・北浜の堺筋に面した約1300平方メートルの敷地地下で、解体工事を進める長谷工コーポレーション(東京)によって発見された。

 同店は、れんが製土台に載せられた高さ約3メートルの鉄筋コンクリート製の基礎柱が、建物の骨組みとなる鉄骨を支える構造になっていた。基礎柱は全部で19柱あった。

 解体の技術顧問を務める柴山建築研究所(大津市)の高嶋三郎さんが調べたところ、それぞれのれんが土台の下にレール14本ほどが格子状に敷かれていたほか、基礎柱の鉄筋としても1柱当たり8〜10本が使われていた。レールの長さは2.5〜3.5メートルだった。

 さらにレールの刻印から約100本の製造者や製造時期が判明。大半が19世紀末の英、米、独などの外国製だが、20世紀初年に九州の官営製鉄所(後の八幡製鉄所)で生産されたものもあった。後に東海道線となる官設鉄道や旧山陽鉄道、旧関西(かんせい)鉄道など、近畿各地で明治期に開業した7路線以上の鉄道で使われたものらしい。

 三越の建設当時は鉄が貴重で高価だった時代。古レールは強度が高いため、三越でもすり減った古レールを集めて建築用に転用したとみられる。

 発見されたレールの3割ほどは、1870年代前半に英国でつくられた「双頭レール」だった。断面が上下同じ形のI字形で、一方が摩耗したら上下を逆さにして使う珍しい形状。双頭レールに詳しい「新日化環境エンジニアリング」(北九州市)の大石徹さんによると、初期のごく一部の鉄道にしか使われなかった「幻のレール」で、「こんなに大量に見つかる例はまれだ」という。

 このうち最も古いものは1870年製。1872年に日本で最初に営業運転した東京の新橋―横浜間か、続く74年開通の大阪―神戸間で使われたものに違いないという。

 レールはすでに交通科学博物館(大阪市港区)や八幡製鉄所の跡地にできる北九州産業技術博物館(北九州市八幡東区)=仮称・07年春開館予定=、日本工業大学工業技術博物館(埼玉県宮代町)などに贈られた。また、基礎柱1体も先月から大阪市立大学杉本キャンパス(大阪市住吉区)に展示されている。

 交通科学博物館の高井洋文課長は「諸外国製や国産の非常に早い時期のレールがそろっていて鉄道や製鉄技術の変遷をたどるのに十分な史料だ。詳しく調べたうえで公開したい」としている。

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101 名前:杉山真大 ◆mRYEzsNHlY 投稿日: 2006/05/14(日) 22:07:21
かの金大中も、李承晩の独立運動家としての功績を認めながらも後年親日派を登用し独裁政治に陥ったことを批判しているんですよね。こうした論争ができるようになった分だけ韓国も"戦後"が終わったということなんですかね。

李承晩をめぐる韓国学界の熱い論争
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/04/30/20060430000031.html

 現在韓国で巻き起こっている保守・進歩間で繰り広げられている論争は、より具体的に考察すると初代大統領、李承晩(イ・スンマン)をめぐるものといえる。特に昨年は「李承晩研究ブーム」が起こったという点で、その傾向は顕著だ。直接的な論争にはなっていないが、互いに違った立場から膨大な量の研究書を通じて論争を繰り広げている。

 まず左派進歩陣営の徐仲錫(ソ・ジュンソク)成均館大教授が昨年2月に『李承晩の政治イデオロギー』(歴史批評社)を出版した。左右合作路線を支持する徐教授は、李承晩の政治イデオロギーは当時の安浩相(アン・ホサン)文教部長官が主張した「一民主義」だとし、それはファシズムに似たものだとの自説を展開した。徐教授は李承晩の路線を「反共極右独裁」だったと評価している。

 昨年6月には呂運亨(ヨ・ウンヒョン)研究を専門とする木浦大の鄭炳俊(チョン・ビョンジュン)教授が、中間左派的な立場から李承晩を批判的に考察した『ウナム・李承晩研究』(歴史批評社)を出版した。これは徐教授の研究より実証的な分析が際立っていると評価されている。

 また西江大社会科学研究所のキム・スジャ研究員は、昨年9月に韓国建国当時の李承晩の政治姿勢を批判的に分析した『李承晩政権初期の権力基盤研究』(キョンイン文化社)を出版した。興味深いのは、李承晩を批判する側の理念的な傾向は左派で、みな韓国史学を専攻している点だ。

 これらに対する反撃は10月、元老政治学者の李庭植(イ・ジョンシク)慶煕大客員教授から始まった。李教授は長年の研究成果をもとに、『李承晩の旧韓末改革運動』(培材大出版部)を出版した。近代思想を率先して受け入れた改革派の政治家として李承晩を考察したものだ。南時旭(ナム・シウク)教授の研究は、李承晩に関する研究書という形ではないが、李承晩が「開化派第3世代」の代表的な人物であり、「韓国右翼保守勢力の始祖」という点を思想家的に立証したという点で、いわゆる「李承晩論争」の域を脱していない。

 2004年に出版されたが、日本統治時代の李承晩を考察した浦項工大の高珽休(コ・ジョンヒュ)教授の『李承晩と韓国独立運動』(延世大出版部)と、釜山の政治運動を新たに分析したジャーナリストのチョ・ヨンジュン氏の著書『大統領の無血革命』(ナナム)も、右派陣営の貴重な研究成果だ。ジャーナリスト出身の孫世一(ソン・セイル)氏が『月刊朝鮮』に5年間連載している「李承晩と金九」も、全9巻で出版が予定されている。

 李承晩体制をナポレオン体制と比較した論文で学位を取得した成均館大の金一榮(キム・イルヨン)教授(政治学)は、「現在の韓国政治勢力の大部分が民族主義から左右に分かれた時に生じた陣営に起源を発しているため、李承晩を取り巻く論争が激化している」とし、「これまでの実証的な研究もある程度終息しているため、今後は本格的な論争が起こるだろう」と見ている。

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102 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2006/05/14(日) 22:34:31
>>101
金大中は、日韓人脈に対する批判は凄かったですね。反共の下に、李承晩政権と日本右派(岸信介とか)の大同団結は朝鮮半島統一を妨げる、こういう文脈で親日派批判がなされていました。これはこれで一理あると思いますね。

103 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2006/05/20(土) 10:39:44
日本政府も辻政信の死亡を検証するくらいの度量が欲しい。

インド最大のミステリー ボース台北事故死の定説覆す
http://www.sankei.co.jp/news/060520/kok006.htm

 【シンガポール=藤本欣也】インドの独立運動の英雄、チャンドラ・ボース。第2次大戦終戦直後に台湾で飛行機事故死したことになっているが、同国の調査委員会はその定説を真っ向から否定する報告書をまとめた。日本で保管されている「遺骨」も「ボースのものではない」と結論付けている。ボースは死なずにどこに行ったのか。60年以上にわたり続くインド最大のミステリーに幕は下りそうもない。
 ボースは1945年8月18日、台北の松山空港で中国・大連に向かう際、搭乗機が離陸に失敗し炎上、全身火だるまになって病院で48歳の生涯を終えたとされる。遺体は台北で荼毘(だび)に付され、遺骨は日本に移送されたというのが定説だ。
 これに対し、1999年に組織された政府の調査委員会は今月17日、報告書を公表。(1)ボースは台北の飛行機事故で死亡しなかった(2)よって日本に保管されている遺骨はボースのものではない−と結論付けた。
 その理由として調査委員会は「しっかりとした状況証拠がある」と説明する。事故があったとされる45年8月18日とその前後に、台北で飛行機事故が発生した記録がないというものだ。調査委員長を務めたムケルジ元最高裁判事は、「台北市長(馬英九氏)と台湾の外交部(外務省)が確認した」とインドのメディアに語っている。
 これまでにも、政府の調査委員会が56年と70年に組織されたが、いずれも医師や事故の生存者の証言をもとに「ボースは台北の飛行機事故で死亡した」と結論付けている。初めて定説を否定した今回の報告書についてインド政府は、「細かく吟味したが、その結論には同意できない」とする異例の意見書を付けて、報告書とともに国会に提出した。今後、国会で論議を呼ぶ可能性もある。
(05/20 01:09)

104 名前:杉山真大 ◆mRYEzsNHlY 投稿日: 2006/05/24(水) 22:52:17
早速壺に屯しているネトウヨどもがファビョってますよ。
  ,,,,,,,,
 ミ ・∀・ミつ http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1148467283/

「百人斬り競争」訴訟、二審も本社などが勝訴
http://www.asahi.com/national/update/0524/TKY200605240390.html
2006年05月24日20時39分

 旧日本軍将校2人が中国で1937年、中国兵を日本刀で殺害した人数を競う「百人斬(ぎ)り競争」をしたとする当時の新聞報道や、後にこの問題を扱った書籍を巡り、2人の遺族が「うそを書かれ名誉を傷つけられた」などと訴えた訴訟の控訴審判決が24日、東京高裁であった。遺族は毎日新聞社、朝日新聞社などと本多勝一・元朝日新聞記者を相手に出版差し止めや計1200万円の損害賠償などを求めていたが、石川善則裁判長は請求をすべて棄却した一審・東京地裁判決を支持。遺族の控訴を棄却した。遺族側は上告する方針。

 焦点は「何が真実かをめぐって論争を呼ぶような歴史的事実に関する表現が、故人に対する遺族の敬愛追慕の情を違法に侵害したか」だった。判決は、違法に侵害したと言える前提として「摘示された事実の重要な部分が全くの虚偽であることが必要」との基準を示した。そのうえで、それぞれの記述は全くの虚偽とは言えないと判断。遺族側の主張を退けた。

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105 名前:杉山真大 ◆mRYEzsNHlY 投稿日: 2006/06/08(木) 23:12:18
試しにググってみたら、当の中澤教授のエッセーが「萬晩報」に載ってました。
  ,,,,,,,,
 ミ ・∀・ミつ http://www.yorozubp.com/0502/050228.htm

ネットで流行「アインシュタインの予言」、人違い?
http://www.asahi.com/science/news/TKY200606070141.html
2006年06月07日

 アインシュタイン博士が日本をべた褒めしたとされる「アインシュタインの予言」という文章が、ネットや一部の書籍で広まっている。だが実は、博士とはなんの関係もない言葉が孫引きで広まっただけだと、東京大学の中澤英雄教授(ドイツ文学)が主張している。調査でたどり着いたのは、シュタインという法学者の言葉とされていた文章だった。

 「神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」といったくだりがあるこの文章は、多少の相違はあるものの、1950年代から軍人や宗教家の書籍で紹介され始め、最近は日本文化を誇る「ちょっといい言葉」としてネットで引用されることも多くなった。

 だが出典が常にあいまいで、内容も博士の思想とは相いれないのではと疑問を持った中澤教授が、この言葉のルーツを追ってみた。その結果、アインシュタインの言葉として引用されている例として一番古いのは、56年の書籍であることがわかった。

 さらに戦前にさかのぼると、文意がよく似た文章が28(昭和3)年の『日本とは如何なる国ぞ』という本のなかに記されているのが確認できた。著者は、戦時中の日本の国体思想に大きな影響を与え、「八紘一宇」という言葉の提案者である宗教家の田中智学だった。

 ただし、この本では予言を語った人物はローレンツ・フォン・シュタインという明治憲法成立にも大きな影響を与えたドイツ人の法学教授だとされていた。

 中澤教授は、田中智学がこの言葉を知るもととなったシュタインの講義録などにも当たってみたが、該当する文章を見つけることはできなかったという。

 結局、起源はシュタインの言葉でもなく、田中智学が自らの思想をシュタインに寄せて語った文章の可能性が高いと中澤教授は見る。それが孫引きを繰り返されているうちに、どこかで「アイン」がついて、アインシュタインの予言だということにされてしまったらしい。

 中澤教授は「海外からみたらアインシュタインをかたってまで自国の自慢をしたいのかと、逆に日本への冷笑にもつながりかねない事態」と心配し、安易な孫引きにくぎを刺している。

 ■博士の言葉として流布「日本という尊い国に感謝」

 例えば、『世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰(せん)』(ごま書房、2005年)には、アインシュタイン博士の言葉として次のように記されている。

 「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴(いただ)いていることが、今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界に一カ所ぐらいなくてはならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときが来る。そのとき人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄ではなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それには、アジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」

     ◇

 〈アインシュタイン研究者の板垣良一・東海大教授(物理学史)の話〉 この言葉は、アインシュタインのものではないと断言できる。彼はキリスト教徒でもユダヤ教徒でもなく、「神」にこだわらない人だった。日記や文献を詳しく調べてきたが、彼が天皇制について述べた記録はない。

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106 名前:杉山真大 ◆mRYEzsNHlY 投稿日: 2006/06/12(月) 22:07:52
>>105
ネットを慫慂してみたら、中澤教授とは別に"アインシュタインの予言"なるものを検証しているblogがあったんですね。熱湯浴の言説に一つ一つ根拠を示しながら冷静に検証していく姿勢、見事です。
#でも中澤教授って「九条の会」の参加者だったんだな
  ,,,,,,,,
 ミ ・∀・ミつ http://alberteinstein.seesaa.net/

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107 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/07/02(日) 20:14:10
色々酷いなぁ。。

鉱毒に消えた谷中:廃村100年 消極姿勢際立つ藤岡町 /栃木
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060626-00000059-mailo-l09

 藤岡町を貫く渡良瀬川のほとりに、足尾鉱毒事件に生涯をささげた田中正造の銅像が木々に囲まれて建つ。人目につかないその姿は、同町の正造への態度を表しているようにも見える。鉱毒事件を郷土史の欠かせない一部として伝える茨城県古河市や埼玉県北川辺町などに比べ、藤岡の消極姿勢は際立っている。[塙和也]
 ◇薄れゆく記憶に危惧も
 谷中村が1906(明治39)年に廃村となった際、合併先の藤岡町には古河市に次ぐ66戸が移り住んだといわれる。明治政府の買収に協力する「役場派」と、あくまで村に残ることを主張した「正義派」。廃村前から谷中村民は分裂した。
 役場派は廃村後も「裏切り者」と後ろ指をさされ、正義派も、正造を政府に盾突いた「国賊」と見る町内外の人たちから批判の的にされた。さらに、「谷中上がり」と呼ばれた子孫への差別が戦後も続き、次第に町民も旧村民も鉱毒事件に口を閉ざすようになった。
 昨年から今年にかけ、谷中村の子孫らが中心となり、廃村となった7月1日の記念日化を求めて藤岡町議会に請願や陳情を出した。だが、いずれも不採択。「廃村を語るなんて寝た子を起こすようなものだ。公害なんて暗いことは掘り起こさない方がいい」。採択に反対した岡田安雄町議は強調した。一方、谷中村残留民の末えいでもある島田稔町議は「議員という立場上、(自分の)意見は控えた」と苦しげだが、残留民らで続けてきた「田中霊祠」(正造を祭る神社)の例祭などは「子々孫々まで守るつもりだ」と言い切る。
 廃村100年の節目でありながら、町が独自に主催する催しはない。国土交通省によるイベント「谷中メモリアル100」も、鉱毒事件より、遊水地開発に向けたアピールの場となる可能性が強い。国は明治時代から、谷中村の廃村は鉱毒ではなく洪水の問題だと主張してきた。旧村民が鉱毒被害を語らなくなったことで、第二貯水池の掘削問題でも「遊水地の目的はあくまで治水対策」とする国交省側の主張のみが公の場で語られる。
 藤岡町はかつて町史の一部として谷中の資料を編さんするなど、記録作業に貢献したこともあった。それだけに、現状を危惧(きぐ)する人も多い。「今の町の姿勢では谷中の記憶は薄れていく。遊水地に30以上もある団体が、活動で一つになれないのも残念だ」と、谷中村民の菩提(ぼだい)寺「赤麻寺」の仙田光俊住職は語る。
 古河市で教育委員会とともにさまざまな行事を立案する「田中正造を後世に伝える会」の佐々木斐佐夫会長(76)は「合併先である肝心の藤岡町があまりにも消極的だ。『公害の原点』としての廃村は右も左もない歴史的事実。語り継がないのはおかしい」と憤る。(随時掲載します)

6月26日朝刊
(毎日新聞) - 6月26日12時3分更新

108 名前:杉山真大 ◆mRYEzsNHlY 投稿日: 2006/07/03(月) 23:16:45
特攻だったんですな・・・・・何と愚かしいことをしたことか怒りを感じたくなる。

沖縄特攻直前の戦艦大和の写真、米公文書館で見つかる
http://www.asahi.com/national/update/0703/OSK200607030062.html
2006年07月03日21時36分

 太平洋戦争末期の山口県徳山沖で、沖縄海上特攻作戦に向けて準備中の戦艦大和をとらえた米軍の偵察写真が米国立公文書館で見つかり、広島県呉市の大和ミュージアム(市海事歴史科学館)が3日、発表した。出撃の5時間前の写真という。国内での最後の姿をとらえた資料とみられ、年内に同館で展示される。

 同館の依頼を受け、「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議・米軍資料研究会」代表責任者で、山口・徳山高専教授の工藤洋三さん(56)が今年3月に探し出した。

 写真は45年4月6日午前10時、米軍のB29偵察機が高度約9300メートルから撮影した。一緒に特攻に向かった巡洋艦矢矧(やはぎ)なども写っていた。写真説明には「戦艦『大和』級1、重巡洋艦1、駆逐艦6」とあった。同館によると、沖縄特攻の対空戦に備え、大和が主砲塔などに機銃を増強した様子が分かるという。

 大和を旗艦とする第2艦隊は撮影直後の6日午後に出撃。大和は翌7日午後、東シナ海で米軍機の攻撃を受けて沈没した。

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109 名前:杉山真大 ◆mRYEzsNHlY 投稿日: 2006/07/08(土) 18:01:57
岸壁の母ならぬ「引き揚げの母」ね・・・・・

平和祈願・万国戦没者慰霊の会元会長の田端ハナさん死去
http://www.asahi.com/obituaries/update/0708/001.html
2006年07月08日02時35分

 田端 ハナさん(たばた・はな=平和祈願万国戦没者慰霊の会元会長、引揚を記念する舞鶴・全国友の会顧問)が7日、老衰で死去、99歳。通夜は8日午後7時、葬儀は9日午後1時から京都府舞鶴市倉谷1720の4の西舞鶴シティーホールで。喪主は長女の泉朝子さん。自宅は同市南田辺71の3。

 舞鶴港で戦後、同市連合婦人会長として多くの引き揚げ船を出迎えたことから、「引き揚げの母」と呼ばれた。

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110 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2006/08/03(木) 07:13:54
カストロも広島訪問した。ゲバラも訪問した。広島と革命家を繋いだのは「反米」か「反覇権主義」か「反大量破壊兵器」か「平和主義」か。

ゲバラが撮ったヒロシマ 地域誌が掲載
http://mytown.asahi.com/hiroshima/news.php?k_id=35000000608010001

 キューバ革命を指導したエルネスト・チェ・ゲバラ(1928〜67)が47年前に広島を訪れた際、爆心地近くの平和記念公園で撮影した未公開のモノクロ写真がキューバで保管されていたことがわかった。存在を知った広島の出版社が「被爆61年を前に公開を」と遺族に求め、地域誌に掲載された。研究者は「伝説的革命家が核の脅威に強い関心を寄せていた証しではないか」と話している。(武田肇)
 写真を保管していたのは、ゲバラの遺族が運営する「チェ・ゲバラ研究センター」(キューバ・ハバナ)。03年に革命の同志であるキューバのカストロ議長が広島を訪問したのを機に、広島市の出版社「南々社」が足跡を検証。写真の存在を知って遺族と交渉し、発刊する地域誌「がんぼ」で7月末に特集を組んだ。
 同センターによると、撮影は59年7月。平和記念公園のアーチ形の原爆死没者慰霊碑の前で人がたたずむ姿をとらえ、原爆ドームや完成まもない広島市民球場も見える。ゲバラが同公園で撮影した別カットの1枚は海外など一部で公開されたことがあるが、今回の1枚は未公開という。
 ゲバラは革命政権が成立した直後に経済使節団長として来日した。池田勇人通産相(当時)と会見した後、予定になかった広島訪問を強く希望。1泊して慰霊碑に献花し、平和記念資料館(原爆資料館)や原爆病院を訪れた。
 遺族があわせて南々社に提供した「原爆の悲劇から立ち上がれ、日本よ」と題した手記(帰国後キューバで新聞掲載)には、「痛ましいのは原爆が投下されて14年たった今年も後遺症で多くの人が亡くなっていることだ」「資料館では、胸が引き裂かれるような場面を見た」と訴えている。
 旧ソ連ミサイルのキューバ配備をめぐり、核兵器使用の一歩手前まで緊迫した「キューバ危機」が起きたのは来日3年後の62年。直後にキューバを訪れ、工業相だったゲバラを撮影した写真家の近藤彰利さん(77)=東京都=は、現地の子供でさえ広島で起きたことを知っていたことに驚いた。「その陰にはゲバラの広島訪問があったかもしれないと納得した。一見平凡な写真だが、込められた意味は深い」
 チェ・ゲバラ研究センターの担当者は朝日新聞社の取材に「様々な困難を乗り越えた広島市民の勇気に敬意を表し、写真を公開することにしました」と説明している。
 《関係者を取材し71年に「チェ・ゲバラ伝」を著した作家の三好徹さんの話》 当時ゲバラは国内であまり知られておらず、報道はほとんどなかった。日本政府も使節団として受け入れながら、米国への配慮から広島訪問に難色を示していた。広島行きを強行したのは、多数の非戦闘員を一瞬で殺傷した原爆の残虐性に関心を持っていたからだろう。写真好きは有名で、ゲリラ活動中もカメラを持ち歩いたほど。新たに公開された写真はゲバラの関心がどこにあったか考える材料となり興味深い。
 《エルネスト・チェ・ゲバラ》1959年、キューバの指導者、フィデル・カストロ国家評議会議長とともにキューバ革命を成功させたアルゼンチン生まれの革命家。その後、大臣の地位を捨ててアフリカ・コンゴの反政府勢力にゲリラ戦を指導し、67年、南米・ボリビアでも革命を指導している途中に国軍に銃殺された。

111 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2006/08/05(土) 11:37:14
すでに歴史的風景となったロッキード事件。
今月号の月刊「現代」によりますと、全日空ルートの灰色高官とされた14名中12名の実名が掲載されております。
私の推測ではなく、記事そのまま書きますけれども、灰色高官は、二階堂進、佐々木秀世、加藤六月、福永一臣は既報されておりますが、そのほかには村山達雄、竹下登、木村睦男、関谷勝利、大橋武夫、佐藤守良、中川一郎、西村直巳の8名。いずれも運輸族、防衛族のお歴々であります。これはサラっと書いておりますが、歴史の空白を埋める作業でありまして、月刊現代と坂上遼はよくやったと思います。

で、中曽根サンが灰色とされたP3Cルートはもっともっと解明された方が良かったですが・・・

ロッキード事件:対潜哨戒機P3C事件化、東京地検断念
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20060727k0000m040180000c.html

 対潜哨戒機を巡っては72年2月、海上自衛隊の次期対潜哨戒機を国産化すると政府が閣議決定しながら、同10月の国防会議議員懇談会(議長・田中角栄首相=当時)で白紙撤回。74年12月に輸入の方向が強まり、ロ社のP3C輸入につながった。丸紅は72年11月、ロ社とP3Cの売却手数料授受契約を結び、73年7月には児玉誉士夫・元ロ社代理人(故人)とロ社との間で「50機の確定契約があった場合、ロ社は児玉に25億円を支払う」との誓約が結ばれた。
 当時の捜査関係者によると、76年2月の米議会での事件発覚直後、実際にP3C関連を専門に調べる検事が特捜部内におり、防衛庁関係者らを参考人聴取するなど、捜査を進めたという。
 同年4月、米証券取引委員会(SEC)から提出された全2860ページに及ぶ資料が日本の検察当局に届けられ、この中には「Tanaka」をはじめ政府高官名が記された人脈図などが含まれていたが、P3Cの対日工作を示す資料は見当たらなかったという。
 また、児玉元代理人の脱税を巡る捜査でも、P3Cに関するロ社側からの資金提供を裏付ける証拠はなく、かなり早い段階で、トライスター機導入を巡る捜査に重点を置いたという。
 1機当たりの金額は当時、トライスター数十億円に対しP3Cは100億円前後と言われ、採用された場合の導入機数もP3Cの方が多く見積もられ、ロ社にとってP3Cの方が「うまみ」は格段に大きかった。このため、田中元首相への資金提供があれば、P3Cの受注工作資金との見方が当初あった。
 一方で、日米安保条約という国策も絡むP3C疑惑の立件見送りは「米国謀略説を裏付ける」などさまざまな憶測を呼んだうえ、「事件の本質に迫れなかった」などとロ事件の評価につながる議論の下地にもなっていた。

112 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2006/08/12(土) 22:02:31
評価分かれるいうか、私はまったく否のほうで、「私兵特攻」の一件において、特攻で涙してしまう小泉首相とは歴史的認識を異にする私である。悲しみじゃなくて怒りがわかないか。

「宇垣特攻」最期の真実、親族女性が遺品調査
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060812i104.htm

 終戦を告げる1945年8月15日の玉音放送後に、海軍の宇垣纏(まとめ)中将が若い兵士を率いて出撃した「宇垣特攻」について、厚生労働省非常勤職員の吉田紗知さん(27)(東京都葛飾区)が、独自の調査研究を続けている。
 吉田さんは宇垣隊の一員だった親族が戦死しており、終戦記念日は61年目の命日となる。
 今年になって別の隊員の遺品が米国の博物館に展示されていることを知り、今月、博物館から遺品のノートのコピーを手に入れるなど、謎の多い宇垣特攻の最期に一歩ずつ近づいている。
 吉田さんの曽祖父の弟で、当時21歳の大木正夫・上等飛行兵曹(上飛曹)は8月15日夕、海軍大分飛行場を沖縄に向け飛び立った11機、23人の1人。大木上飛曹ら8機17人は戦死した。特攻作戦を指揮していた第5航空艦隊司令長官で、終戦後に「最後の特攻」を率いた宇垣中将については、「部下を道連れにした」との批判が多い。
 吉田さんは、戦争の話をよく聞かせてくれた祖父が2年前に亡くなったのを機に、「大木さんの生きた証しをたどりたい」と思った。今年2月、戦争体験を紹介する日本のホームページを通じ、米オハイオ州の国立空軍博物館に、宇垣特攻の搭乗員だった後藤高男・上飛曹(当時26歳)の救命胴衣の一部などが展示されていることを知った。入手した写真には、救命胴衣に「後藤上飛曹」と記されていた。
 救命胴衣などの遺品を博物館に提供したのは、終戦時、沖縄にいた元米兵のフィリップ・トンプソン氏(80)だった。吉田さんはトンプソン氏と文通を続け、その中で、後藤機が、米軍キャンプのあった沖縄・伊平屋島の砂地に激突後、爆発炎上したことを知った。
 吉田さんは、福岡県八女市で暮らす後藤上飛曹の弟、照男さん(79)を探し当て、今年4月、自宅に訪ねて写真を渡した。「兄貴は砂地に突っ込んだから、遺品が残ったんじゃのう。ありがたい」。照男さんは、そう感謝しながら吉田さんの話に聞き入った。
 博物館は、宇垣隊の別の隊員のノートも保管している。吉田さんは、宇垣中将の最期の様子や、大木上飛曹についての記述があるのではと、コピーを博物館に頼み、今月7日、全12ページ分が郵送されてきた。ノートは後藤上飛曹の同乗者のもので、残念ながら任務に関する記録ばかりだった。
 休日を利用して自費で関係者を訪ね歩くなどしている吉田さんは、「これからも調査を続け、将来は記録に残したい」と決意を新たにしている。

(「宇垣特攻」を知りたい人は)
松下竜一その仕事〈第21巻〉私兵特攻―宇垣纒長官と最後の隊員たち (単行本)  松下竜一著
http://www.amazon.co.jp/gp/product/430962071X/sr=1-2/qid=1155387571/ref=sr_1_2/249-8232065-9478756?ie=UTF8&s=books

指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく (文庫) 城山三郎著
http://www.amazon.co.jp/gp/product/410113328X/sr=1-3/qid=1155387623/ref=sr_1_3/249-8232065-9478756?ie=UTF8&s=books

113 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/08/12(土) 22:21:48
>>112
なるほど,こんなことがあったんですねぇ。近現代史もドラマですな。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/宇垣纏

特攻隊で死んだ者(更には戦死者も)には悲しみではなく怒りをという吉田学校氏の認識に共感。
国のために死んだ英雄ではなく無能な国家首脳の哀れな犠牲者なのだ。為政者に騙されちゃいかん。

114 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/08/17(木) 21:13:58
【第一次大戦】
http://ww1.m78.com/index.html
第1次大戦と20世紀サイト

昭和天皇と事変の拡大
http://ww1.m78.com/topix/emperors%20decision.html

【大東亞戰爭研究室】
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-annai.html

帝国陸海軍 人事挿話集
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/jinjiotu/jinji2-annai.html

近代日本戦争史概説
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-annai.html

115 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/08/21(月) 00:11:44

戦後の軍隊に宇垣一成を引っぱり出してくる辺り何とも云えず時代錯誤な感じもするが,当時の感覚だとなかなかの配役って感じになるのでしょうか?

幻の「新日本軍」計画 旧軍幹部、首相に提案  2006/08/20 21:39
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20060820&j=0023&k=200608204880

[ワシントン20日共同] 旧日本軍幹部が太平洋戦争後の1950年前後、「新日本軍」に相当する軍組織の設立を独自に計画していたことが20日、機密指定を解除された米公文書で判明した。構想は連合国軍総司令部(GHQ)の了解の下で進み、河辺虎四郎元陸軍中将(故人、以下同)らが立案。最高司令官には宇垣一成元大将(元陸相)を想定しており、当時の吉田茂首相にも提案していた。

 戦後史に詳しい複数の専門家によると、服部卓四郎元陸軍大佐ら佐官クラスの再軍備構想は知られているが、河辺氏ら将官級による新軍構想は分かっていなかった。毒ガス隊など3部隊の編成を目指した河辺氏らの構想は最終的に却下され「幻の計画」に終わった。

 文書は、GHQや中央情報局(CIA)の記録を保管する米国立公文書館で見つかった。

116 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2006/08/21(月) 08:11:39
>>115
そういえば、下のニュースが最近ありましたね。GHQは戦前からの日本軍の人的蓄積を反共陣営強化のために使おうとしたんでしょうね。その代わりに、処罰や断絶は不徹底になったと。
日本の戦争総括・戦後体制は国際情勢次第でいかようにも変わりえたのでしょう。

GHQ資金で反共工作 旧軍幹部の「河辺機関」
http://kumanichi.com/news/kyodo/index.cfm?id=20060812000208&cid=main

 【ワシントン12日共同】太平洋戦争後に日本を統治した連合国軍総司令部(GHQ)が河辺虎四郎元陸軍中将(元参謀次長)=故人、以下同=ら旧軍幹部を中心に編成した反共工作組織「河辺機関」が、GHQの資金提供で日本国内の情報収集のほか旧ソ連と北朝鮮への工作員潜入を計画していたことが12日、機密指定を解除された米公文書で判明した。秘密工作は「タケマツ作戦」と名付けられていた。

 「河辺機関」の存在は関係者の証言などで伝えられていたが、計画の詳細が米公文書で初めて確認された。河辺氏はじめ機関の主要メンバーは戦犯訴追を免れており、文書は冷戦に直面した米国が旧軍幹部の訴追よりも反共工作を優先させた軌跡を物語っている。

「河辺機関」に関する米公文書の要旨 
http://www.topics.or.jp/Gnews/news.php?id=CN2006081201003480&gid=G15

 【ワシントン12日共同】「河辺機関」に関する米公文書の要旨は次の通り。

 ▽1949年5月20日付メモ1(秘密、発信者、受信者はなお機密扱い)

 一、「タケマツ」は連合国軍総司令部(GHQ)の参謀二部(G2)が進める秘密情報作戦のコード名。国内の情報活動(マツ)と国外での情報活動(タケ)からなる。

 一、活動全体がG2の資金で賄われる。

 一、タケマツ作戦の中心人物は河辺虎四郎、有末精三、辰巳栄一各元中将ら。米側の作戦指揮者はウィロビー少将、レイシー大佐ら。

 一、48年9月25日にレイシー、河辺、辰巳らが会談。河辺は活動経費8万7000円を要求。

 一、48年10月9日にレイシー、河辺らが会談。第1回の支払いとして3万7000円を河辺に支給。

 ▽49年5月20日付メモ2(同)

 一、48年11月20日、レイシー、河辺、有末らが会談。

 一、河辺がレイシーに南日本でのタケ作戦の概要を説明。

 第1段階 (山口県)防府を拠点に工作員を南朝鮮(現在の韓国)へ派遣、38度線を越え、北朝鮮と満州(現在の中国東北部)の情報を伝える。防府のビジネスマンの貿易ルートを利用。

 第2段階 対馬への情報拠点設置が可能。南朝鮮からの密貿易に使われており、日本人工作員の南朝鮮潜入に利用。ソ連船の情報獲得のため対馬の漁民を工作員に雇うことも可能。

 第3段階 米の無線機を使用。中国、朝鮮、ロシア語の放送を傍受。

 一、レイシーは必要な機材を用意すると約束。

 一、河辺は南日本での半年間の経費として390万5000円を提示。

 一、河辺は北日本でのタケ作戦の概要を説明。

 (1)北日本での作戦は49年4月に開始。本部を北海道・美唄に、支部を札幌、函館、礼文島に。

 (2)樺太(現在のサハリン)在住の信頼できる日本人に接触。(樺太や千島からの)帰還者を工作員にして送り返す。万年筆や時計の密輸ルートをソ連領内に開拓。意図的に船を難破させ船員をソ連領内に送る。周辺海域を高速艇で監視。無線傍受を実施。

 一、河辺は北日本での半年間の経費として596万2000円を提示。

 ▽49年5月20日付メモ3(同)

 一、48年12月3日にレイシーが河辺らと会談、ウィロビーが北日本の作戦に集中することを求めていると説明。ただ朝鮮への潜入も了承。

 ▽53年1月16日付の情報報告(秘密)

 一、G2が52年12月、河辺に次年度には関連予算が計上されないと通知。河辺は突然の決定に憤慨、機関の活動を公にする意向。

 一、河辺は機関解体を見越し、G2の決定前に、15人を保安隊に入隊させていた。

 ▽有末元中将の個人情報データ(59年9月15日付、秘密)

 一、48年末ごろ、ウィロビーが河辺機関として知られることになる情報組織創設を要請。下村定、河辺らが参加。

117 名前:名無しさん 投稿日: 2006/08/28(月) 22:12:53
渡嘉敷島集団自決、軍命令を否定する証言
http://www.sankei.co.jp/news/060827/sha047.htm
http://www.sankei.co.jp/news/060827/sha048.htm

≪元琉球政府の照屋昇雄さん≫

 第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑(しんぴょう)性が薄いとする説が有力。琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。

 照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で聞き取りを実施。この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。

 同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。村長らが、終戦時に海上挺進(ていしん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。

 照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出。これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。

 照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。

 300人以上が亡くなった渡嘉敷島の集団自決は、昭和25年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記「鉄の暴風」などに軍命令で行われたと記されたことで知られるようになった。作家の大江健三郎さんの「沖縄ノート」(岩波書店)では、赤松元大尉が「『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」と書かれている。

 その後、作家の曽野綾子さんが詳細な調査やインタビューを基にした著書「ある神話の背景」(文芸春秋)で軍命令説への疑問を提示。平成17年8月には、赤松元大尉の弟らが岩波書店と大江さんを相手取り、損害賠償や書物の出版・販売の差し止め、謝罪広告の掲載を求める訴えを大阪地裁に起こしている。(豊吉広英)

118 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2006/08/28(月) 23:27:19
>>117
> −−ではなぜ集団自決をしたのか
> 「民間人から召集して作った防衛隊の隊員には手榴(しゅりゅう)弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。隊長が(自決用の手榴弾を住民に)渡したというのもうそ。座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、家族みんなで死のうという考えがあった。さらに、軍国主義のうちてしやまん、1人殺して死のう、という雰囲気があるなか、隣の島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、みんなが自決していった」

そういえば、高校生のときに読んだ大岡昇平の『野火』を久しぶりにまた読みました。
食べ物に窮乏したため、手榴弾を使って味方を殺し、人肉を食うってのは、考えさせるシーンでした。
戦争、特に孤島という状況だと、考え方も極限まで追い詰められてしまうものなんですかね。

しかし、まあ、こうやってなんたら陣営が相対立してる状況があるんですね。戦争は災難の連鎖を生むのかね。戦争とは別に、カネというものの魔力か。人間はそういうものだとは謂えど。

119 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/08/29(火) 03:49:44
旧日本軍を神聖化する動きは真実がどうであれ,警戒する必要があると思う。
軍隊が日本国民を大いなる不幸に陥れた元凶であることは間違いないのであって,南京で実は虐殺はしてないとか,島民に自決を強制してないとかは些細な話。
なんかそういう背後に旧日本軍は立派だったみたいな風潮にしたい意志を感じる。戦死者は国を守った英霊なんかではない。惨めな犠牲者なのである。神様にして貰って遺族が救われると云う機構が弔いに成るだけなら良いが,国の為に死ぬことが崇高なことだとしたい連中が居るんじゃないか?自分らは戦争で死ぬ心算がない癖に,国民は為政者の私益の為に死ねと思ってる連中が。
靖国を神聖視するネット右翼を始め踊らされた間抜けな庶民どもが勝手に死ぬ分にはかまわんが,戦争は他の国民も犠牲にする迷惑なものである。更に本当に心穏やかに死者を弔いたいならお偉い議員の先生方に参拝させて悦に入ってるじゃねーよと思う。政治家みたいな俗な連中の参拝など断れや。

120 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2006/09/02(土) 09:39:01
昨日産経本紙に載っていましたが、ネットにはあがっていませんでした。
このメモ問題、私としましては、秦氏の見解と同じで、これを基にして靖国分祀論だ何だかんだと盛り上がるのは反対です。

メモといっても、巷間仄聞するところによれば「政治的な箇所はごく一部にとどまる」「食べ物、植物、戦前、戦争直後の苦労の話が多い」らしいです。となれば「「原田日記」「牧野日記」だけが昭和天皇か?」というのが富田氏の備忘の動機だったのかもしれない。
それと「とてもおもしろくて」の部分、私はこういう奥さんを持てた富田氏は幸せだったと思う。こういう奥さん、好きだなあ、俺。

メモ公表した富田元宮内庁長官夫人の真意とは
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/showa_emperor/story/01fuji320060901016

 昭和天皇が靖国神社のA級戦犯の合祀(ごうし)に強い不快感を示されたとされるメモを富田朝彦元宮内庁長官(故人)が書き残していた問題で、富田元長官の妻(81)は産経新聞の取材に応じ、「こんなに大騒ぎになるとは思わなかった。日記やメモを公表したのは、昭和天皇のお人柄を伝えたかったから」と語った。
 妻によると、メモや日記は元長官が平成15年11月に亡くなった後、東京都内の自宅寝室の奥に残されていた。
 「読んだらとてもおもしろく、まるで富田が生きているみたいで…」
 元長官は生前、日記やメモの扱いについて何も言い残していなかった。だが、彼女自身は「いずれ発表できる機会があればいいと考えていた」という。
 その理由については、「陛下は口数が少ないといわれていましたが、実はお話し好きでした。日記やメモには、富田が知らないことを(昭和天皇が)教えてくださったことがつづられていました。いろんな歴史も教えてくださったそうです。ユーモラスな方でもあって、そのお人柄をみなさんにもお伝えしたかった」と説明した。

121 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2006/09/02(土) 12:47:10
讀賣新聞のお盆の戦争検証特集は立派だと思いました。
軍の一部が先走ってしまい、非軍人もそれをコントロールできなかった構図(それがいろんな局面で起こる)が浮き彫りになっています。
しかし讀賣も、天皇に関する部分の検証がぽっかり抜けてるように感じました。
先代ってことで、検証はまだしにくいか・・・。

靖国神社の問題も、
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1114775789/237-239
↑と似たところがあるんですよね。
当時、「靖国」に殉じた人の想いをどうするかってところで。
終戦後の殉職者は、戦死ではないということで受け入れていないようですから。
http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20060825/1156477427

ところで、山口県護国神社合祀訴訟というのがかつてありましたが、
あれは戦後の殉職者(公務死者)について、各県の護国神社が受け入れているということですよね。
どこの自衛隊も、一律に護国神社で祀らせてるんだろうか?
東京都と神奈川県には護国神社がないようだけど・・・。

ともかく、新しい殉職者たちが靖国神社にどんどん合祀されていってる状況がないところは、不幸中の幸いというか。
仮にそんなことになっていると、将来の我々の選択も雁字搦めになりかねなかった。
平成の殉職者(公務死者)・靖国神社・天皇 この3者が密接にかかわる状況でなくて良かった。

靖国神社の扱いは難しいものがあるけれど、将来に向けてやるべきことはあると思いますね。

(調べつつ書きながら、なんて知らないことばかりなんだろうと思った・・・)

122 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2006/09/03(日) 17:18:52
>>120
驚くべきバイタリティ...

上坂冬子さんの富田夫人訪問記余話
http://oshimas.iza.ne.jp/blog/entry/33351/

上坂さんの文章を若干紹介すれば、7月22日付で投函された元宮内庁長官、富田朝彦夫人からの分厚い封書が自宅に届いた。富田夫人とは面識はなかったが、あけてみると、便箋4枚にぎっしり書かれた質問が14項目もあった。夫人は81歳だが、女子大生のような勢いのいい字だったとか。なぜ、富田夫人は、上坂さんに質問状を送ったのか。経緯はこうだ。
「富田メモ」の記事が出たのが7月20日。翌21日の産経新聞「正論」欄で、すばやく上坂さんは、「富田メモ」を第一級の資料なみに扱おうとしている風潮を批判した。この記事を富田夫人にみせたのは、同居している大学教授の息子さん。富田夫人はそれを読むやいなや、近所の書店にかけつけ、上坂さんの新刊『戦争を知らない人のための靖国問題』(文春新書)を買って、一晩で読み終えて、質問状を書き上げた、という次第のようである。 「ともかく行動的な人らしい」と上坂さんは書いているが、このくだりをゲラで読みながら、おもわず笑みが浮んでしまった。というのは、上坂さんご自身が、とびきり行動的な人だからである。何度も、上坂さんには、本誌で連載をお願いしているので、自信をもってそういえる。

123 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2006/09/03(日) 17:29:10
鎮霊社『靖国』の回答検証
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060829/mng_____tokuho__000.shtml

 靖国問題は自民党総裁選の中で数少ない争点の一つになっている。今月12日付の『こちら特報部』では、この靖国神社の一角にある鎮霊社にスポットを当てた。その後、読者の方々から「もっと詳細を」という要望をいただいた。前回は多忙を理由に取材に応じなかった神社側も、今回は本紙の質問に書面で答えてくれた。再び鎮霊社を舞台に靖国問題を考える材料を提供したい。 (浅井正智)

 【『こちら特報部』からの質問(1)】

 一八六九年に靖国神社の原型、東京招魂社が創建されて九十年以上たった一九六五年に、鎮霊社が建立された理由は何か。

 【靖国神社広報課の回答(1)】鎮霊社は、時の筑波藤麿宮司の発案で、戦なき平和を願い創建された御社。嘉永六(一八五三)年以降の戦争・事変にて非命に斃(たお)れ、職域に殉じ、病に斃れ、自ら生命断つなどして靖国神社に祀(まつ)られない御霊(みたま)と、同年以降の戦争・事変に関係し、死没した諸外国の御霊、二座を鎮祭している。

 一八五三年という年は何を意味するのか。この年以降の戦争で死亡した人を祀ることは、鎮霊社のみならず靖国神社本殿にも共通している。

 日本文化総合研究所の高森明勅(あきのり)代表はこう説明する。「靖国神社(当時の東京招魂社)が最初に祀ったのは戊辰戦争の官軍兵士。一八五三年のペリー来航から国難が始まり、明治維新につながったという認識があり、後にそこまでさかのぼって祀ることになった」

 【質問(2)】A級戦犯の本殿への合祀(ごうし)を避けるため、鎮霊社を建立し、以後、合祀された一九七八年まで、実際に祀られていたという指摘がある。これは事実か。

 【回答(2)】学者にはいろいろな推論もあろうが、御本殿の御祭神と鎮霊社の御祭神では全く性格を異にしている。鎮霊社の御祭神は奉慰の対象だが御本殿の御祭神は奉慰顕彰の対象と認識している。

 このA級戦犯の事実上の分祀説を採る日大講師で現代史家の秦郁彦氏は、靖国側が「学者の推論」と直接答えていない点について、「肯定はしていないが、否定もしていない点が重要だ」とみる。

 「神社側は一時的にでもA級戦犯が鎮霊社に祀られていたなら、否定はできない。だが、肯定すれば、A級戦犯は鎮霊社から分祀して本殿に移されたと認めることになる。これは靖国を深刻な矛盾に直面させる。つまりA級戦犯の本殿からの分祀を拒んでいる靖国自身が、分祀した過去を認めることになるからだ」

■『顕彰ならば 政治的行為』 

 鎮霊社の霊が「奉慰」の対象で、本殿の霊が「奉慰顕彰」の対象と差のある点についても注目される。

 筑波大学の千本秀樹教授(現代日本史)は「慰霊ならば宗教的な行為といえるが、顕彰というのは国のために死んだ人をたたえるという政治的な行為だ。靖国神社は政治的な施設であり、しかもA級戦犯を顕彰の対象にしていることが明確になった」と指摘する。

 【質問(3)】鎮霊社はだれを祀っているのか。「朝敵」や「逆賊」の怨霊(おんりょう)を鎮める役割を担っているのか。

 【回答(3)】御本殿で祀られていない全世界の戦争犠牲者であり、具体的な名前を挙げての鎮祭ではない。(怨霊論は)学者により説はさまざまあろうが、神社としては(1)で述べた通り。

 千本氏は、鎮霊社が戊辰戦争で官軍と戦った会津藩白虎(びゃっこ)隊や西南戦争で明治政府と戦った西郷隆盛らの「逆賊」の恨みを鎮めるためにつくられたという見解を採る。

 これに対し、高森氏は「鎮霊社と怨霊はおよそ結びつかない」と強調する。

 「怨霊を鎮めるというのは、不遇の死を遂げた人が現世にたたりをもたらすという発想に基づく。そうならば、この霊を祀らないとたたりがくるという具体性が示される必要がある。だが、全世界の戦没者を祀る鎮霊社にはこうした関係を考えることはできない」

124 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2006/09/03(日) 17:38:01
 【質問(4)】鎮霊社はなぜ鉄柵で囲われ、一般参拝者が近づけないのか。

 【回答(4)】過激派の活動が盛んであった昭和四十年代に、警備上、御本殿をはじめ、元宮、鎮霊社を守るために鉄柵を設けたのであり、鎮霊社だけを囲っているわけではない。また、現在、拝殿脇より誰でも参拝できる参道を設ける計画を進めており、十月には竣工(しゅんこう)予定だ。

■謎めいた存在10月には公開

 千本氏は「九〇年代まで天皇制に関心がある人でも、靖国神社を問題視する人はほとんどいなかった。かつての『靖国神社国家護持法案』に反対したのもキリスト者が中心で、日本の左翼は何もしていない。過激派対策のための鉄柵というのは、後から取って付けた理由としか思えない」といぶかる。

 秦氏は「靖国は分祀論にからんで、鎮霊社に関心が向くことを好まない」という見方を示す。今後、参道を設けるという点についても「一般の人が近づけず、しかも分祀論と結びつけられると、鎮霊社はいよいよ謎めいた存在にみられてしまう。むしろオープンにした方がよいという判断が働いたのでは」と推測する。

 【質問(5)】

 鎮霊社の例祭日(七月十三日)には、どのような方式で祭事が行われるのか。

 【回答(5)】

 他の祭事同様、神道の儀式で行われている。

 キリスト教やイスラム教などの一神教は他の神を認めない。このような信者を鎮霊社に祀り、国家神道方式で祭事をするのは、彼らの宗教心を冒涜(ぼうとく)することにはならないか。

 靖国自身は「名前を挙げての奉慰ではなく、戦争犠牲者全般の鎮祭であり、日本古来の神道形式で他国の戦争犠牲者全般の魂を鎮めることが、必ずしも冒涜にあたるとは認識していない」と補足して説明する。

 高森氏も「靖国神社がその一神教を国家権力と結びついて弾圧するのでない限り、独自に祭祀(さいし)対象を設定することを第三者が妨げることはできない。仏教系教団でも類似した例はあるが、それが問題になることはない」と靖国側を擁護する。

 これに対し、千本氏は「靖国が宗教法人である限り、祭祀対象を自由に決めることができる。しかし靖国がもつ強い政治的性格を考えると、純然たる宗教法人とはいえず、祀られることを拒否できないのは問題がある」と主張する。

 総じて今回の靖国側の回答は抽象的で、極めて慎重だった。そんな姿勢の背景を千本氏はこう分析する。

 「靖国神社自身がこれから戦没者を顕彰する政治的な施設として存続していくのか、慰霊・追悼に絞った宗教施設になるのか、自身の中で解決されていない。そのことが、外部に対して意見を明確に打ち出せないことにつながっている」

<メモ>鎮霊社 靖国神社の本殿脇に1965年、ひっそりと建てられた。現在は鉄柵で囲まれ、一般参拝者は存在にすら気づかない。本殿とは対照的に、明治維新の“逆賊”やイラク戦争などで亡くなった「万邦諸国の戦没者」も祀っているとしている。本殿でのA級戦犯合祀を回避するため、A級戦犯を一時的に祀っていたという指摘もある。

<デスクメモ>

 “逆賊”たる会津武士の末えいで、戦後右翼の大物だった故田中清玄氏は生前「(靖国参拝とは)長州藩の守り神にすぎないものを全国民に拝ませているようなものなんだ。ましてや皇室とは何の関係もない」と言い切った。靖国問題は「右左」で語れるほど単純ではない。まずは事実の把握が何より大切だ。 (牧)

125 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/09/07(木) 16:58:56
嘘つけ!平安時代は結構色んな名前を付けてた筈>皇室の名前は、男子は「仁」、女子は「子」で2文字が原則。例外はあるが、858年に即位した清和天皇以来の伝統という。

新宮さま誕生、命名も秋篠宮ご夫妻で
秋篠宮家 男児ご誕生
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060906ic03.htm

 秋篠宮家に新宮さまが誕生した。7日目の12日には「命名の儀」が行われ、お名前が決まる。誕生に伴う儀式の流れは――。

  ◆賜剣(しけん)

 新宮さまが誕生した6日、天皇陛下からさっそく守り刀が贈られる(賜剣)。皇太子ご夫妻の長女、愛子さま(4)の時は、反りのない刀身約26センチの白サヤ短刀だった。女子には袴(はかま)の目録が添えられる。職員が病院の枕元に置き、守り刀として生涯、身近に置かれることになる。

 ◆お名前とお印(しるし)

 皇室の名前は、男子は「仁」、女子は「子」で2文字が原則。例外はあるが、858年に即位した清和天皇以来の伝統という。

 皇太子ご夫妻の長女、愛子さまの場合は、学者3人が天皇陛下に複数の案を上申し、陛下が皇太子さまの意向を聞いて決められた。陛下が決めるのは自分の子や皇太子の子の場合で、宮家は宮さまが決定される。秋篠宮さまは長女の眞子さまも、二女の佳子さまも、ご夫妻で相談して決められた。

 一方、身の回りの品につけるお印は、眞子さまは「木香茨(もっこうばら)」、佳子さまはハイビスカスの一種「オオハマボウ」の沖縄地方の呼称「ゆうな」。ともにご夫妻が好きな花を選ばれた。
 「命名の儀」は、お名前とお印が記された2枚の和紙をご夫妻で確認されたあと、宮務官が白木の桐箱(きりばこ)に納め、お子さまの枕元に置く。

 ご夫妻は、男女それぞれのお名前を考えられていたという。

 ◆皇統譜登録

 新宮さまのお名前は、官報に掲載されたあと、皇室典範の規定に従って皇室の戸籍である「皇統譜」に登録される。皇統譜は天皇、皇后両陛下を記載している「大統譜」と、その他の皇族用の「皇族譜」があり、新宮さまは、皇族譜に名、父、母、生年月日と誕生の時刻などが記され、羽毛田信吾・宮内庁長官と折笠竹千代・書陵部長が署名する。正本は宮内庁、副本は法務省で管理されている。

 ◆賢所皇霊殿神殿(かしこどころこうれいでんしんでん)に謁(えっ)するの儀

 誕生から50日を過ぎたころ、紀子さまに抱かれ、皇居内の賢所皇霊殿神殿にお参りする。一般の「お宮参り」で、新宮さまには白羽二重の産着が用意される。

 ◆初参内

 「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」を終えると、新宮さまは紀子さまに抱かれて御所を訪ね、天皇、皇后両陛下にあいさつされる。

 ◆お箸初(はしぞめ)

 一般のお食い初めと同様の儀式が120日目ごろに行われる。
(2006年9月6日14時10分 読売新聞)

126 名前:名無しさん 投稿日: 2006/09/07(木) 22:41:34
>>125
当初は仁の方が例外的で、11世紀ごろに増えだし、
14世紀ごろにようやく定着といった感じですね。

足利尊氏に名を与えた後醍醐天皇は「尊治」でした。

http://nekhet.ddo.jp/people/japan/jpn-emp.html

127 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2006/09/07(木) 23:23:59
そういえば、年号も、M T Sと来て、アルファベットをかぶらないようにHにしたという話がありますね。
修文や正化ではSになり、もうその略称が使えなくなりますから。
修文のほうが引き締まったいい年号のようにも思えますがねぇ。

O K N Y J D あたりでしょうね、次は。

>>125>>126
護良親王とかいましたねー。
例外なのか原則でさえなかったのかよくわかりませんけども、当時はどういう意識だったんですかね。
伝統慣習重視の命名者が仁をつけて、型破りな思考の者がつけなかったりしたんだろうか。

かぶらないで「○仁」ってつけるのは大変だな。即位した人だけならまだしも、即位してない人も合わせると・・・。

孝仁、常仁とかですかね。思いつきですが、樹仁(みきひと、たつひと)なんてのはどうでしょうか。

128 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/09/07(木) 23:49:44
例外はあるかもしませんが
醍醐天皇の皇子は○明(安和の変で失脚した源高明が有名)
村上天皇の皇子は○平
後醍醐天皇の皇子は○良
で統一してあったり,結構天皇毎の特色が出たりしてましたね。

129 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/09/16(土) 12:23:22
素晴らしい対応だ,(新)津市。合併によるメリットはかくありたい。

旧明村役場庁舎が国登録文化財に
芸濃で解体の危機免れる
http://www.chunichi.co.jp/00/mie/20060916/lcl_____mie_____006.shtml

 15日の国の文化審議会の答申で、津市芸濃町林の「旧明(あきら)村役場庁舎」が登録有形文化財(建造物)になることが決まった。旧芸濃町が解体しようとしたが、合併後に津市がストップをかけ、間一髪で貴重な文化財が守られた。大正初期の官庁庁舎は珍しいという。

 同庁舎は1916(大正5)年の建築。木造2階建て瓦ぶき。下見板で張った壁、上げ下げ窓など洋風デザインで、明治と大正の様式を融合させた。角地の立地を生かして玄関を建物の角に配置。ポーチを張り出し、その2階部分をバルコニーにするなど玄関部分を強調した特色ある構造となっている。旧津署の外観を参考にしたといわれている。

 56年の合併で芸濃町役場明支所となり、71年から町資料館として使用してきた。旧芸濃町は昨年、老朽化のため解体を決めたが、合併で工事の執行を引き継いだ津市が一転、保存することにした。県内の登録有形文化財は建造物で58件目。 (矢野修平)

130 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/09/27(水) 03:51:22

福島市は福島県の県都としては明らかに北に寄り過ぎており,福島県を福島県とするのは余り適切ではない様な気がしてた。県の地理上の中心なら郡山だし,若松の歴史も古い。福島に県庁を置いたのは会津の影響を成るべく小さくしたかった明治政府の意向があったのではないかと思ってたけど,福島市が長らく東北の地方中枢都市機能を仙台市と分担しており,可能性としては今の仙台市の様な位置に成長した可能性もあったというのもあったのではないか?とちょっとこの記事を読んで思った。

東北電力福島営業所ただ壊すには惜しい
http://www.fukushima-minpo.co.jp/news/kennai/20060925/ronsetu.html

 福島市は歴史的な建築物をまたも失ってしまいそうだ。同市置賜町の東北電力福島営業所社屋で、解体・撤去への動きが進んでいる。平成7年から行われている都市計画道路・栄町―置賜町線の拡幅に伴い、敷地と社屋の約半分が事業対象となっているためだ。保存や移築は極めて難しい現状だという。

 同営業所社屋は昭和2(1927)年に福島電燈(でんとう)株式会社本社として完成。その後、東北配電―東北電力に受け継がれた。コンクリート製一部石造りで洗練された外観。車寄せや玄関が撤去され、内部が大幅改修されているものの、昭和初期の面影を残した貴重な建築物と言える。本県の産業発展を支えた電力供給の拠点として近代化遺産の価値もある。また、庭園は大正時代に酒造業を営んでいた加賀屋総本家の別邸の庭だ。樹齢100〜150年のナシの古木が枝を伸ばす。

 同市内には、かつて日本銀行福島支店や県農工銀行(第一勧業銀行支店)など明治・大正期の建造物があった。しかし、改築などによって相次いで姿を消した。一方、花の写真館(旧日本電気計器検定所福島試験所)や御倉邸(旧日銀福島支店長役宅)など、古い建築物を保存・活用する動きも広がっている。市民の中から社屋保存を求める声が上がるのも当然だろう。

 拡幅事業はJR福島駅の東側一帯の慢性的交通渋滞の緩和や市街地の回遊性促進などが狙い。栄町―置賜町線は県道と13号国道を結ぶ延長220メートル。現在7〜8メートルの幅員を22メートルに広げ、両側に広めの歩道・自転車道を新設する。車道は交互交通に切り替え、駅前を発着するバスが迂回(うかい)せずに直進できるようになる。電線を地中化し、ミニ公園を設ける予定だ。総事業費は約42億円で、22年度完成を目指す。

 拡幅事業に異議を唱えるつもりはない。しかし、拡幅地を道路反対側に設定したり、営業所敷地を迂回することはできなかったのだろうか…。市によれば、拡幅はバスプール移転など駅前整備と密接に関連しており、反対側を拡幅すればバスプールからの道が「鍵形」となって円滑な通行を妨げかねない。迂回策も、道路延長が短いため「無理な形になる」としている。

 社屋をそっくり後退させる案もこれまでに検討された。背後地が狭い上、費用が新築以上にかかるため断念せざるを得ないという。地権者の多くが既に立ち退きを済ませており、現時点での変更は協力を無駄にする結果を招く。

 現在、市と同社が協議を重ねており、市は20年度にも工事に入りたい考え。「ナシの古木などは移植を含めて保存を検討したい」としている。近年は建物の外観や一部を残しながらビルを建設したり、イメージ・デザインを受け継ぐ開発も試みられている。建物についても、何らかの形で保存したり、“記念物”を残す努力を望みたい。約80年の県都の歩みを見つめてきた建物をただ壊してしまうのは、やはり惜しい。
 同市に限らず県内には貴重な建築物はまだ多く、今後も同様の事態が起こり得る。計画時には配慮を求めたい。何より「壊して建て直す」から「生かしながら再開発」への転換が必要だろう。(鈴木 久)

131 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2006/09/28(木) 20:57:05
>>130
明らかに道路の邪魔でもありました。建物を壊さずに道路をギリギリに広げる福島市の街づくりがダメなのであります。おかげで狭い路地ばっかり・・

福島の位置は確かに変で、「郡山遷都論」もありますが、「福島県はオーストラリアに形が似ているんだから、シドニーとキャンベラみたいに政治と経済がある程度分離していてもいいんじゃないか」論もあるのも事実ではあります。
「行政、農政は福島、経済は郡山」みたいな区分けが地元に染み付いて、もう慣れているのも確かではあります。でも、経済発展は阻害しているよね。。

132 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/09/28(木) 21:27:34
>>131
どんちゃんさわぎをした友人どもには理由を話して見に行くの付き合って貰ったのでしょうか??とまれ乙っす。

>行政、農政は福島、経済は郡山
行政=福島,商業=郡山,工業=いわきのイメージでしたが,最近福島は仙台に買い物客迄取られて衰退してるのではないでしょうか?
嘗ては東北一の人口を有する福島県の県都にして山形にも仙台にも近いという地の利が結局活用されませんでしたねぇ。

>でも、経済発展は阻害しているよね。。
県都がその政治力故に県内で一方的に発展するという構図は不健全だと思いますのでまぁこれでも良いのかもしれません。。

133 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2006/09/28(木) 22:21:17
>>132
いやあ、福交飯坂線のわびしさ最強。
東北電力福島支店は福島駅のすぐ近くにありますよ。
まあ、それはそれでありまして、福島の地の利は「山形にも仙台にも近い」んですが、どちらも山を越えなきゃいけないのがきついところですね。

134 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/10/21(土) 12:32:23

角栄時代は遠くに成りにけり??

<田中角栄元首相>中越地震で破損の胸像、修復されずに2年
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061020-00000020-mai-soci

 新潟県中越地震で破損した小千谷市の故田中角栄元首相の胸像(銅製、台座を含む高さ2.5メートル)が、地震から2年たつ今もそのままになっている。修復の話も出たが、建てられた当時の関係者の多くが亡くなっており、資金が集まらないという。ロッキード事件で元首相が逮捕されてから30年。地元では「角栄先生の威光も昔話」とのぼやきが聞かれる。
 胸像が建てられたのは元首相が蔵相当時の1964年。当時の市長ら有力支持者が発起人となり資金を募集、市内の彫刻家に依頼し、信濃川を見下ろす神社に建てた。
 地震では土台のコンクリート部分が崩れ、台座も横に約30センチずれた。地元や長女の田中真紀子衆院議員の後援会関係者らから修復の声が上がったが、管理者が分からず、費用負担の協議もまとまらなかった。いまだに修復費の見積もりすらされていないという。
 同後援会の幹部は「(真紀子氏の)事務所に修復や移転を要望している」と話すが、長岡市の同事務所は「小千谷市の有志が作ったもので、直接関係ない」と当惑顔だ。
 胸像の向かいで、元首相がよく訪れた料亭を経営していた内山芳郎さん(76)は「地震で小千谷はめっきりさびれた。田中先生が生きていれば、復興はもっと良くなったはず」とさびしげに話した。【前谷宏】
(毎日新聞) - 10月20日13時26分更新

135 名前:今亜寿 ◆nlHjMum/8M 投稿日: 2006/10/22(日) 09:18:58
>>134
角栄銅像といえばJR浦佐駅のものかとおもったら小千谷市ですか。
当時の市長って星野某ですかねえ。

私は北陸ツーリングにいったとき、銅像が長岡駅にあるかと思って駅前で
掃除してた老人に聞いたところ「みんなここ(長岡)にあると思って
聞くんだよなー」といわれましたw

136 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2006/11/23(木) 23:50:54
この資金提供って、どれくらいの意味合いがあったんだろう。

ライシャワー勧告で中止 自民党への秘密資金工作
http://www.sanyo.oni.co.jp/newsk/2006/11/23/20061123010003271.html

 ワシントン23日共同】1950年代後半から60年代にかけ、日本の保守政権安定と左派の弱体化を狙って自民党有力者らに資金を提供していた米中央情報局(CIA)の「秘密資金工作」は、工作発覚により日米関係に重大な支障が出ることを懸念した故ライシャワー駐日大使(当時)の勧告を受け、中止が決まったことが23日、分かった。関連文書の内容を知る米政府高官が共同通信とのインタビューで語った。

 自民党有力者と、旧社会党右派を指すとみられる「左派穏健勢力」に秘密資金を提供していた同工作をめぐってはことし7月、国務省刊行の史料集「米国の外交」で存在が確認された。しかし関連文書は公開されていないため、中止に至る経緯は分かっていなかった。

 高官はまた、米政府が秘密工作の中止に至る経過を伝える公文書3点の開示が、在日米大使館とCIAの反対で見送られたことを明らかにした。開示に踏み切った場合の日米関係への影響を危惧したとみられる。

 高官によると、ライシャワー大使は64年1月、国務省の要請を受け、秘密資金工作に関する意見を伝達。(1)日米関係が成熟し、親米政治家への資金提供の必要はなくなった(2)工作発覚時のダメージが大きい−ことを理由に中止を勧告した。

 高官は、ジョンソン米政権が最終的に工作中止を決める際、この勧告が「非常に決定的だった」と解説した。

 今年7月に国務省が出した「米国の外交」第29巻第2部「日本」は、秘密工作に関するライシャワー氏のホワイトハウスあて書簡など関連公文書を掲載せず「編集者による注釈」として秘密工作の概要だけを説明した。

137 名前:名無しさん 投稿日: 2006/11/25(土) 08:18:36
>>136
一番大きな効果は、社会党分裂・民社党結党('59〜'60)でしょう。

138 名前:名無しさん 投稿日: 2006/11/25(土) 08:20:58
左派弱体化狙い、秘密資金提供〜CIAが50年前、日本の保革両勢力に
http://www.usfl.com/Daily/News/06/07/0719_017.asp

 中央情報局(CIA)が1950年代から60 年代にかけて、日本の左派勢力を弱体化させ保守政権の安定化を図るため、当時の岸信介、池田勇人両政権下の自民党有力者と、旧社会党右派を指すとみられる「左派穏健勢力」に秘密資金を提供、旧民社党結党を促していたことが18日、分かった。

 同日刊行の国務省編さんの外交史料集に明記された。同省の担当者は「日本政界への秘密工作を米政府として公式に認めたのは初めて」と共同通信に言明した。

 米ソ冷戦が本格化した当時、日本を反共の「とりで」にしようと、自民党への支援に加え、左派勢力を分断する露骨な内政干渉まで行った米秘密工作の実態が発覚。日本の戦後政治史や日米関係史の再検証にもつながる重要史実といえそうだ。

 同省刊行の史料集「米国の外交」第29巻第2部によると、米政府は58〜68年「日本の政治動向への影響を狙った4つの秘密計画」を承認。アイゼンハワー政権は58年の総選挙前に「数人の親米保守の有力政治家」への資金提供を行うことをCIAに認めた。

 資金提供を受けた政治家には「米ビジネス界からの支援」との説明がなされたという。依然機密扱いの公文書を基に書かれた史料集は額や個人名を明かしていないが「適度の資金援助」が60年代も続いたとしている。

 またCIAは59年以降「左派穏健勢力」を社会党から分断し、「より親米で責任ある野党」の出現を目指した「別の秘密計画」を展開。民主社会党(後の民社党)が誕生する60年には、計7万5000ドルの資金援助を行い、秘密工作が打ち切られる64年まで同額程度の支援が続けられた。(共同)

■対米依存の「闇の構図」
 今回確認されたCIAによる日本政界への秘密資金工作は、当時先鋭化した米ソ対立や共産中国の台頭といった冷戦の激化を背景に、日本の左傾化を極度に恐れた米政府中枢の意思が介在した露骨な内政干渉だ。

 旧ソ連が旧社会党に資金提供していたことを示すソ連側文書はこれまでも見つかっているが、米国の秘密工作の影が、戦後政治の一角を占めた旧民社党の結党にも及んでいたことは衝撃的。日本の与野党が大国の資金提供を受けていた「闇の構図」が浮かび上がり、「55年体制」の新たな史的検証が必要となりそうだ。

 1958〜59年に立て続けに行われた総選挙、参院選などで資金が枯渇し、左派の躍進を強く懸念した自民党は、国内法的に違法性の高い外国からの資金援助に依存。明らかになった資料は、CIA主導の左派分断工作に乗じながら、保守長期政権の礎を築いていったことを示す。

 資金受領に携わった可能性がある岸信介、岸政権下で蔵相だった佐藤栄作両元首相らは、60年の日米安保改定や72年の沖縄返還という日米戦後史の大事業を成し遂げた親米保守政治家だ。

 安保改定や沖縄返還の際に「核持ち込み」の「密約」が交わされた経緯を考えると、米国の秘密資金工作が、「献金先」の親米保守政権が下した対米重要政策に影響を与えた疑念はぬぐえず、戦後の日米関係史にも見直しを迫る重要史実が今回確認されたといえる。(共同)

139 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/11/25(土) 11:50:43
ううむ,民社の分裂で構造的に社会党が現実路線取れないばかりか,社会・民社の近親憎悪で共闘が巧くとれずに政権交代の機運を大きく削ぐなど罪は大きいなぁ。

140 名前:今亜寿 ◆nlHjMum/8M 投稿日: 2006/11/25(土) 14:20:50
>>139
向坂老人が率い、旧社会党の地方組織を抑えていた社会主義協会
の存在をスルーするのは片手落ちだと思いますけどね

141 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/11/25(土) 15:32:30
>>140
まぁ向坂先生のはあれはあれで正々堂々となされたことですから。。

142 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2006/11/25(土) 18:50:35
>>140
西尾派離脱は、非協会系党員大量離脱が痛い。これで、旧社会党の場合、左右対立が、左の多数の党員と右の少数の議員とに分かれる「上下対立構造」になり、党員に影響力を持った向坂翁率いる協会の教条主義を打ち崩せなくなってしまった。
歴史にifが許されるのであれば、西尾、河上派に支えられた江田委員長体制、見てみたかったです。そしたら、高沢寅男あたりが「左の社民連」を作っていたかもしれない。

143 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/11/25(土) 18:59:09
>>140-142
勿論私も協会派に引っ張られれ現実路線が取れなかった社会党を手放しで認めてるわけではないっす。
むしろ「西尾、河上派に支えられた江田委員長体制」見てみたいですね。

なるほど,面白いっす>「左の社民連」
作るのは「早めに出来た新社会党」じゃないですかね?それとも「本土の社会大衆党」か?

144 名前:今亜寿 ◆nlHjMum/8M 投稿日: 2006/11/25(土) 21:25:30
>>142
新自由クラブと社民連のジョイント(統一会派)も2年しか持ちませんでしたので…

145 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/11/25(土) 22:43:18
>>144
新自由クラブ民主連合でしたっけ?
(右の)社民連は4人の所属国会議員を民社と社会の両会派に二人ずつ所属して接着剤たらんとしたりしましたが,左の社民連が出来てたならば社会と共産に半々で所属させたりして社共共闘させようと頑張ったりしたかもw

146 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2006/11/26(日) 07:09:09
>>144
「江公民」路線で、社会党の左派と民社党の極右派を切った社公民中軸路線。
社会党の左派は「左の社民連」を設立。人事・予算では閣外協力。個別政策はパーシャル連合。外にあって、社共対立、民共対立解消へと動く。

歴史にifあらせば、政権交代可能な体制が平成初めころには小選挙区導入待たずしてできていたかもしれない。

147 名前:今亜寿 ◆nlHjMum/8M 投稿日: 2006/11/26(日) 08:39:35
>>145
統一会派結成記者会見のあとすぐに柿澤弘治(当時参院議員&党政策委員長)が
「政策面の合意ができないのに統一会派組むのは反対だった」
と離党したとか、なんともまあ。

148 名前:今亜寿 ◆nlHjMum/8M 投稿日: 2006/11/26(日) 08:40:45
その13年後に柿澤さんは新進党結成時でも同じことやらかし、
結成パーティーに出る振りして逃げ出したりと

149 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2006/12/15(金) 22:07:32
ソ連と台湾が拒否権の応酬 日本加盟、土壇場で消える
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=intl&NWID=2006121501000570

 【ニューヨーク15日共同】日本が国連加盟を果たす前年の1955年末、日本など18カ国の加盟を認める安全保障理事会の決議案が、当時の国連で中国を代表し西側陣営に属していた中華民国(台湾)と、ソ連による拒否権の応酬の末、土壇場で否決された際の安保理内の具体的なやりとりが15日、国連の公文書で明らかになった。
 55年の加盟失敗の事実は日本の外交文書などで公開されているが、国連文書は当時の安保理内の「大国外交」の実態を生々しく記録している。日本は18日に加盟50年を迎えるが、文書は現在と同様、拒否権を持つ5常任理事国に翻弄される日本の姿を映し出した。

150 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2006/12/16(土) 19:20:04
国体明徴運動・・・http://www.c20.jp/1935/10meic2.html

天皇機関説学者を個別攻撃 報復警告し、転向を強要
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=MYZ&PG=STORY&NGID=intl&NWID=2006121601000343

 【ワシントン16日共同】日本で軍部ファシズムの台頭につながった1935年の「天皇機関説事件」をめぐり、文部省思想局(当時、以下同)が憲法学者ら19人を「速急の処置が必要」など3段階に分類、機関説の修正に応じない場合は講義を担当させないなどの報復措置を警告し、学説の変更を強要していたことが16日、分かった。思想局の秘密文書が米議会図書館に保管されていた。
 事件から70年余。政府が学者を個別に攻撃、転向を迫る徹底した思想統制の過程が個人名や具体例とともに判明した。複数の専門家は、文部省による具体的な圧力の実態を記した文書が確認されたのは初めてだとしている。
 文書は、米国が終戦直後に日本で接収した「各大学における憲法学説調査に関する文書」で、計約450ページ。

文部省秘密文書の要旨 
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=MYZ&PG=STORY&NGID=intl&NWID=2006121601000413

 【ワシントン16日共同】米議会図書館所蔵の旧文部省思想局の秘密文書「各大学における憲法学説調査に関する文書」の要旨は次の通り。(原文の大半は片仮名交じりの文語体)
 ▽天皇機関説論者の分類表(文書の題名、日付なし)
 一、速急の処置が必要な者。著書や講義内容の絶版、改訂を要求、受諾しない場合は著書の禁止を考慮。憲法講義を担任させない=中島重(関西学院大)、田畑忍(同志社大)、森口繁治、野村淳治(早大、明大)、宮沢俊義(東大)、浅井清(慶大)、中野登美雄(早大)、副島義一
 一、厳重な注意を与えることが必要な者。絶版、改訂を要求、受諾しない場合は憲法講義をやめさせる、または休講させる=佐々木惣一(立命館大)、野村信孝(明大、専大)、竹内雄(明大)、藤井新一(早大、日大)、渡辺宗太郎(京大)、河村又介(九大)、吉田一枝(関西大)、中村進午(立大、日大、拓大、上智大)
 一、(1)機関という語を使用させない(2)不穏当な個所を改めさせ将来を誓約させる−の点について注意を与えることが必要な者=西川一男(国学院大)、志田☆太郎(立正大)、田上穣治(東京商大専門部)
 ▽文部省部内メモ「憲法学説に関する件」(1935年8月10日)
 一、関西学院大の中島重教授の申し出によれば、機関説は講義しないことにしたとのこと。改説ではなく、自省して同説を説かないという。
 ▽竹内雄明大教授の上申書「憲法講義の根本的立場」(同年10月4日提出)
 一、天皇が最高決定者。国家意思は天皇意思。天皇が国家の機関として意思決定をされるのではなく、天皇が統治主体として意思を決定されることが国家の意思となる。
 一、拙著憲法原論は根本的に修正しつつ講義を進めている。
 ▽文部省思想局あて関西大の書簡(同10月7日)
 一、学長は文部省で専門学務局長に面会、指導取り締まりの方法などを拝承。自ら佐々木博士、吉田教授に面接、講義で一切天皇機関説に触れないよう注意し、両氏は了承。
(注)☆は金ヘンに甲

151 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2006/12/18(月) 09:44:09
鳥居龍蔵を京大に誘う 内藤湖南あて承諾の手紙見つかる 徳島新聞
http://www.topics.or.jp/News/news2006121706.html

 徳島市出身の人類学の先駆者・鳥居龍蔵(一八七〇−一九五三年)が東大講師時代の一九〇七(明治四十)年、東洋史学者・内藤湖南(一八六六−一九三四年)あてに送った、京大への転職を承諾する手紙が見つかった。湖南は当時、東洋史講座開設に際して京大に招かれており、鳥居を誘っていたとみられる。

 京大への転職は実現しなかったが、県内の鳥居龍蔵研究者らは「当時三十代だった鳥居が学界で大きな評価を得ていたことが裏付けられる、貴重な手紙」と話している。

 手紙は、湖南の孫・内藤敬子さん=京都市=が所有する百六十三通の書簡に含まれていたもので、谷川道雄・京大名誉教授らでつくる「内藤湖南研究会」(事務局・京都)の会員・名和悦子さん=岡山市=が整理中に確認した。

 明治四十年九月五日付で、「先日御はなしありし貴大学『人種学』云々の件小生は承知いたしました。都合によりて東京大学をやめてもよろしい」と記している。鳥居がきみ子夫人とともに教員として赴任していた蒙古カラチン(現在の中国内モンゴル)から送っている。名和さんによると、『人種学』とは、湖南が中心になって設立を進めていた「人類学教室」のこと。

 二人の交友については、一九〇五年に中国・奉天(現・瀋陽)での民族問題調査時に宿舎で同室となり親交を深めたことが、鳥居の「ある老学徒の手記」や湖南の「游清第三記」に記されているが、湖南が京大転職を持ちかけていたことは、これまで知られていなかった。

 前県立博物館長の天羽利夫さんは「鳥居は五十四歳で東大を助教授で去るが、もし京大へ移っていれば日本の人類史の歴史が変わっていたかもしれない」と話し、「湖南がどのようにして鳥居を誘ったのか、なぜ京大への転職が実現しなかったのか、県立鳥居記念博物館に残されている膨大な資料を整理・調査していけば、そのいきさつを解き明かすことができるかもしれない」と言う。

 また、その手紙には「家内よりもよろしく申居候 令夫人へもよろしく」とも記されており、同会会員の葭森(よしもり)健介・徳島大教授(中国史)は「鳥居と湖南の間に公私にわたる交友があったことがうかがえる。明治・大正期の研究者の交友関係がみえてくる点でも、非常に興味深い」と話している。

 ないとう・こなん 秋田県生まれ。本名・虎次郎。秋田県立師範学校卒業後、「萬朝報」主幹などを経て、1907年に京大の東洋史学の講師となり、09年から27年まで教授。東方文化学院京都研究所(現・京大人文研)評議員を務めるなど東洋史学の発展に貢献し、「京都学派の祖」と呼ばれる。

【写真説明】鳥居龍蔵から内藤湖南へ送られた手紙。京大への転職を受諾する内容となっている=内藤敬子さん所蔵

152 名前:とはずがたり 投稿日: 2006/12/20(水) 09:36:41
「中国正規軍による日本軍への不法攻撃」や「日中和平を拒否する中国側の意志があった」の表現になんら間違いは無いやろ。日本が中国に侵略していることに対しての反撃なんだから。ここをどう誤解されると云うんだ?ずれとるなぁ。

靖国神社:「遊就館」の展示 一部表現を変える方針
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061220k0000m010169000c.html

 靖国神社は19日、戦史博物館「遊就館」に展示している歴史記述で、当初は「見直す必要はない」としていた中国関連の記述について、一部表現を変える方針を決めた。10月に修正することを決めていた第二次世界大戦の米国関係部分に加え、来年1月1日から新しい展示に切り替える。

 新たに修正することを決めた中国関連の展示パネルは、「日露戦争から満州事変」「満州の歴史」「支那事変」の三つ。

 修正後の具体的な表現は最終調整中だが、例えば「支那事変」のパネルは、盧溝橋事件(1937年)が起きたきっかけとして、現在は「中国正規軍による日本軍への不法攻撃」や「日中和平を拒否する中国側の意志があった」などと表現しているが、「事実関係に誤りはないが、表現が足りずに誤解を与える部分があったので、もう少し柔らかい表現に言い換える」(監修関係者)という。他の2展示も、基本的には同じ考え方で見直す方針だ。

 また、記述の根拠となる史料として、中国側の刊行物も含めて多数提示し、一方的な記述ではないことを強調することも予定している。

 このほか「ヒトラー」「スターリン」「ルーズベルト」を同列に並べている展示方法や、「日米交渉」のパネルの記述についても見直す。

 同神社は今回の修正を「中間報告」と位置付けており、来年7月の遊就館新築5周年に向け、全面的な変更を検討している。【野口武則】

毎日新聞 2006年12月20日 3時00分

153 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/01/08(月) 13:52:26

満州建国に尽力した故工藤忠資料館開館へ
子孫が春オープンへ準備
http://www.mutusinpou.co.jp/news/07010102.html

 満州国皇帝溥儀の侍従長を務めた板柳町出身の故工藤忠(本名・鉄三郎)さんの生家にゆかりの資料を展示しようと工藤さんの子孫の妻に当たる工藤静子さん(57)=同町小幡=が春ごろのオープンを目指して準備を進めている亡き夫正道さん=享年(63)=の遺志を継いだもので静子さんは「資料館のほか喫茶コーナーも設け地域住民に親しまれる場所にしたい」と意気込んでいる

 工藤さんは1882年(明治15年)生まれ。陸羯南らの影響で大陸への思いを募らせ、結氷の間宮海峡を徒歩で横断するなどして数回渡支。満州建国に尽力し、建国後は侍従長陸軍中将に任官され「忠」の名を賜った。その後日本に帰国し、1965年(昭和40年)に死去した。
 生家は築130年ほどで、広さは約260平方メートル。老朽化した母屋の活用法について数年前から夫婦で構想を練ってきた。だが2005年4月に正道さんが死去し、残された静子さんが私費を投じて志を継いだ。
 改築工事は06年4月から始まり、屋根と土台部分の直しを終えた。今後は内部を改装し、生家にある工藤さんの書、掛け軸、写真などのほか、町立郷土資料館に寄贈した資料約60点も併せて展示する計画だ。
 現在、陸奥新報の毎週火曜日付に、いずみ涼さん作「皇帝の森―ラストエンペラー溥儀と工藤忠」が連載されていることもあり、生家を訪ねてくる歴史ファンもいるという。郷土資料館長を務める中谷豊教育長は「激動の時代に活躍した郷土の偉人の遺品が実家に展示されれば、町民が(工藤さんに)再び目を向けるきっかけになると思う」と語り、関係者も「町の新たな観光スポットとなるのでは」と期待を寄せている。
 静子さんは「庭にはサクランボやクリなどの木があるので、展示館だけでなく庭も地域の子供たちのために活用したい」と夢を膨らませている。

154 名前:名無しさん 投稿日: 2007/02/16(金) 00:18:20
[正論]現代史家・秦郁彦 アジア女性基金の遅すぎる解散
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070206/srn070206000.htm

 ■誤解招く「河野談話」を取り消すべき

 ≪元慰安婦償い事業終了≫

 「アジア女性基金ニュース」第28号(最終号)なる刷り物が先日送られてきた。12年つづいた元慰安婦たちへの「償い事業」が今年3月末に終了、基金(村山富市理事長)が解散するというお知らせである。

 「償い事業への募金にご協力くださったみなさまへ」と題し、韓国、台湾、フィリピンなど計285人の元慰安婦たちに対する5億6500万円の支援事業が終わったという新聞公告を見たのは平成14年7月だから、「えっ、まだ解散していなかったの」とおどろく人もいよう。

 政府の補助金に全面おんぶするこの種の特殊法人は、あれこれと理由をつけては延命をはかるのが常道。女性基金も慰安婦たちのアフターケアが必要だとか、アフリカに女性会館を建てたいとか、いろいろと画策しているのを筆者も耳にしていた。

 ニュース28号でも和田春樹専務理事が「政府の形を変えた支援措置が望まれる」と未練たっぷりに書いているが、かねがね基金の事業を「税金の壮大な無駄遣い」とみなしてきた筆者は、仕事もないのに5年も延命させた責任を問いたいぐらいだ。ではなぜ無駄遣いなのか。

 国民から集まった浄財は5億円余だが、それを配る基金の人件費や事務経費に毎年3億〜4億円、合計すると50億円前後の国費を投入しているからである。

 しかも認定作業は相手国政府に丸投げ、送金は銀行がやるから、関係省庁や市民団体からの「天下り」職員は、時折開くシンポジウムのお膳立てか、作文コンクールの審査ぐらいでお茶を濁してきた。

 ≪米議会も対日非難決議案≫

 それでも国連のお墨付きまでつく日本の恥部にされてしまった慰安婦問題が決着したのなら50億円は安いものだが、そうはならなかった。野党3党は、この解決策は国が法的責任を回避するものだとして、韓国NPOなどと連携、別に公式謝罪と国家補償を軸とする救済法案を13年から何度も提出した。

 そのつど廃案になったが、まだあきらめていないようだ。条文のなかには「いまだ判明していない被害者の調査」もふくまれている。

155 名前:名無しさん 投稿日: 2007/02/16(金) 00:18:35
 こうした動きはアメリカにも飛び火して、同趣旨の慰安婦問題に関する対日非難決議案が下院に上程された。日本大使館の奔走もあり、決議案は昨年12月廃案となったが、日系3世のマイク・ホンダ議員らが中心となって1月31日、再上程にもちこんだ。

 さすがに自民党の有志議員による「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」小委員会は、いわゆる「河野談話」の見直しに向け、年頭から活動を始めた。

 河野談話とは5年8月4日、宮沢内閣の官房長官河野洋平氏(現衆院議長)が発表した政府見解で、新聞は「従軍慰安婦−政府、強制連行を謝罪」(読売)のみだしで報道した。筆者はその前日に担当の内閣外政審議室長から原案への意見を求められ、いくら政治的妥協とはいえ、たしかな証拠なしに強制連行を認めるかのような表現を入れると、必ずや将来に禍根を残すと切言したが、河野氏が事務局の抵抗を押し切ったとあとで聞いた。

 それから十数年、わが国では櫻井よしこ氏らの努力でこうした内情はかなり知られてきたが、海外では国連をふくめ、河野談話は日本の公式見解として定着してしまった。この誤解を解くには、285人の元慰安婦で官憲が強制連行した例は1件も見つかっていない事実をふくめ、河野談話を明確に否定する声明を出すしかないと思う。

 ついでに書けば、筆者は以前から河野という政治家のあやふやな歴史認識に危惧(きぐ)の念を抱いてきた。最近では昨年10月、ベトナムのズン首相を国会に迎えたとき「先の大戦で、わが国の軍政下において多数の餓死者を出したことを忘れてはならない」(10月25日付朝日)と挨拶(あいさつ)している。

 ≪ベトナム大量餓死の誤認≫

 餓死説の起源は、ホーチミンの独立宣言に出てくる「200万人餓死」のくだりだが、ベトナムはフランスの統治下にあり、日本が軍政をしいたのは餓死が下火になりつつあった昭和20年3月以降の5カ月にすぎない。

 それをフランスではなく日本の責任と言いだしたのはわが国の一部歴史家と運動家だが、ベトナム政府はその扇動に乗る気配はない。

 河野議長の迎合的言動をズン首相は黙殺したらしいが、朝日紙上で話を振られた河野氏は「過去を学ばねば流される」とのたまった。河野さん、まさか基金を作って謝罪と補償をと言い出さないでしょうね。(はた いくひこ)

(2007/02/06 05:53)

156 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2007/02/26(月) 07:10:28
酷評。国士なんてこんなもんだよ。

児玉氏・辻氏は使えず…米反共工作でCIA分析
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070225it16.htm?from=top

 【ニューヨーク=大塚隆一】米国の情報機関が東西冷戦初期、日本の戦犯容疑者や右翼を使って進めようとした反共工作や情報収集について、米中央情報局(CIA)が役に立たないケースが多かったと分析していたことがわかった。
 AP通信が24日、米国立公文書館で2005〜06年に解禁されたCIAの極秘文書をもとに伝えた。
 それによると、CIAなどの米国の情報機関は第2次世界大戦後、右翼の大物で後にロッキード事件の被告になった児玉誉士夫氏や戦犯容疑を免れた元陸軍参謀の辻政信氏らに接近した。
 しかし、CIAの文書は「彼らは自らの威信や利益のために情報をたびたび捏造(ねつぞう)した」「日本の戦後は、驚くべき数の、役立たずの情報提供者を生み出した」と指摘。工作資金を持ち逃げされたり、同じ情報が米国の複数の機関に売られたりした例もあったという。
 児玉氏の反共工作への関与の程度は不明だが、CIAは1953年の文書で、「情報要員としての価値は無きに等しい。彼はプロのうそつき、ギャング、ペテン師、大泥棒だ。もうけることにしか関心がない」と酷評。辻氏については、連合国軍総司令部(GHQ)の情報部門が対中工作を指揮させようとしたものの、逆に日本の再軍備のために米国を利用しようとしたと分析し、「第3次世界大戦さえ起こしかねない男」(54年の文書)と警告した。

157 名前:やおよろず 投稿日: 2007/02/26(月) 12:15:26
>>156

 この文からすると、辻政信は「国士」として評価できるような気がしますね

158 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2007/02/26(月) 21:20:26
稲田氏の場合は目的語が「写真」なのか「虐殺」なのか不明なので評価は避けますが、松原氏は「虐殺が事実無根」などと本当に言ったのか。
少数説までは、私も許容はできるのだが、さすがに「ゼロ」となるといかがなものか。感覚を疑われかねない。

「南京事件の真実を検証する会」が初会合
http://www.sankei.co.jp/seiji/seisaku/070226/ssk070226003.htm

 自民、民主の若手国会議員で作る超党派の勉強会「南京事件の真実を検証する会」は26日、国会内で初会合を開き、藤岡信勝拓殖大教授が中国系米国人、故アイリス・チャン氏が著書「レイプ・オブ・南京」で、「南京大虐殺」の証拠として掲載している写真の真偽を検証した。
 会合には自民党から14人、民主党から8人の国会議員が出席し、秘書らの代理出席を合わせると計48人が参加した。民主党の松原仁衆院議員は「虐殺が事実無根だということを資料を通じて国会議員が知っておく必要がある」とあいさつ。自民党の稲田朋美衆院議員は「うそだと分かっていることに抗議しないことが国益を損ない、国家の名誉を棄損している」と語った。
 藤岡氏はチャン氏の著書の写真11枚について合成部分や修正個所、写真説明の改変の跡を1枚ずつ説明し、「大虐殺があったとする証明の写真は、検証すれば間違いだと証明できる」などと指摘した。

159 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2007/02/26(月) 21:26:32
>>156-157
今亜寿氏でしたか「売国と簡単に言葉にするようなのは信用できない」と言いましたっけ。
私は、それと対になる形で「国難」とか「救国」とかいうのも信用できないんですねえ。

自民党結成資金の一部まで出して反共運動を起こしていた児玉氏ですけども、ならばなぜ共産党が少ないとはいえ国会に議席を持っているのか。
児玉氏に使った金はムダだったわけで、50年経ってCIA文書は、人物評価という一面をもってして輝きを持つのであります。

160 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/02/26(月) 21:35:12
>>159
それらに加えて「国益」なんてのも同様かと。
まぁ煽りで俺も連発してますけどw
ネット上でも現実世界でも本気になって使っている人はちょっと疑ってしまいますねぇ〜。

161 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2007/02/26(月) 21:38:58
>>160
国益はまだ許容できるんですが、そこから発展して、「国益って具体的に何を指すのか」と問われると、みんな詰まるのね。右も左も。だったら使うなって(笑)。

162 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2007/02/26(月) 21:57:44
>>160-161
大まかな概念じゃないですかね。
個人対個人で面と向かってどうこうするのは場違いかと思いますね。
でも、外交や安保の話では使える場面もあると思うんですけど。

ちょっと関連する話題だと思うんですが、辛淑玉がゲストのこの嶌信彦のラジオが面白かったですね。
辛淑玉って悪評が立っている人という印象で、どういう人かその実知らなかった私ですけど。
http://www.tbs.co.jp/954/shima.html

163 名前:今亜寿@ ◆nlHjMum/8M 投稿日: 2007/02/26(月) 23:17:26
>>159
国益とか売国ってのは長い歴史のスパンで初めて
評価できる、そういう事象が多いのでは思ってる次第で。
そういう意味で幕末の小栗忠順や明治の小村寿太郎なんかは
じっくりといろんな文献集めて読んでみたい人物かなと思います。
(あ、もっとわかりやすく勝安芳がいたか)

164 名前:名無しさん 投稿日: 2007/02/26(月) 23:39:15
>>156
辻つながりで…1952・吉田首相暗殺&クーデター計画。

旧日本軍将校ら、吉田首相暗殺を計画…CIA文書
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070226it14.htm

 【ニューヨーク=大塚隆一】旧日本軍の参謀本部作戦課長を務め、戦後は連合国軍総司令部(GHQ)の秘密工作に関与した服部卓四郎氏らが1952年7月、当時の吉田茂首相の暗殺を企てていたとする報告が解禁された米中央情報局(CIA)の文書から見つかった。

 同年10月31日付のCIA文書によると、服部氏ら旧日本軍将校を中心とする6人のグループは、吉田首相が公職から追放された者や国家主義者に敵対的だとして不満を募らせ、暗殺によって首相を鳩山一郎氏にすげ替える計画を立てた。

 しかし、戦時中からの盟友で、グループの表向きの代表になっていた元陸軍参謀の辻政信氏が「クーデターを起こす時ではない」「敵は保守の吉田ではなく、社会党だ」と説得し、思いとどまらせたという。

 CIA文書には、計画の具体的な内容は記されていない。

 一方、同年に衆議院議員に当選した辻氏は61年、ラオスで消息を絶つが、CIA文書は北ベトナムからラオスを経て中国に入り、63年、共産党当局に拘束された可能性を指摘している。中国で処刑されたとする未確認情報もあるという。
(2007年2月26日22時1分 読売新聞)

165 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/02/26(月) 23:53:15
wikiで辻とか小栗とか調べて読んでましたが,辻は参院議員にもなって挙げ句の果てに行方不明と波瀾万丈の人生ですな〜。

166 名前:やおよろず 投稿日: 2007/02/26(月) 23:57:26
>>158

 事実関係を詰めても、声の大きいほうが勝つのだから、徒労に終わる気がしますね
 
>>161

 ある程度、客観的に観測可能なものでないと、議論のしようがありませんね。

>>162

 交渉内容の有利さで、国益を測定できるのだ思いますが、
 国家目標がまったくわからないので、日本に関してはどこまで使えるのかはわかりませんが

167 名前:名無しさん 投稿日: 2007/02/27(火) 00:08:22
>>159
「地球市民」というのも信用できませぬw

>>162
相変わらず中身のない反日&韓国万歳だなぁ>シンスゴ
遠回しにホリエモン失脚を残念がっているのにワロタ
あと米軍にいる在日にインタビュー云々とさらりと言ってのけたけど、
[韓国籍+日本の特別永住資格+アメリカのグリーンカード(永住権)+市民権?]を
持っているというのはすごいな。
韓国に入国すると韓国の徴兵忌避で逮捕されそうな気もするけどw

168 名前:やおよろず 投稿日: 2007/02/27(火) 00:14:09
>>167

 株式保有という点からいくと、小泉政権時に「地球市民」化が一気に進みましたね
 特に、経済の中枢というべき銀行に関しても例外なく

169 名前:とはずがたり@自称コスモポリタン 投稿日: 2007/02/27(火) 00:27:06
>>167
地球市民は非常に素晴らしい発想だと思いますよ,胡散臭さはよくわかりますけど…w
近代国家など糞喰らえだヽ(`Д´)ノ

170 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/02/27(火) 00:28:56
>>168
小泉には銀行株で資産倍増させて貰ったので頭あがらないかもっす。。

171 名前:やおよろず@マルクス主義者ではありません 投稿日: 2007/02/27(火) 01:02:45

 >>169

 資本主義は帝国主義的拡大を伴う(ローザルクセンブルグ)のでありまして、
 資本主義の力で、地球市民が誕生するのではないでしょうか?

 ドル危機論争で、危機否定の有力説として、
 資本主義の拡大により新興国が外貨準備としてドルを選択するので、ドル需要が拡大し、ドル暴落は起こらない
 というのを見て、まさに「資本主義」の「帝国主義的拡大」だなと思いました。


 しかし、近代国家崩壊後の世界は、無秩序か巨大権力による統治かの2者択一のような気がしますけど

172 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2007/02/27(火) 01:24:13
>>167
中身の無い反日なんですかね。
アメリカのことなんかは当たってる面があるなと思ったんですが。
反日に洗脳されますかね、私。

173 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2007/02/27(火) 01:33:55
>>169>>171
前にデヴィッド・ヘルド読んでそのへん勉強したけど、もうすっかり抜けちゃってる。哀しい。

174 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2007/02/27(火) 01:57:11
ちょっと読み返してみましたが、
ハイエクが理想としていたような「国境による制約を受けない市場」と裏表の関係にありますね、コスモポリタンな考え方は。
地球市民というのがコスモポリタンな法の支配(国境を越えた市場のもとでの自律性確保)を求める考え方だとすれば、小泉政権時云々ってのはよくわからないですけどね。

なんだかよくわかりませんが、結局、暴力による担保をゼロにはできないから、一般的イメージにあるような脳天気な「地球市民」的な考え方じゃ行き詰まりますよね。

175 名前:やおよろず 投稿日: 2007/02/27(火) 02:23:06
>>174

>>ハイエクが理想としていたような「国境による制約を受けない市場」と裏表の関係にありますね

 ハイエクに関しては、仮想しているのがパクスブリタニカであり、国際化による倫理の崩壊まで考えが及んでいなかったという批判があります。

 ハイエクにしてもマルクスにしても、市場における運動法則に絶対の信頼を置いていたので、突き詰めて考えれば結論が似たものになるのは、まあ必然的でしょう。

>>小泉政権時云々ってのはよくわからないですけどね。

 日本においては小泉政権時にコスモポリタンな法の支配が確立したということです。

>>暴力による担保をゼロにはできないから

 ゼロどころか、現在よりも格段に強力な暴力を必要とすると思います。

176 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2007/02/27(火) 02:40:44
>>175
やおよろずさんより経済わかってないと思うのでそのへんはご勘弁ください。

>市場における運動法則に絶対の信頼を置いていたので
なるほどと思いました。

コスモポリタニズムな法の支配とは、むしろ、超国境市場の現実におされる個人(市民)の政治的権利や自律性を確保するためと思われるので、あえて小泉政権というのもどうかなと思うんですけど。
グローバリズムという意味では小泉政権ってのもアリだなとは思いますが。コスモポリタニズムの要請が強まる状況を出来したという意味で(まだ日本ではそこまで個々人困窮してないかもしれないけど)。
まぁ定義とかイメージの問題で、「地球市民」を現状に結びつけるのも絶対ダメというわけではないでしょうけど。

>ゼロどころか、現在よりも格段に強力な暴力を必要とすると思います。
だから、無政府主義とか単一政体主義とかは、明らかに無茶な志向ですよね。
一方で、コスモポリタニズムは、突拍子も無いその名称ながらw、現実的路線もありうる。市場任せの「自由」に対して個人の「自由」を守るための介入はどうなされるべきかという、程度問題として出てくる。

しかし、まぁこういうのも、曖昧な言葉だから、説明無しに使ったり使う場面を間違えると、「国益」と同様なのかも。

177 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/02/27(火) 04:43:33
みんなお詳しいですなぁ〜・・。
特にやおよろず氏は片言丸氏と同じ分野の人かと思ってましたが経済畑の人でしたん??

>>171
>資本主義の力で、地球市民が誕生するのではないでしょうか?
そうだと思いますよ。
先進国の労働者が資本主義の発展の過程で富裕化(マルクス的に云えばプチブル化)して,資本主義が(マルクスが想定したような社会主義ではなく)修正資本主義に変成しつつ,資本主義下の労働者が社会主義革命への担い手たることを止めた(むしろ社会主義への反対者として立ち現れるようになった)訳ですから,コスモポリタンが(修正)資本主義(今日風の言葉で言えばグローバリゼーション?)の裏打ちがあって成立してたとしてもまぁ宜しいかと。

>ゼロどころか、現在よりも格段に強力な暴力を必要とすると思います。
俺は憲法九条を非現実的だと思いながらもその理想論を是とする人間ですから。
その理想を前提としつつ,暴力やパワーポリティクスにどう対処してゆくかは現実的に思考すべきであると思ってます。

178 名前:やおよろず 投稿日: 2007/02/28(水) 13:55:59
>>176

>>超国境市場の現実におされる個人(市民)の政治的権利や自律性を確保する

 これの役割を果たすのが、国家でしょうな。
 さらに、その権利や自立性の内容は、国家による差異があってしかるべき。
 この辺の普遍化は、世界を支配するような巨大権力による圧制にほかなりません。

>>市場任せの「自由」に対して個人の「自由」を守るための介入はどうなされるべきか

 市場運動の完全性を仮に認めたところで、市場均衡は永久に達成されない。
 経済は均衡点の周囲の円状を周回し、不均衡状態が継続し続ける。
 という論もあります。(岩井克人「不均衡動学論」岩波書店・・私の理解が間違っているかもしれないので、時間があれば是非お読みください)

 氏は、その不均衡状態の正体は、さまざまな形での「差異」である。
 また、その不均衡状態が利潤を生み出す企業活動を引き起こすのだ、というように展開しています。

 市場の「自由」から守るべき個人の「自由」とは、この差異性ではないでしょうか?
 国際化の流れの中では、個人に限らず万物が標準がされていきますから、そこから守るべきものは「差異」ではなかろうかと。
 国境を設ければ、人間は普遍的な個人ではなく、国民になります。

 かなり荒い論立てですが、このようなことからも、現実的なコスモポリタニズムこそが、現存の国民国家体制ではなかろうかと思います。


>>177
 
 >>先進国の労働者が資本主義の発展の過程で富裕化(マルクス的に云えばプチブル化)して,
   資本主義が(マルクスが想定したような社会主義ではなく)修正資本主義に変成しつつ,
   資本主義下の労働者が社会主義革命への担い手たることを止めた(むしろ社会主義への反対者として立ち現れるようになった)訳ですから,
   コスモポリタンが(修正)資本主義(今日風の言葉で言えばグローバリゼーション?)の裏打ちがあって成立してたとしてもまぁ宜しいかと。
 
 19世紀に近代国として成立した諸国家について普遍的に当てはまる事実だと思います。
 しかし、これは史上最大の経済成長に支えられた、一過性のものではないでしょうか?
 「修正」資本主義の「修正」の部分が統一されていくのが、現在進行形の「国際化」の姿かと思います。
 「修正」の統一は不可能であるか、強国モデルの世界標準化でしょうから、「自由」か「強圧」かの選択になることと思います。
 よって、無修正資本主義、または、アメリカ資本主義によるコスモポリタニズムにしかならないのではないかと懸念しています。

 >>コスモポリタンが(修正)資本主義(今日風の言葉で言えばグローバリゼーション?)の裏打ちがあって成立してたとしてもまぁ宜しいかと。

 まだ完成の状態ではなく、国家による修正があります。
 純正資本主義が存在するかどうかは、また別の議論でしょうけど、各国に修正権のあるうちは、コスモポリタンの完成とはいえないでしょう。

 コスモポリタンの概念にやや近いのは、ヨーロッパ諸国でしょう。
 少なくとも金融が超国家権力に握られていますから。
 国民国家とはまったく別の次元で、統一的な標準が作られていくわけですから。
 超国家機関に権力を握られては、民主主義の手から権力が離れたも同然であり、このような事態が各分野で進展していくことこそ、地球市民化でしょう。

179 名前:やおよろず 投稿日: 2007/02/28(水) 14:19:44
訂正
×「不均衡動学論」
○「不均衡動学の理論」

180 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2007/02/28(水) 15:29:36
>>178
いろんな方向から語れる問題であるだけに、言葉遣いが難しいですね。

”国に属している、地域に住んでいるという意識がなければ
語り始める土台を有さない人になってしまう”、という意味で言えば、
「地球市民」をグローバリズム全面擁護の人と見ることになるし。
(地元アイデンティティがないなら、
 「他をさておき我が地域を守れ」と主張するのは矛盾的だし。)

ですが、ボーダーレスな企業活動をする側でなく、
むしろその現状を危惧する立場から「地球市民」という言葉を使ったりすることが実際は多いんじゃないでしょうか。
たとえば、「フェアトレード」を提唱したりする人たちとか。

日本では、あまり深い考えなしに、平和的国際的人的協力とか、反戦非戦運動とか、
そういうのを主張する人たちが使ったり、逆にそういうのを嫌う人たちが使ったりしてる感じですが。

そういう意味では、地球市民という言葉はワケがわからない。

近年のグローバル化反対勢力ですが、やおよろずさんの定義での「地球市民」に反対してるみたいなことになりますが、一体どうなってるの、と。
http://www.ken1.tv/kizon/article9912.html



話がバラっとしてしまいましたが、直接の返答をしておくと、
単一政体化は>>176に書いたとおりもちろん無茶なものであるけど、
政治的権利や自律性というものは、国家間の差異と簡単に片付けられるものではなく、
それが保障されるように、国際間で協力して努力するというのはよいことだと思います。
それが保障されることが圧制(圧政?)というのはおかしいと思います。

確かにEUだと、EUの政策決定にEU民が直接的に関与するのが難しくなり、
そういう意味では一定の政策に関する政治的権利や自律性が失われがちといえるかもしれませんし(それでも直接選挙の欧州議会ってありますけど)、
それが進んでいき、国をまさしく統合したり、国の意義が代議員輩出のみになったりすると問題でしょうけど、
現状、政治に参加しておおよそのことを言う権利やおおよそのことを決める自由がそれぞれの国で守られ、
基本的に各国民がそれぞれの国・地域の政策を決しているのであり、そういう状況を圧政とはいわないんじゃないでしょうか。

181 名前:やおよろず 投稿日: 2007/02/28(水) 23:05:59

>>近年のグローバル化反対勢力

>* 例えば各国が持つ、環境・労働基準・公衆衛生・消費者保護などの規則がある。WTOの主な役割の一つは、貿易上の非関税障壁撤廃なので、貿易促進の立場から見ればこうしたルールも「障壁」だ。そうなると、これらの「調和」を図るべく、最大限の保護効果を上げている加盟国の法律が、最も自由な=保護力最低ラインの国の水準に引き下げられる恐れがある。(悪しき過保護の撤廃は良いにしても。)自給自足でうまくいってる農村に、多国籍企業が「WTO」の旗を掲げて入って来て、新しい市場のルールがあてがわれ、自給も出来なくなってしまう、という懸念がある。
>* ある産品の輸入を衛生上の問題や環境破壊の危険があるとして拒むなら、売る側が無害性を示すのではなく、拒む側が有害性の科学的根拠提出を求められる。 これは、市民運動のみならず、加盟国間の根本的な対立の一つだ。例えば、成長ホルモン漬け牛肉、遺伝子組換え作物に慎重でありたい社会への輸出攻勢などが、これに当たる。
>* 外国産品に対する差別の禁止原則(自国産品同様に扱え)…というと聞こえは良いが、「我が社会の尺度では許されない人権無視の生産方法だ」と考えてある産品の輸入を拒否しても、制裁されてしまう可能性もある。
>* 「農産物の自由な輸出入」で食糧危機国から穀物が、「林産物の自由な輸出入」で森林破壊国から丸太が、歯止め無く流出する。
>* 絶滅危険種や有害廃棄物の取引は防げるか?
>* 武器貿易に歯止めがかけにくくならないか?

 1番目に凝縮されてますね。

>>近年のグローバル化反対勢力ですが、やおよろずさんの定義での「地球市民」に反対してるみたいなことになります

 「地球市民」に反対しているかどうかは、微妙ですね。
 環境・労働・消費者保護・武器取引が、この団体の言うように規制されたとしたら、この団体は反対運動を起こすでしょうか?
 逆に、多国籍企業は「グローバリズム」大反対!となるのではないでしょうか?
 この団体連合軍は、「グローバリズム自体」ではなく、「グローバリズムの中身」に異議を申し立てているのではないでしょうか?

 私は「グローバリズム」自体に反対しているわけです。
 「グローバリズム」は、絶対的「自由」か画一的「倫理」、または両者の混合でしか、なしえないと思います。
 「自由」は「倫理」の放棄に他ならないからです。
 旧来の倫理観から解き放たれることが「自由」であり、そこでは自分の「倫理」が通用しない。
 「自由」を絶対視すれば、「倫理」の出る幕はない。
 自らの「倫理」が通用していた領域が「自由」に蹂躙される。
 古来から延々と続く「倫理」を墨守しろという意味ではありません。
 変えるにしろ守るにしろ、もっと慎重であるべきだということです。
 「自由」を絶対化すること・「倫理」が画一化されることは、危険であると主張したいわけです。

 国家を絶対視しているわけではありません。
 できることなら地域・職域に細分化された「民主」が望ましいと思います。
 しかしながら、地域・職域が実力で「倫理」を維持するだけの力はないのではないかと思います。
 よって、国家がこの地域・職域の「倫理」を守るということが必要ではないかと思います。


 私には手に負えない壮大なテーマなので、駄文かつ長文なのを、お許しいただきたい。

182 名前:やおよろず 投稿日: 2007/03/01(木) 12:39:10
河野談話 慰安婦「強制性」に韓国から働きかけ

 宮沢内閣末期の平成5年8月、河野洋平官房長官(当時)は「慰安所の設置、管理および慰安婦の移送は旧日本軍が直接、間接に関与した。慰安婦の募集は、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、甘言、強圧によるなど本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、官憲等が直接これに加担したこともあった」とする談話を出した。

 官憲による慰安婦募集の強制性を認めたもので、韓国などにより、日本政府が正式に慰安婦の強制連行を認めたと拡大解釈、宣伝された。

 しかし、談話の根拠は元慰安婦女性からの聞き取り調査だけで、9年3月の参院予算委員会で平林博内閣外政審議室長は「個々の証言を裏付ける調査は行っていない」と答弁。河野氏自身も同年、自民党の「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の会合で「強制的に連行されたものかについては、文書、書類では(証拠は)なかった」と述べている。

 証拠がないにもかかわらず、政府が強制性を認めたのはなぜか−。河野談話作成にかかわった石原信雄元官房副長官によると、当時、韓国側は談話に慰安婦募集の強制性を盛り込むよう執拗(しつよう)に働きかける一方、「慰安婦の名誉の問題であり、個人補償は要求しない」と非公式に打診していた。日本側は「強制性を認めれば、韓国側も矛を収めるのではないか」との期待感を抱き、強制性を認めることを談話の発表前に韓国側に伝えたという。

(2007/03/01 11:00)

http://www.sankei.co.jp/seiji/seisaku/070301/ssk070301000.htm

 ことなかれ主義が、問題を拡大させたって事かな?

183 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2007/03/02(金) 06:57:19
南京虐殺の方に対する私の書き込みに反応が大きいかなと思ったのですが、コスモポリタンまで話が及ぶところ、さすがの論客陣であります。

情けない話で、バカがやったことだと思います。他方、真面目に書き込む人もいるわけですから、撤去までするのはいかがなものか。該当部分を墨塗りすればいいんじゃないか。
だいたい、こういうノート、設置する側は「何を書かれても受けて立つ」意気込みが大事であると思います。だったら、最初から置かなきゃいい。他にも「手紙」投函箱とかやり方があるわけだし。

平和資料館ノートに落書き=ハングル感想文に差別用語−広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070301-00000151-jij-soci

 広島市の平和記念資料館が見学者に感想を書いてもらうために設置している 「対話ノート」に、悪質な落書きが見つかったことが1日、分かった。ハングルや中国語の感想に対して、韓国人や中国人らを差別する言葉が書かれていたといい、同館はノートを撤去した。
 ノートは1970年に設置されて以来1000冊目に当たり、撤去は初めてという。 同館によると、4カ所に韓国人らを直接、やゆする差別用語が書かれていた。このほか、「しょせん君らは僕らの植民地です」など、約12カ所に差別的な文言が記されていた。筆跡から同一人物によるものとみられる。

184 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/03/02(金) 10:21:46
「西郷は征韓論」記述を削除 知事の要請で教科書出版社
2007年3月1日(木)22:06
http://news.goo.ne.jp/article/kyodo/nation/CO2007030101000825.html?fr=rk

 西郷隆盛らの征韓論を記述した日本史教科書に、西郷が朝鮮との平和的交渉を目指したとする「遣韓論」も併記するよう鹿児島県の伊藤祐一郎知事から要請を受けた教科書出版社7社のうち1社が、「西郷は征韓論を唱えた」との記述を削除していたことが1日、分かった。伊藤知事が県議会で自民党県議の質問に答え、明らかにした。記述を変更したのは、第一学習社(広島市)発行の高校向け日本史教科書。

185 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/03/02(金) 10:25:41
>>156-183あたり
ちょいと忙しくて真面目に議論に参加できてないのですが,現代の近代国家体制が現代の多様で多元的な市民社会の擁護者として健全に機能しているというのがやおよろず氏の主張でしょうか?
大変説得力がありましたが,近代国家群として正常に機能しているヨーロッパがEUの壮大な実験で超国家機関をつくろうとしている一方,国民の収奪機関に成り下がっているアフリカ諸国の"国民国家"を見るに近代国家の超克の必要性を強く感じます。
定義にもよりますけど,其処迄厳密に地球レベルの国家権力を造って全世界人がその支配に服することという発想が地球規模の近代国家を作ろうとしているだけの発想にも思えます。
中世というのは日本も西洋も多元的な権力体系が存在しましたが,それが一定地域の最高権力として絶対王政ついで近代国家が掌握する過程が近代化だったように思われますけど,偏狭なナショナリズムの源泉となったり,アフリカの部族社会に無理矢理当てはめられた近代国家という存在を理想に基づいて改良して行く事は人類にとって必要であろうと思います。
もっと細かい皆さんの論点や用語法を質問して整理したいのですがまとまらないので取り敢えず暫定レスで失礼。

>>183
>バカがやったことだと思います。他方、真面目に書き込む人もいるわけですから、撤去までするのはいかがなものか。該当部分を墨塗りすればいいんじゃないか。
>だいたい、こういうノート、設置する側は「何を書かれても受けて立つ」意気込みが大事であると思います。
たしかに。仰るとおりですな〜。

186 名前:やおよろず 投稿日: 2007/03/03(土) 18:36:35
 この議論に含まれる様々な論点を含んでいると思うのでドイツを例に論を展開します



近代ドイツ成立小史

1789 フランス革命

1792 フランス革命への干渉戦争

1806 ライン連盟の成立
     
     神聖ローマ帝国終焉

1807 ティルジット講和

1813 諸国民戦争

1815 ウィーン会議

     ドイツ連邦の成立

1834 ドイツ関税連盟の成立  
     
1848 三月革命

1850
〜59 ドイツが工業国化の進展

1862 ビスマルクが首相に就任

1864 対デンマーク戦争

1866 対オーストリア戦争

1867 北ドイツ連邦の成立

1870 普仏戦争

1871 ドイツ帝国の成立

187 名前:やおよろず 投稿日: 2007/03/03(土) 19:20:38
1フランス革命

 フランスは、絶対王政からフランス革命と混乱期を経て、ナポレオン時代に突入した。
 ドイツはフランスの混乱を見て、「革命」ではなく「改革」を選択した。

2ライン連盟

 ライン連盟が、オーストリアのナポレオンに対する相対的劣位が明確になったため、フランスの庇護を受けるために結成される。

3神聖ローマ帝国の終焉

 ライン連盟諸国の神聖ローマ帝国からの脱退。
 オーストリアも神聖ローマ皇帝の帝位を返上。
 中世秩序の残存たる教皇=皇帝(国王)の関係が名実ともに消滅した。

4ティルジット講和以降

 ナポレオンの事実上の支配下に入ったドイツ諸国が、「農奴解放」「都市条例」など近代国家としての形式を整える。
 領邦国家レベルでの「改革」が進展する。

5諸国民戦争など対ナポレオン戦争

 プロイセンで「愛国運動」が起こり、ロシア遠征に失敗したナポレオンと戦う。
 オーストリアも反ナポレオン陣営につき、ナポレオン=フランスは相対的劣位に立たされる。
 形勢の逆転を見て、ライン連盟諸国も反ナポレオン陣営につく。

6ウィーン会議以降におけるドイツの工業化

 ウィーン会議により大規模戦争は休止の期間を迎える。
 その間、プロイセンでは工業化が進み、オーストリアとの間で経済的な優位が明確になる。

7ドイツの改革

 ナポレオン支配下から継続して改革が進む。
 フランス「二月革命」の影響で、ドイツでも「三月革命」が起こる。
 ナポレオン時代の課題が、この期に進展する。

8「大ドイツ」統一

 オーストリアはハンガリー・イタリア・ボヘミアを版図としており、多民族国家となっていた。
 各地で民族主義的蜂起が頻発する。

 オーストリアは工業面でプロイセンに立ち遅れる。
 オーストリアは関税面で折り合わず、ドイツ関税連盟に加入することは拒否する。

 民族主義の勃興と工業面の立ち遅れで、大ドイツ統一の試みは失敗する。

9「小ドイツ」統一

 北ドイツの勢力をのばしていたデンマークとの戦う。
 戦後処理を巡ってプロイセンとオーストリアが戦争する。
 オーストリアに加担した諸国を併合し、残りの諸国を参加に治める。
 この過程でビスマルクは、自由主義者からも支持を受けるようになる。

 南ドイツ諸国は北ドイツ連邦に参加しなかったものの、関税同盟を通じて北ドイツとの結びつきを強める。
 普仏戦争にはプロイセン側として参戦し、ドイツ連合軍としてフランスと戦う。
 これをきっかけに、南ドイツ諸国もドイツに加入し、「小ドイツ」の統一が達成される。

188 名前:やおよろず 投稿日: 2007/03/03(土) 19:42:21
>>185

>>地球レベルの国家権力を造って全世界人がその支配に服することという発想が地球規模の近代国家を作ろうとしているだけの発想にも思えます。

 ドイツの例は様々な要素を含んでいるとは思いますが、近代ドイツ成立の要因の一つは「反ナポレオン」では無いかなと思います。
 つまり、ナポレオンによって祖国を奪われた反動がプロイセンを反ナポレオンへと向かわせたのではないでしょうか?

 地球レベルでの国家権力の創造過程で、反対に民族意識が強まるおそれも十分に考えられます。


>>アフリカの部族社会に無理矢理当てはめられた近代国家

 これは、ドイツのパターンでは、オーストリアに近い形の国になっているものと思われます。
 これでは、国家に対する諸部族の反発が絶え間なく続くのではないかと思います。
 オーストリアの安定期は、宗教的支配によるものだったわけで。
 部族ごとに宗教のあり方の異なる連合国家は解体すべきと思います。
 
 理想形は、小国分割と、その枠組みを守るための国連軍の駐留です。
 
 また、この点、同じく人為的国境が引かれた中東諸国で超国家的に宗教勢力が「活躍」しているのは、とても興味深いことです。

>>国民の収奪機関に成り下がっているアフリカ諸国の"国民国家"

 国民の貧困の主因は人口爆発でしょう。
 人口抑制策に対する国の無作為、教育水準や生活水準を向上させるための援助物資の横領により、この主因に対応できていない。
 このような構造ではないかと思います。
 収奪の定義にもよりますが、民間企業の収奪の方がもっと過酷なのではないかと思います。

189 名前:名無しさん 投稿日: 2007/03/08(木) 00:35:50
朝日新聞 [社説]2007年03月06日(火曜日)付
「慰安婦」発言―いらぬ誤解を招くまい
http://www.asahi.com/paper/editorial20070306.html

 旧日本軍による慰安婦問題をめぐって、安倍首相の発言が内外に波紋を広げている。

 首相は先週、記者団の質問に答えてこう述べた。「当初、定義されていた強制性を裏付ける証拠はなかった。定義が変わったことを前提に考えなければならない」

 これが米国などで「安倍首相、戦時中の日本による性奴隷を否定」「安倍首相、性奴隷に証拠なし」などと報じられた。韓国の宋旻淳外交通商相が不快感を示したりもした。

 だが、この解釈は行き過ぎていたようだ。きのうの参院予算委員会で民主党議員に真意をただされ、首相は何度も「政府の立場は河野談話に書いてある通りだ」と繰り返した。

 この問題についての日本政府の公式見解は、93年に出された河野官房長官談話である。旧日本軍が慰安所の設置などに関与し、「総じて本人たちの意思に反して行われた」と認めた。慰安所での生活について「強制的な状況の下での痛ましいものであった」としている。

 首相は就任直後に、この談話を受け継ぐと表明した。そのスタンスは何ら変わらない。誤解はやめてほしい。そう言いたいのだろう。

 首相には「強制性」について、こだわりがあるようだ。それが首相の発言をわかりにくくしている。

 女性を集めた業者らが事実上強制をするような「広義の強制性」はあったが、当局が人さらいのように連行するといった「狭義の強制性」はなかった。きのう、首相はそう説明した。

 だが、いわゆる従軍慰安婦の募集や移送、管理などを通じて、全体として強制性を認めるべき実態があったことは明らかだろう。河野談話もそうした認識に立っている。細かな定義や区別にことさらこだわるのは、日本を代表する立場の首相として潔い態度とは言えない。

 首相の一言が大きな波紋を呼んだのは、首相自身がかつて河野談話を批判する議員グループの先頭に立ってきた過去があるからだ。

 このグループは、いまも河野談話の修正を求めようと議論を進めている。米国の下院に、慰安婦の問題をめぐって首相の公式謝罪を要求する決議案が出されたことに反発しているようだ。

 政府は河野談話に基づいてアジア女性基金を発足させ、元慰安婦への償いの事業に民間と協力して取り組んできた。自民党が連立する村山政権の時からだ。

 以後、橋本龍太郎氏から小泉純一郎氏まで4代の自民党首相が「おわびの手紙」に署名し、元慰安婦に送ってきた。戦争で蹂躙(じゅうりん)してしまったアジア諸国との和解のために、官民が連携して積み上げてきた努力なのだ。

 首相は政権として方針を決めた以上、要らぬ誤解を招く発言は避けるべきだ。日本の信用にかかわりかねない。米議会に対しては、こうした首相の手紙などの取り組みを説明すればいいことだ。

190 名前:名無しさん 投稿日: 2007/03/08(木) 00:36:06
3月7日付・読売社説(1)
 [慰安婦問題]「核心をそらして議論するな」
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20070306ig90.htm

 いわゆる従軍慰安婦問題の核心は、官憲による「強制連行」があったかどうかだ。

 米下院外交委員会で慰安婦問題に関する対日決議案が審議されている。日本の軍隊が若い女性を「強制的に性的奴隷化した」歴史的な責任を明確に認め、日本の首相は謝罪すべきだ、という内容だ。

 日本軍が組織的に「慰安婦狩り」をしたかのように決めつけている。だが、日本政府の調査でも、これを裏付ける文書はない。歴史家の間でもこうした事実はなかった、というのが「定説」だ。この決議案を提出した議員らは、これらを覆すだけの確かな資料があるのか。

 安倍首相は国会で、決議案は「客観的事実に基づいていない」と語った。麻生外相も、同様の見解を示して「甚だ遺憾だ」と述べた。曲解に満ちた決議案である以上、政府は事実を正確に説明して、採択を阻止しなければならない。

 首相は、慰安婦の募集について、「狭義の意味の強制性を裏付ける証言はない」と強調した。「官憲が家に押し入り、人さらいのごとく連れて行く、『慰安婦狩り』のような強制的なもの」、つまり、官憲による強制連行はなかったということを明確にした。

 その一方で首相は、民間業者による、本人の意に反した「広義の強制性」があったことを認めた。だが、こうしたケースと、軍による強制連行とは、まったく違うものだ。

 「強制性」を拡大解釈し、核心をそらして非をならす一部のマスコミや国会議員らは、今後も内外に誤った認識を広げるだけだ。

 それにしても、この問題は、なぜ、何度も蒸し返されるのか。

 その最大の理由は、1993年、当時の河野洋平官房長官が発表した談話にある。それには、慰安婦の募集に「官憲等が直接これに加担した」などと、日本軍が強制連行したかのような記述がある。だが、これが裏付けのないまま書かれたことは、元官房副長官らの証言ではっきりしている。

 自民党の有志議員らは、談話のあいまいな表現が、誤解を生む原因になっているとして見直しを検討中だ。米下院の決議案は、「談話の内容を薄めたり、撤回したりする」ものとして、こうした動きをけん制している。しかし、不正確な談話を見直すのは当然のことだろう。

 河野談話を発表した背景には、韓国側の圧力を前に「強制連行」さえ認めれば問題を決着できるとみた甘さがあった。政府は米下院決議をめぐり、再び、外交上の失策を繰り返してはならない。

(2007年3月7日2時0分 読売新聞)

191 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/03/19(月) 03:10:33
>>186-189
大学時代経済政策と云いながら独逸経済史が専門の先生のゼミについてまして,独逸統合過程には関心があり国民経済の統合の興味深い例として俺も注目してます。但し後進資本主義国の国民国家形成の典型的に扱われる独逸では有りますが,現代から見ればやはり市民階層の形成やハンザ同盟や中世やそれ以前からのヨーロッパ経済圏の蓄積を考えるとやはり先進国としての一例に過ぎないとも云えるのではないかと思います。

>>地球レベルでの国家権力の創造過程で、反対に民族意識が強まるおそれも十分に考えられます。
個人的にはいきなり強権的な国家権力の様なものを造れと主張している訳でも出来ると想定している訳でもありません。EU統合の様に必要に応じて様々な葛藤の中でコンセンサスを積み上げてゆく中で現代の近代国家システムがよりよいものにすべきであって固定的に枠組みを考えてしまう事はないと思います。

>これは、ドイツのパターンでは、オーストリアに近い形の国になっているものと思われます。
旧オーストリア帝国の跡地は民俗と国家の版図が一致せず少数民族が発生してますがヨーロッパのような近代的市民階級がちゃんと蓄積している所は未だマシでありまして,アフリカの部族社会は近代国家の担い手たる市民階層が出来ていないのに形式的に近代国家を作ってしまった点に悲劇があるのであると思います。

>理想形は、小国分割と、その枠組みを守るための国連軍の駐留です。
いいですね。アフリカ諸国が自決を考えるならアフリカ連合が主導すれば良いんでしょうけど「近代国家」の利害を超越的に振る舞える組織では現段階では無さそうです。。

>国民の貧困の主因は人口爆発でしょう。
近代化の先駆として人口爆発が起きることもあり必ずしも人口爆発が貧困の原因であるというのは専門家のコンセンサスにはなってない面もあるようです。

>収奪の定義にもよりますが、民間企業の収奪の方がもっと過酷なのではないかと思います。
紛争地域は国家による収奪が主でしょうし,平和な国家では欧米の多国籍企業と現地の国家が結託して収奪している事も多いでしょうからどちらが過酷かは一概には決められない気もします。

亀レス失敬でした。

192 名前:やおよろず 投稿日: 2007/03/19(月) 05:02:42
>>いきなり強権的な国家権力の様なものを造れと主張している訳でも出来ると想定している訳でもありません。
 EU統合の様に必要に応じて様々な葛藤の中でコンセンサスを積み上げてゆく中で現代の近代国家システムがよりよいものにすべきであって固定的に枠組みを考えてしまう事はないと思います。

 々餡箸らの包括的権限委譲の是非、個別具体的権限委譲の是非という2つの論点があるのだと思います。
 この2つの論点から導かれるかたちで、この問題に関して、4つの立場が存在すると思います。

 一つは、包括的賛成・個別反対派。
 これは、個別委譲に関して否定的というよりは、個別委譲を越えて早期に包括的委譲を完成させようとするグループです。
 いわゆる左派・地球市民派が該当することになると思います。

 次いで、包括的賛成、個別賛成派。
 これは、包括的権限委譲を目標としながらも、現実的に個別具体的な権限委譲を推進するグループ。

 3つ目は、包括的反対、個別賛成派。
 これは、包括的権限委譲には断固反対であるが、個別案件について特例的に超国家機関を認めるというもの。

 4つ目は、包括的反対、個別賛成派。
 これは、国際的機関の存在を認めず、国家単位での統治を絶対視するもの。 

 とは氏は、2番目の包括的賛成・個別賛成派に分類されると思います。
 その上で、3番目の立場から、諸論点の中で特に、「民主」の観点から反論させてもらいます。

 諸制度を通じた支配機構の管理が、民主主義にとって肝要であると思います。
 その点、権限委譲は、管理対象たる機構を拡大させます。
 一般に、管理対象の拡大は、国民の管理可能性の低下を招きます。
 つまり、管理対象の拡大により、仮に規模的効用がもたらされるとしても、それは管理可能性の低下とのトレードオフにあるわけです。
 包括的権限委譲の完成時には、管理不能部分を多分に含む巨大な統治機構が生成されているわけです。
 管理可能性を考えれば、機構の規模は合理的に小さいものであるべきです。
 よって、超国家的機関の権限は特例的なものにとどめ、基本的には国家単位を脱することがないようにすべきであります。
 その点、国内においては、国家的巨大プロジェクトのような特例を除き、分権化細分化がのぞましいという結論になるわけです。
 「民主」の実現可能性は、管理可能性であり、その規模の拡大は、民主主義の危機であることもあります。

193 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/03/19(月) 21:06:26
>>192
非常にクリアに論点を整理いただき勉強になります。ちなみに4つめは包括的反対、個別反対派ですね?

理想として目指せば面白いとは思うんですけど現実として他星人or火星や月へ移住した人類代表との交流の必要性でもない限り地球政府として纏まる必要性はないのかもしれません。。

また近代国家という権力形態を大前提にしている現状を批判しているので次世代の超国家機関がなにか近代版国家の拡大版みたいなものがリバイアサン的に君臨するものであってはならないでしょう。

ヨーロッパの試みを心情支援しつつ,途上国の収奪型の国家に対しては厳しい目を注ぎたいと思うのが自分の基本的姿勢です。俺だって民主制を侵害するようなものが出来れば反対ですし,理想的な何らかの組織が現在の国家システムを越えてできるのが無理だと諦めてるのではなくそれへの(そんなものがあるかどうかの模索を含めた)努力に期待をしつつあるといったスタンスです。
国家が国民の保護者として信頼を置いておくのか場合によっては戦争の実行者として懐疑的な目を向けるのかあたりがスタンスの分岐点になるのでしょうかね。

194 名前:やおよろず 投稿日: 2007/03/20(火) 07:35:50
>>193

>>国家が国民の保護者として信頼を置いておくのか場合によっては戦争の実行者として懐疑的な目を向けるのかあたりがスタンスの分岐点になるのでしょうかね。

 これは、2律背反する問題ではないと思います。
 性善説に基づく信頼を置いているのは能天気な話で、常に誠実性を失う誘引があるものに対しては、監査・監督体制を築くべきでしょう。
 その上で、国家のもたらす効用を享受できるわけです。
 国家性善説的な態度では効用を享受できないし、かといって国家を否定しても国家による効用は享受できないわけです。
 
 国家による暴力の独占がもたらす効用には、‖亞暗なもの対内的なものが存在します。

 ‖亞暗効用とは、当然、他国との間の戦争において発揮されるものです。
 暴力が国家に独占されている分、一般に、諸邦が個別に戦うよりも、戦争遂行に係る効率性が高いものとなります。
 対内的効用とは、国内における内戦状態の回避です。
 国家が暴力を独占していれば、刑事事件的暴力行為は別ですが、いわゆる内戦が起こりえません。
 よって、国家は‖捷颪らの圧力を排し内戦状態を回避する権能を持っているといえます。
 この能力が効率的に発揮されるか否かについて、国民の管理可能性が必要とされるのだと考えられます。

 この国家の暴力は、当然に、国民の諸権利への重大な危険でもあります。
 これが、国家の暴力の負効用に当たるものであろうと思います。
 それでは、本来、‖捷颪琉砧呂鯒咾掘↓国内の内戦状態の回避をもって、国民の諸権利の実効性を確保する機能が果たされなくなってしまいます。
 そこで、この暴力装置の管理可能性が、誠実に発揮されるか否かという点で、問題になるのではなかろうかと思います。

 つまり、暴力の独占の仝率性∪深太について、国民は管理が必要ということになります。

 超国家的に、暴力が一元化されたとします。
 すると、規模的に効率性が上昇し、効用をもたらす能力は上昇します。
 世界的に一元化されることにより、対外的な力の発揮は必要なくなり、対内的な内戦状態の解消が世界的に広がるわけで、戦争そのものが回避されるように思えます。
 ここで、問題になるのが、誠実性に対する管理可能性です。

 この巨大となった暴力装置の管理可能性が、規模に応じて低下していくことが予想されます。
 管理可能性が喪失することにより、この一元的暴力機構は、諸国民に対して大きな、不幸ようをもたらすことになります。
 よって、結果として、史上最強のリバイアサンが誕生することになります。

 暴力の独占だけに限りません。
 例えば、欧州中銀に関して、その総効用に関しては、悲観的に考えています。
 フランスでは閣僚レベルからも、欧州中銀への批判が出てくるようになりました。
 通貨発行権の超国家的独占に対しても、諸国民の管理可能性を失ったまま、国家に対するリバイアサンとなって現れる可能性は条文に考えられます。

195 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2007/03/21(水) 12:08:13
>>192>>194
おっしゃる趣旨には、重点の置き方で差異があるにしても、おおむね納得します。
現実的には、やおよろずさんが書いた中で、2〜3の間でのせめぎあいだと思われます。

私は確たる信念を持っていませんので仮の立場から論じますが、
国家の枠組みが十分維持されている状態ならば、なんらかの権限委譲をすることが必ずしもマイナスにならない場合もあるんじゃないかと思っています(国際的自由貿易が発展してるもとでどうしても自立・自律できない人たちを支援するなど)。

富んでいる国や自由主義・民主主義が整備されている国民にとってはそういうのなくてもよいかもしれないですけど。
EU統合とは別の話になっちゃいますね・・・。


で、繰り返しになっちゃうかもしれませんが、やおよろずさんのお書きになったことからすると、小泉政権が地球市民的だというのがやはりよくわからないところもありますが。

196 名前:やおよろず 投稿日: 2007/03/21(水) 12:22:39
>>195

 英米金融資本が上部、日本産業資本が下部という国際経済構造を完成させたことにあります。
 小泉政権だけで構築されたものではありませんが、完成させたのは小泉政権です。

 資本構造が国家の枠から大きく踏み出し、制御不能なものにしたことで、「地球市民的」としました。
 資本に日本国籍をなくしたわけですから。

 株式持合の解消と銀行債権のバーゲンパーチェスが、この構築の柱です。

197 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2007/03/24(土) 09:53:22
「死に至らせないテロ」は生命の危険狙いより何かのメッセージであることが多いが、だからといって、テロが許されるわけがない。
知事選告示、岩見氏が抑えた筆致でこのことを書いているのが目を引く。「民主主義のしもべ」たる政治家がテロ支持のような言辞を弄するなど、絶対に許してはいけないと私も思う。政治家以前に人間としてどうか?

近聞遠見:三木生誕百年と「あの事件」=岩見隆夫
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/iwami/kinbun/news/20070324ddm003070134000c.html

198 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2007/03/25(日) 09:24:25
中曽根元首相vs外国人記者クラブ。慰安婦問題で集中砲火。

慰安婦問題でトバッチリ喰らった中曽根元首相
http://www.janjan.jp/government/0703/0703232269/1.php

199 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2007/03/31(土) 09:06:30
検定後教科書によれば、「集団自決に追い込まれた」という修正になっているが、それでは「追い込んだ」のは日本軍か米軍か、それとも「空気」のようなものか。
空気だとすれば、空気を作ったのは誰か。サイパンの住民自決とどう違うのか。
と、やはり論争の的になるのを断定的に書くのは「いかがなものか」。
日中、日韓の歴史論争以前に、国内でも、ここらへんの歴史はあまり研究が進んでいないのではないか?

日本史「沖縄戦集団自決」、「軍の強要」に検定意見
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070330i113.htm

 文部科学省は30日、来春から使用される高校中学年向け教科書の検定結果を公表した。
 日本史では、沖縄戦の集団自決に関する記述について、今回の検定から、日本軍の強制があったとする表現すべてに検定意見が付けられた。
 一方、数学や英語などの主要科目では、大学入試を見据えた教科書から、学力低下に対応するため小学校の内容を盛り込む教科書まで、二極化が鮮明となった。
 今回の検定には、工業など専門高校の教科を除く普通教科7教科207点の申請があった。「生物2」の2点が「誤りや不正確な記述が多い」として不合格となったほかは、最終的に205点が合格した。
 日本史で沖縄戦に言及したのは、日本史Aと日本史Bの教科書計10点のうち8点。文科省はこのうち7点について、日本軍が住民の集団自決を強要あるいは命令したという内容の記述に、「沖縄戦の実態について誤解する恐れがある」との意見を付け、修正を求めた。修正後の記述は「追いつめられて集団自決した」などとなり、集団自決に軍が直接関与したとする表現は教科書からすべて消えた。
 文科省は最近の学説などを根拠に、「日本軍による集団自決の強要や命令があったかどうかは明らかでない」としている。これに対し、沖縄県民からは「集団自決を軍と切り離して考えることは出来ない」などの反発が出ている。
 沖縄県教委は「『集団自決』を含む沖縄戦の実相については様々な指摘がある。今回の検定内容については把握していないので、コメントを差し控える」としている。

200 名前:やおよろず 投稿日: 2007/04/01(日) 23:53:42
>>199

 集団自決の「自発性」の有無が論点ですね。

 集団自決の動機が問題になるものと思われます。

 しかも、集団自決事件は1つではないので、複数の事象を各々検討することが必要かと思います。

 この辺の研究は、イデオロギー対立や中国の情宣活動が混入しやすい部分なので、どこまで客観的に研究がなされるのかは疑問ですね。

201 名前:やおよろず 投稿日: 2007/04/20(金) 06:31:08
自民党の歴史教育議連、訪米中止

http://www.sankei.co.jp/seiji/seikyoku/070419/skk070419006.htm

 自民党の有志議員でつくる「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(会長・中山成彬元文部科学相)は19日、慰安婦問題をめぐる米下院での対日非難決議の採択阻止に向け今月下旬から予定していた有志議員の派遣を、中止することを決めた。

 議会関係者への働きかけが採択阻止に逆効果になることが懸念されるうえ、シーファー駐日米大使が18日、決議が採択された場合でも「日米関係に大きな影響はない」と述べたことを考慮した。

202 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2007/05/03(木) 00:30:01
5月1日・2日と、日経が富田日記の検証特集をしていましたが読み応えがあってよかった。
昨年の8月ごろに小泉にぶち当てる形で一面の見出しをつけたのには疑問を感じたが、それ以外はよい仕事に思える。

昭和天皇って明治天皇を範としようとして苦しんだ人だ。就任後いくつかの政治への強い関与があり、立ち位置に苦労しているうちに世界的戦争に入っていったという感じだ。(日記とは直接関係ないが)
日記と関係あるとこで言うと、野望が強い高松宮との関係が面白い。

203 名前:やおよろず 投稿日: 2007/05/03(木) 00:49:28

 皆が尊皇攘夷になった、昭和初期は
 西郷にしろ、山県にしろ、明治天皇への尊崇の念は皆無だったのに比べて

 東郷や乃木は忠臣だったので、庶民からの人気も高かった

204 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2007/05/03(木) 01:35:18
明治帝ってのは庶民のあいだでも人気が高かったということなんでしょうかね。まぁそれはなんとなくわかる。

205 名前:やおよろず 投稿日: 2007/05/03(木) 01:37:58

 白河天皇は、京都市中の庶民から人気があったそうですがね。
 呪術や祭祀などが、受けたようです。

 近現代とは無関係

 今上天皇も難しい立場の中、国民からの支持は非常に高いと思います。

206 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2007/05/03(木) 01:45:24
今上は昭和天皇みたいに不勉強な進講者に厳しい質問をしたりしないだろうなぁー。
ちょっと無機質で面白みがない気もするが、まぁそんなもんか。

207 名前:やおよろず 投稿日: 2007/05/03(木) 01:52:50
            __,,,,_
            /´      ̄`ヽ,
            / 〃  _,ァ---‐一ヘヽ
         i  /´       リ}
          |   〉.   -‐   '''ー {!
          |   |   ‐ー  くー |
           ヤヽリ ´゚  ,r "_,,>、 ゚'}
         ヽ_」     ト‐=‐ァ' !
          ゝ i、   ` `二´' 丿
              r|、` '' ー--‐f´
         _/ | \    /|\_
       / ̄/  | /`又´\|  |  ̄\
皇太子殿下がこのスレッドに関心を持たれたようです。

208 名前:やおよろず@女系容認派 投稿日: 2007/05/03(木) 01:57:32

 今上陛下は、そこら辺の節度があって、名君だと思いますよ。

 皇太子殿下にしろ、日本に皇室があってよかったなあと思います。

 担いでいる人間への支持はともあれ、国民からの支持を考えれば、皇室は安泰でしょう。

 難しい局面を乗り切ったのは、人柄によるもんでしょう。

209 名前:片言丸 ◆MACDJ2.EXE 投稿日: 2007/05/03(木) 02:50:00
皇室に生まれたからといって必ずよい人柄が出てくるとも限らないと思いますよ。
まぁ、目下のところの敵はそういうことよりも血筋の継承なので、それはそれでなかなか大変ですが。

天皇の意義については富田日記の中に名文がありました。陛下にとって私は武蔵野の雑木林、というくだり(長いので割愛)。
無私の努力をされるということは尊いことで、なにはともあれそこに思いをいたすのがよいのではないかなと思いました。

210 名前:やおよろず 投稿日: 2007/05/03(木) 04:04:42

 人格形成には、環境が圧倒的に大事でしょう。

 戦後の旧皇族が置かれた環境を見れば、こういう人たちを皇室に復帰させてはならないだろうなと思います。

211 名前:とは@憲法記念日ですねぇ 投稿日: 2007/05/03(木) 16:19:30
東京皇居付近はちょいと警戒体制でした。桜田門付近では社民党の街宣車もみた。まぁ基本的に街は平和でしたが。
平等と云う基本的人権と本質的に矛盾する皇室の存在に莫大なカネを投じて維持する事のメリットが果たしてあるのかねと思わなくもないですが、まぁメリットの方が多いのでしょうな。
戦後の(最近の?)皇室は当たり障りなさすぎて詰まらない気もしますが、要らぬ非難を避ける為には賢明に動いて来たのかもしれません。昭和天皇が皇室最後の政治家だった様な気がしなくもないですからウオッチするのは先代の方が興味深ったのかも。

212 名前:やおよろず 投稿日: 2007/05/03(木) 16:46:08

>>平等と云う基本的人権と本質的に矛盾する皇室の存在

 むしろ、皇族の自由権の問題であろうかとも思います。

>>莫大なカネを投じて維持する事のメリットが果たしてあるのかねと思わなくもないですが

 とは氏の他の事象に対する言説から、この結論に達するのは、論理一貫性が感じられます。

>>まぁメリットの方が多いのでしょうな。

 この辺は、温和な性格をものがったっている部分。

>>戦後の(最近の?)皇室は当たり障りなさすぎて詰まらない

 取り巻きは、煩いままです。
 ワイドショーも煩いです。

>>要らぬ非難を避ける為には賢明に動いて来たのかもしれません。

 そうでしょうな。
 皇室廃絶を狙う共産党・社民党は、あれですが、国士の皆さんも後継問題で大騒ぎ。
 皇太子一家批判など、まさに、国賊。
 
>>昭和天皇が皇室最後の政治家だった様な気がしなくもないですからウオッチするのは先代の方が興味深ったのかも。

 大正天皇の摂政から、天皇=神というトンデモ期を経て、占領期・左傾期を巧みに生き抜いてきた印象があります。
 存在感から、研究の対象にもなるし、また、畏敬の念を持つ人間が多いのも頷けます。

213 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/06/23(土) 18:34:22
こうやって政権側に都合の悪い歴史は消されて行くんだな。

沖縄:教科書検定問題で記述の復活はしない考え…安倍首相
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20070623k0000e040086000c.html

 安倍晋三首相は23日午後、沖縄県糸満市の平和祈念公園で行われた沖縄全戦没者追悼式に出席後、記者団の質問に答え、文科省の教科書検定意見で、集団自決を巡る日本軍の強制性の記述が削除された問題について「教科書検定調査審議会が学術的観点から検討している」と述べ、記述の復活はしない考えを示した。ただ、首相自らが軍の関与をどう認識しているかについては言及を避けた。【三森輝久】

毎日新聞 2007年6月23日 15時31分 (最終更新時間 6月23日 16時19分)

沖縄:教科書検定、国と溝 「自決強制」目撃の女性に怒り
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20070623k0000e040055000c.html

 「日本軍がいなければ自決なんかしませんよ」。平和の礎(いしじ)に刻まれた親せきの名を前に、沖縄県南風原(はえばる)町の仲程(なかほど)シゲさん(77)は悔しさをにじませた。その額には62年前、沖縄戦で受けた艦砲射撃の砲弾の破片とともに、集団自決や日本兵による住民虐殺のいまわしい記憶が刻まれている。

 当時、本島南部の大里村(現南城市)に住んでいた仲程さんは、戦火が迫った5月28日、母カマさん(49)と13歳、10歳の弟、そしておじ、おばら計13人で南へと避難を始めた。6月19日、隠れていた糸満市真栄里のガマ(壕(ごう))に米軍の戦車が迫った。

 沖縄守備軍が現地で召集した防衛隊から逃げてきたおじが言った。「アメリカーにやられるより、自分で死んだ方がまし」。手投げ弾を持っていた。それを見たカマさんがおじの手に取りすがった。

 「いくら何でも生きている子供たちをなぜ殺せるか。まず待ちなさい」。子を持つ母親の訴えにおじは思いとどまった。

 夜、再び南へ。火炎放射器で焼き払われていた米須(こめす)集落で、激しい艦砲射撃に襲われた。おばがうめいて倒れたが、暗闇でどこをけがしたのかわからない。カマさんが「姉さん、恨まないでね」と額に手を当てると、息を引き取った。足の肉をえぐりとられて倒れたおじは「戦争が終わったら遺骨を取りにきてくれ」と言った。残していくしかなかった。

 翌日、隠れていた摩文仁の山中で砲弾がさく裂。仲程さんの額に破片がめり込んだ。さらに次の日、一人の沖縄の青年が、隠れている住民に呼びかけた。「アメリカの捕虜になったほうがいい。みんなで出て行こう」

 すると2人の日本兵が走り寄り「こんなバカがいるから沖縄は負けるんだ」と言い放つや、日本刀で青年の首を切った。

 怖くなって下りた摩文仁の断崖(だんがい)。海には赤ん坊の死体が浮き、岸辺には破傷風で苦しむ人たちが大勢いた。1週間近く、水だけでしのいだ。

 仲程さんが捕虜になったのは26日。別の日本兵が「日本は負けた。民間人は出て行ったほうがいい」と言ってくれた。当時、「米軍に捕まると、女は強姦(ごうかん)され、男は戦車でひき殺される」と言われていた。「この日本兵は命の恩人です」。だがおじ、おばらたくさんの親族を亡くした。

 仲程さんは、文科省の教科書検定に声を震わせて怒る。「軍さえいなければこんなことにはならなかった。人の命を大切にするのが教育なのに、あったことをなかったことにするとは何事ですか。生かされた私は亡くなった人の嘆き、苦しみ、悲しみを伝えなければならない」

 改憲を急ぐ安倍首相にも厳しい視線を向ける。「憲法9条は絶対守らなければだめ。首相は沖縄戦も空襲も知らないのに何を言うか。爆弾が家に落ちれば分かる。戦の末に生まれた基地がある限り、沖縄の戦後は終わらないですよ」【三森輝久】

毎日新聞 2007年6月23日 12時52分 (最終更新時間 6月23日 13時26分)

214 名前:やおよろず 投稿日: 2007/07/01(日) 05:10:43
原爆自業自得論は、左派の主流の論調だと思うんだけどね

http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/feature/news/20070701k0000m010128000c.html

 一方で、79〜95年に長崎市長を務めた本島さんは「今の時期になぜ、こういう発言をしたのか分からない」と疑問を呈したうえで、
「被爆地では今も被害だけを強調する傾向がある。原因があるから結果がある。
 日本が戦争を始めなければ原爆投下はなかった」と話す。
 本島さんは日本の加害を問い続け、市長落選後は「原爆投下は仕方なかった」と繰り返してきた。

215 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/07/01(日) 10:57:47
>>214
ハト派と重なる日本の左派の多くは原爆許せないだと思うんですけど。
特にソ連の核が平和の核だとしてもアメリカの核は駄目な核なんじゃないっすか?

原爆は非戦闘員の市民をも無差別に殺戮するどれかしりませんが国際法違反する行為だと思うんですけど,一方で日本の終戦への決断を早めたことはありましょう。
けど日本はずっと中立条約を結んでいたソ連の斡旋での終戦を望んでいて駄目だと諦めたのは急遽ソ連が有効期限内の条約を破って満州に攻め込んだ事の方が大きいでしょうから,この原爆しょうがない理論を使えば,関東軍や満蒙開拓団の悲劇は日本の終戦を早める為に仕方がなかったとなりますな。
どちられも真理は含まれているのでそれを歴史学上否定してしまうのは難しいでしょうが政治的には被害者感情を考えると愚かしい発言となりましょう。

216 名前:やおよろず 投稿日: 2007/07/01(日) 12:06:00
「あやまちはくりかえしません」の自業自得論は大きいと思いますよ
心情左翼の方はどうか知りませんが、
団体でやってるところで、これを掲げるところは多いです。

217 名前:小説吉田学校読者(解熱剤投入) 投稿日: 2007/07/01(日) 12:27:24
>>216
この「繰り返しません」の主語が誰なのかというところで、争いがありますね。そこらへんが日本的曖昧さなのかもしれない。

岡本三夫氏の指摘のような考えが久間の頭にあったとなると、相当したたかなのかもしれませんが・・・ないでしょうね。

広島の被爆者らに怒り、ため息 久間発言
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200707010099.html

 久間章生防衛相が原爆投下を「しょうがない」と発言した三十日、被爆地広島では被爆者を中心に「核戦争を肯定するのか」「被爆の苦しみを理解していない」など怒りの声が渦巻いた。
 「かつて米国でぶつけられたのと同じ言葉を被爆国日本の大臣から聞くなんて理解できないし、本当に悲しい」。一九六二年以来、米国に被爆体験を伝える旅を繰り返している松原美代子さん(74)=広島市南区=は「二度と繰り返してはならない、と分かってもらうために語り続けてきたのに…」と声を震わせた。
 広島県被団協の坪井直理事長(82)は「原爆で何十万人も殺されたのに、人の命を何と考えているのか。核戦争を肯定しているとしか考えられず、まったく許し難い」。もう一つの県被団協金子一士理事長(81)も「米国の言い分そのままで、許せない暴言。いまも後障害に苦しむ被爆者の思いをまったく理解していない。核兵器を持ちたい本音があるのではないか」と怒りをあらわにした。
 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会の森滝春子共同代表(68)は「核武装も仕方がないとの世論を誘導しようという政権の意図があるのではないか」と警戒。従軍慰安婦問題をめぐり米下院外交委員会が日本政府に謝罪を求める決議をしたのに絡め、広島修道大の岡本三夫名誉教授(74)は「私たちも恨んでいない、と米国に伝える駆け引きにも思える」と指摘する。
 秋葉忠利広島市長は「被爆者の気持ちを踏みにじる暴言であり、強い憤りを覚える」、広島平和文化センターのスティーブン・リーパー理事長は「被爆地の訴えに真摯に耳を傾けるよう求める」と、それぞれ発言の撤回を求めるコメントを出した。

218 名前:小説吉田学校読者(解熱剤投入) 投稿日: 2007/07/01(日) 12:36:29
昭和天皇は「遺憾なことではあるが、戦争中のことでもあったので、やむを得なかった」発言を、昭和の広島、長崎はどう反応したのでしょうか?
久間がこの昭和天皇の言葉を引用して釈明したら、またぞろ天皇の政治利用という「失言スパイラル」に陥る可能性はありますので、そこらへんも注視していきたい。

久間氏原爆容認発言 被爆地に怒りと失望
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20070701/01.shtml

 「被爆者の尊厳を傷つける行為」。本県選出国会議員、とりわけ現職閣僚の久間章生防衛相から飛び出した“原爆容認論”。被爆地長崎からは、原爆投下を「しょうがない」と発言した久間防衛相に怒りと失望の声が上がり、被爆者、平和運動団体は防衛相あての抗議文を送付。週明けから抗議活動を本格化させる。
 若い世代への継承を平和行政の柱に掲げる長崎市の田上市長。三十日夕、市内での「高校生平和大使十周年記念の会」に出席した際、報道陣に囲まれ、「何らかの理由があれば核兵器を使用できるということにつながり、被爆地としては到底容認できない」と語気を強めた。
 被爆者や平和運動の関係者からは、防衛相としての資質や歴史認識を疑問視する声が続出。元長崎大学長の土山秀夫氏は「不見識極まりなく、論外」と非難。イラク戦争をめぐる久間防衛相の対米批判発言を挙げ、「日本は毎年、国連に核軍縮決議案を出し核廃絶を訴えてきたが、その足元からの発言。今度は米国へのポイント稼ぎか」と皮肉を込めた。
 長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の山田拓民事務局長は「原爆投下は日本を負かすためではなく、戦後(の核軍拡競争)をにらみ旧ソ連との関係を有利に導くためだった」と久間発言の“歴史観”を否定。「国際司法裁判所は『核兵器は使ってはならない兵器』と勧告的意見を出しており、『しょうがない』との肯定は許されない。大臣を罷免しないなら、政府・与党が同じ視点だと内外に示すことになる」と政府の対応を迫った。
 原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の川野浩一副議長は「毎年、平和祈念式典にも出席していたのに何を聞いていたのか。情けない。防衛相は、原爆投下は誤りだったと米国に抗議する立場。怒りを通り越して悲しみが込み上げた」。長崎原爆青年乙女の会の広瀬方人会長は「日本の核武装への懸念を周辺国に抱かせるのではないか」と危機感を示した。
 県被爆者手帳友の会の井原東洋一会長は「被爆者の気持ちを逆なでした」と、被爆者五団体で政府、久間防衛相への抗議を計画。平和労働団体も週明けから、抗議行動を本格化させる。

219 名前:やおよろず 投稿日: 2007/07/01(日) 12:38:53
「君が代」の「君」と同じくらい明白だと思いますが>>「繰り返しません」の主語が誰なのか
 批判を恐れた左派が、無理やり作った論争だと思いますね。

>>>>>>>>広島平和文化センターのスティーブン・リーパー理事長
 しかし、なんだか、インチキ臭いですなー

今回の発言が、「戦勝国の言い分を全て受け入れなければならない」
 という考えに疑義をもたらす切っ掛けになってくれればいいなと思いますけど、そうはならんでしょうね。

220 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/07/01(日) 12:54:41
>>216
心情左翼のワタシとしてはアメリカもソ連も日本も英仏も侵略戦争やったので皆同等に悪いと思ってますよ。反省して自虐史観に染まって欲しいと思います。植民地収奪で迷惑を掛けたのは事実だし。
ただODA等でめちゃめちゃ戦後賠償は(日本を含めた)各国はしてるとは思いますけど。カネ散々恵んでもらっといてその言い草は何だという気持ちも良く判るけど近隣諸国を占拠するとその後の近親憎悪は兎角大変ですな。イギリスもエール(アイルランド)統治を後悔しているかも知れない。
更にサヨクとして6流の煽りを続けますと靖国に祀られている連中はただの犬死にした惨めな連中で,日本の英霊は日本の産業発展を支える過程で搾取され貧困の中で死んでいった労働者同志こそである!しかも前者が手厚く恩給貰ってるのに後者は歴史に埋もれ朽ち果てているのだ。。

>>217
従軍慰安婦決議問題でぎくしゃくする対米(議会)お追従って戦略ってことすかね?
選挙前に広島・長崎・沖縄なんかで自民の票を減らそうとは有り難い話しでw。

221 名前:名無しさん 投稿日: 2007/07/01(日) 15:49:59
石見銀山 世界遺産登録の舞台裏 欧州主導、アジア不利 カルチャー Sankei WEB
http://www.sankei.co.jp/culture/bunka/070701/bnk070701006.htm

紆余(うよ)曲折の末、世界文化遺産に登録された石見銀山遺跡(島根県大田市)。一連の経緯を今後の教訓にしようとする動きが広まっている。事前調査を行う専門家機関から「登録延期」という“落第点”をつけられ、日本政府の巻き返し工作でかろうじて登録にこぎつけた今回の“大逆転劇”。年々厳しくなる登録審査に、文化庁や他の候補地は戦略の見直しを始めている。

審査員へ説得工作奏功

 「えっ、本当?」

 ニュージーランドで開かれている国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会から、石見銀山遺跡の登録決定の一報が文化庁に入ったのは28日午後0時26分。幹部職員らは一瞬、きょとんとした表情をみせたが、すぐに拍手と歓声が庁内に響いた。

 文化庁も驚かせる“意外な結果”だった。各国の専門家で構成するユネスコの諮問機関・国際記念物遺跡会議(イコモス)が、同遺跡について「登録延期」の勧告をしたのはわずか1カ月半前。勧告には「登録」「追加情報の提供」「登録延期」「不登録」の4段階があるが、下から2番目という低い評価に、「今回は無理かもしれない」と悲観的ムードが広がっていた。

 なぜ、逆転登録となったのか。

 文化庁の岩本健吾記念物課長は「地元の長年の努力と政府の巻き返し工作が土壇場で実った」と胸を張る。

 イコモス勧告を受け、文化庁は英文110ページの反論書を作成。ユネスコの近藤誠一大使をはじめ政府関係者も、世界遺産の審査委員を務める全20カ国の大使らに直接面会して説得に努めた。「土壇場でこれほど熱心な説得工作を行ったのは日本が初めてではないか」と関係者は振り返る。

 28日の世界遺産委員会。文化庁によると、石見銀山遺跡の審査では冒頭にイコモス勧告が説明された後、5、6カ国の代表から発言を求める挙手があった。

 「(石見銀山は)周囲の自然を破壊せず、共生している」「環境にも配慮している」−。

 否定的な意見は聞かれず、イコモス勧告は覆された。

アジアのハンデ

 今回の騒動を受け、他の国内候補地でもPR活動などの練り直しを進める動きが出ている。登録審査が年々厳しくなっている現状が、改めて浮き彫りになったからだ。

 今年は審査を受けた35件中22件が登録。採択率は62%で、3年前の82%から20ポイントもダウンした。

 来年審査を受ける「平泉の文化遺産」(岩手県平泉町)では、景観に配慮した町づくりなど「保存管理アクションプラン」の策定作業を急ピッチで進める。「彦根城」(滋賀県彦根市)では従来の戦略を大幅に見直し、登録の申請内容を単独の「城」から、周辺の城下町を含めた「城郭都市」に変更することを決めた。

 最大の関門はイコモスをどうやって説得するかだ。岩本課長は「アジア的な遺産はイコモスに過小評価されるおそれがある」と懸念を示す。

 日本イコモス国内委員会関係者によれば「イコモスは世界遺産が始まる前から欧州で発足していたNGOで、欧州の主導権が強い現状がある」といい、今後は各候補地の魅力を訴えるだけでなく、アジア全体の遺産価値をアピールする取り組みが必要になりそうだ。

 だが、やはり最大のアピールポイントは遺跡の魅力だ。平成15年にイコモス副会長を務めた西村幸夫東大教授は「最近は世界的知名度が足りない遺跡を申請しようとする自治体が増えている」と、観光振興を狙った安易な風潮を戒めている。

(2007/07/01 13:03)

222 名前:小説吉田学校読者(解熱剤投入) 投稿日: 2007/07/01(日) 18:21:20
>>219
私、少年期にそれを「人類は」というように習ったのだが、大学へ行って初めて自業自得論というか「戦争を始めなければ原爆投下はなかった。主語は『私たち日本人』である」説を講義で初めて聞いて、なるほどそういう説もあるのかと素直に日本語の曖昧さに感心した記憶があります。それも日本語学のところで。小生、なにぶん、文学部卒。
「くりかえしません」より原爆への怒りがストレートなのが峠三吉の詩集です。峠三吉に原民喜、、、読まれなくなったね。
この日記、写真見る限り、読まれることを前提としていないので、たぶん、楽しい日記帳なんだと思う。

原爆詩人、峠三吉の愛妻日誌を初めて公開
http://www.asahi.com/culture/update/0701/OSK200707010001.html

 「にんげんをかえせ」の一節で知られる広島の原爆詩人、峠三吉(1917〜53)が、妻との出来事を記した日記が30日、広島市の平和記念資料館で初公開された。肺結核で療養中の峠を見舞う妻の服装や会話などが記され、自筆の挿絵もあった。原爆詩人の「愛妻日記」といえる内容で、峠の素顔の一端がうかがえる。
 「広島に文学館を!市民の会」が約20年前に遺族から寄託を受けて保管していた。市販のスケッチブックに記された17ページ。日付は51年1月7日から同4月11日までで、峠が国立広島療養所(広島県東広島市)に入所していた時期にあたる。
 峠は47年、3歳年上の和子さん(故人)と結婚。日記は「私はお前のために美しい園丁(庭師)となろう」と書き出され、「和子は思いがけなくやってくる。新しく作った藤色の和服のコートを着ている」などと記載。2人がかんだチューインガムや、夫婦で見た映画のチラシ、お菓子の包み紙、市内電車の切符などもコラージュ風に張り付けられていた。和子さんが口紅で書いたとみられる「三吉さん」という文字もあった。
 峠と親交があった詩人の御庄博実さん(82)は「こんな日記を書いていたとは知らなかった。原爆への怒りを織り込んだ詩集の力強さは、優しさと命へのいとおしみの裏返しだったことがよくわかる」と話していた。

223 名前:やおよろず 投稿日: 2007/07/01(日) 18:37:57
左翼団体の解釈は、どこも、こんなもんですよ

ここには侵略戦争を行なった反省など欠片もない。
ヒロシマに掲げられた「二度とあやまちはくりかえしませんから」とする、
血を吐くようなメッセージに込められた思いを踏みにじってはならない。

http://www.doro-chiba.org/nikkan_dc/n2005_07_12/n6147.htm
動労千葉

224 名前:小説吉田学校読者(やっと36度台復帰) 投稿日: 2007/07/01(日) 18:45:13
コメントの「リベラルな父」の部分に政治家一家の真髄をみた。

宮沢喜一元首相の通夜に各界から1000人
http://www.asahi.com/politics/update/0630/TKY200706300254.html

 28日に死去した宮沢喜一元首相の通夜が30日、東京都港区の青山葬儀所で営まれた。中曽根康弘元首相や羽田孜元首相、河野洋平衆院議長、御手洗冨士夫・日本経団連会長ら各界から約1000人が参列した。
 長女の啓子さんは「私人としての宮沢喜一は妻を尊敬し、子供を信頼してくれた、少し風変わりな夫であり、リベラルな父だった」とあいさつした。1日正午から同所で密葬が行われる。

225 名前:名無しさん 投稿日: 2007/07/01(日) 19:13:29
あやまちというのは、開戦責任とは別に、終戦が遅れた責任もあるでしょう。
十日早くポツダム宣言を受諾していれば、広島も長崎もソ連参戦もなかった。

226 名前:やおよろず 投稿日: 2007/07/01(日) 20:28:35
戦争は相手があってやることだからね
終戦の交渉も同じ

227 名前:名無しさん 投稿日: 2007/07/02(月) 09:55:31
>>225>>226
始まり方は見方によっては、止むを得ない面もあったと思いますが。
「終わらせ方」はもっと難しい、と改めて思います。

228 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/07/02(月) 12:16:18
確かにそうですね。>「終わらせ方」はもっと難しい、と改めて思います。
終戦の交渉は連合国側がポツダム宣言を発して後は日本がどのタイミングで受諾するだけで後は国内調整であって相手は関係ないような感じもしますが,逆の米ソの立場になってみると戦後の力関係を考えて日本の受諾の前に間に合わせるように戦勝国も実績作りに動きますから日本が急げばソ連の満州侵攻もアメリカの原爆投下も早まっていただけなのでしょうし。

229 名前:名無しさん 投稿日: 2007/07/03(火) 00:02:48
>>228
早めるって言ったって限界がありますよ。
最初の原爆実験は7月16日で、投下決定が25日。
日本の受諾に合わせて決めたわけじゃありません。

230 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/07/03(火) 15:25:06
>>229
ご指摘感謝っす。
こんな新型兵器なのに初実験から一ヶ月以内に二発も実戦で使用とは,めためた急いだ感じを禁じ得ないんですけど。。
第二次大戦後半は既に米ソは戦後の対立を睨んで動いていたと見るのが順当ではないでしょうかね。

231 名前:やおよろず 投稿日: 2007/07/03(火) 20:33:59
スターリンにアメリカとの対立の意図はなかった。
ルーズベルトにもなかった。
スターリンは、中国革命を望んではいなかった。

しかし、モロトフとチャーチルは米英・ソの対決を予感していた。
トルーマンもアイゼンハワーもスターリンを信頼しなかった。

232 名前:名無しさん 投稿日: 2007/07/03(火) 22:52:24
ハリー・S・トルーマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

大統領就任後、トルーマンは外交政策に没頭した。1945年7月にはポツダム会談に参加した。26日にはアメリカ・イギリス・中華民国の3国による「ポツダム宣言」が発表されたが、三カ国代表のサインはトルーマンによって書き上げられた物であった。それには太平洋戦争の勝利をソ連抜きで行おうという意図があった。

1945年4月の時点で原爆の完成予定を知っていたトルーマンは、核の力でソ連を抑止できるという考えがあった。日本への原爆投下命令はポツダム宣言発表の一日前、7月25日に行われていた。共和党の大物の面々が日本への原爆使用に反対していたこともあって、トルーマンは投下決定を共和党側には伏せたまま、先にスターリンに知らせた。共和党や共和党系と見なされていた将軍たちに原爆投下決定が伝えられたのは投下の二日前であり、これは「反対を怖れるあまり自国の議員よりも先にソ連に知らせた」と共和党側をさらに激怒させた。この原爆の日本への使用については、後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)は全員が反対意見を具申している。アイゼンハワーに至ってはスチムソン陸軍長官に対し「米国が世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」(一九六三年の回想録)と何度も激しく抗議していた。

トルーマンが原爆投下を決定した背景として、アメリカ軍の損失を最小限に止めること、実戦での評価、戦後の覇権争いでソ連に対して優位に立つという目的があったとする一方、自らを男らしい決断力のある存在として誇示する考えと、人種的偏見があったとする説もある。トルーマンは二発目の長崎投下後「さらに10万人も抹殺するのは、あまりにも恐ろしい」として、3発目以降の使用停止命令を出した。トルーマンは公式的な場では原爆投下を正当化し続けていた。またトルーマン大統領が日本へ計十八発もの原爆投下を承認していた事実がワシントン.ポスト紙にスクープされている。陸軍の完全な機密保持下に行われた原爆開発は戦後見直しを計られ、トルーマンは1945年10月に議会に対し原子力に関する教書を送った。それは原子力開発に関する管理体制についての物であった。翌年の8月には原子力法案が成立し、原子力委員会(AEC, United States Atomic Energy Commission)が作られた。1953年1月7日にトルーマンは、水素爆弾の開発を発表した。

233 名前:やおよろず 投稿日: 2007/07/05(木) 00:52:07
広島市長 米特使発言に不快感
http://www.nhk.or.jp/news/2007/07/04/k20070704000149.html

広島市の秋葉市長は、記者団に対し、アメリカ政府で核不拡散を担当する特使の
 ジョゼフ前国務次官が原爆投下について「戦争を終結させ、結果的に多くの日本人の
 命を救った」と発言したことについて「アメリカの政府首脳も広島や長崎のことをもっと
 深く理解すべきだ」と述べ、強い不快感を示しました。

 ジョゼフ前国務次官は、記者会見で、広島と長崎への原爆投下について「さらに何百万人
 もの日本人の命を奪うところだった戦争を終結させることができたというのは、ほとんどの
 歴史家が同意するところだ」と述べました。これについて、広島市の秋葉市長は、4日、
 総理大臣官邸を訪れた際、記者団に対し「アメリカ政府はこうした発言を続けているが、
 アメリカの歴史学者の定説とは大きく違う。アメリカの政府首脳も広島や長崎のことを
 もっと深く理解すべきだ。ブッシュ大統領にはできるだけ早い時期に広島に来てもらうことが
 非常に重要だ」と述べ、強い不快感を示しました。

 これに先だって、秋葉市長は、辞任した久間防衛大臣の発言をめぐって「閣僚全員が広島や
 長崎を訪れ、被爆の実態などを学習するよう求める」などとする安倍総理大臣にあてた
 要請文を政府側に提出しました。

234 名前:名無しさん 投稿日: 2007/07/07(土) 02:01:29
[正論]現代史家 秦郁彦 沖縄集団自決をめぐる理と情
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070706/srn070706000.htm
 ■報道は冷静な検証の姿勢忘れずに
 ≪情緒過剰な記事が並ぶ≫

 6月23日は、62年前に沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)の洞穴で、牛島軍司令官が自決、沖縄戦における日本軍の組織的抵抗が終わった日である。

 沖縄県は、この日を「慰霊の日」と定め、軍人・軍属、一般住民がそれぞれ9万余人、米兵をふくめると20万人の全戦没者を追悼する式典を挙行してきた。しかし今年は、住民の集団自決をめぐる高校用日本史教科書の検定で「軍命令による強制」が削除されたことについて、県議会が検定意見の撤回を求める意見書を採択したこともあり、騒然とした「慰霊の日」となった。

 ほぼ全面無視した読売新聞を除き、主要各紙は社説や社会面記事で大々的にこの問題をとりあげた。これまでは「沖縄の心」という目に見えぬ壁への配慮が働き、マスコミも識者もハレものにさわるような扱いをしてきたが、今年も同じトーンで生き残りの体験談を軸に情緒過剰な詠嘆調の記事が並んだ。今や生き残りといっても、当時は10歳前後だった人たちが主だから、要領をえないあやふやな証言ばかりになってしまった。

 たとえば、県の意見書のまとめ役になった当時8歳だった議員の体験談は「200人ほどの住民と壕に隠れていたところ、3人の日本兵が来て、泣き続けていた3歳の妹といとこに毒入りのおむすびを食べさせるよう迫った。敵に気づかれるのを恐れたため」(6月23日付朝日)というのだが、記者は不自然さに気づかなかったのだろうか。

 激戦のさなかに毒入りおむすびを作る余裕があるのか、毒と告げて親が食べさせるものか、食べたとしても、苦悶(くもん)の泣き声に変わるだけではないのか、そんなことをしなくても、200人も入っている広い洞穴なら奥へ移ればすむのではないか、と疑問の種はつきない。問題はそうした検証をいっさい放棄して、記事に仕立てた記者の資質にある。

 ≪攻撃用武器の手投げ弾≫

 ついでに記すと、県議会では「集団自決の軍命令はあったはず」と主張する野党と「なかったらしい」と主張する与党の議員が対立、妥協のすえ意見書は「日本軍による関与なしに起こり得なかった」という争点を外した表現におちついたとのこと。

 「関与」とは一部で日本軍の手投げ弾が自決用に使われたのを指しているらしいが、兵器不足に悩み、兵士に竹槍まで持たせていた日本軍にとって、手投げ弾は貴重な攻撃用武器だった。現地召集の防衛隊員(軍人)に持たせていたものが家族の自決に流用されたのに、16歳だった語り部の元短大学長が「手投げ弾は自決命令を現実化したものだ」と語るのを、朝日が社説(6月23日付)で「悲惨な証言」と信じ込み、引用しているのはいかがなものか。

235 名前:名無しさん 投稿日: 2007/07/07(土) 02:01:47
 ≪軍命令見つからない理由≫

 さすがに社説ともなると冷静なタッチが多いなかで、朝日だけは突出した情緒論で終始している。他にも日本軍は住民が捕虜になることを許さず、「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」と警告し実行していったとか、捕らえられれば「女性は辱めを受け、男性は残忍な方法で殺される。日本軍はそう住民に信じ込ませた」と書いているが、いずれも事実無根に近い。

 牛島軍は、県当局と協議して住民を予想戦場から遠ざけるため本土や本島北部への疎開を命じ、戦闘末期には米軍の保護に委ねるふくみで戦場外の知念半島への避難を指示している。

 その結果、米軍記録によると28万余人の住民が投降した。そのなかには日本軍陣地へ投降勧告に出向く志願者がいて、スパイと疑われ処刑された例もあったが、例外的事件にすぎない。

 そのころ12歳の軍国少年だった筆者も「鬼畜米英」への憎しみと恐怖を抱いていた記憶はあるが、誰が吹きこんだのか覚えていない。親や先生ではなかったと思うし、ひょっとすると、わが家で取っていた朝日新聞か主婦の友かもと考えたりもするが、少なくともこの種の流言、浮説を記した政府・軍の公文書はなかったと思う。

 ところが、研究者でも集団自決や慰安婦の強制連行を証する軍命令が見つからないのは、終戦時に焼却したからだとか、個々の命令はなくても戦前期の天皇制や軍国主義教育に起因すると強弁する人が少なくない。

 集団自決が起きたのに「いまさら『日本軍は無関係』と言うのなら、それは沖縄をもう一度裏切ることになる」としめくくった朝日社説も同類項なのだろうか。(はた いくひこ)

(2007/07/06 05:04)

236 名前:名無しさん 投稿日: 2007/07/07(土) 21:49:19
小沢発言は歴史歪曲? 「ドレスデン爆撃で米謝罪」
7月7日9時22分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070707-00000901-san-pol

 ■与党反発、外務省も「根拠なし」の立場

 1日に行われた安倍晋三首相と小沢一郎民主党との党首討論会で、小沢氏が「米国は(第2次世界大戦の)ドレスデン無差別爆撃について謝罪している」と指摘し、原爆投下について米国に謝罪を求めない日本政府の姿勢を追及したが、この問題で政府・与党側が事実関係が間違っているとして強く反発している。

 「(小沢発言は)事実に反する。ドイツは米英に謝罪を求めていないし、米英はドイツに謝罪していない。小沢氏は歴史をねじ曲げ、政局に利用しようとした」
 自民党の中川秀直幹事長は5日、記者団にこう語り、小沢氏に党首討論などの公式の場での釈明や謝罪を求めた。塩崎恭久官房長官も会見で「事実でないことを言ったのは政治的発言だから、政治的責任が問われる」と指摘した。
 1日の党首討論会で、小沢氏は米国はドイツに謝罪していると2度にわたって強調し、安倍首相に対し「謝罪を求めるという考えで、米国といろんな機会に話をすべきだ」と迫った。ただ、米国がいつどのように謝罪したかに関しては言及しなかった。

 ドレスデン爆撃では市民ら約3万5000人が犠牲になったが、外務省は「米国はドイツに公式謝罪などしていない」(中・東欧課)としており、小沢氏の話に根拠はないとの認識だ。
 また、現代史家の秦郁彦氏は「1945年2月に英米軍が行ったドレスデン爆撃では、罪の重さは英国8対米国2ぐらいで英国が主役。米国では責任論議はなかったはずで、謝罪までするはずがない」と解説する。
 これに対し、民主党は「戦後50年、55年、60年と、米英軍も参加して、和解の意味を込めて犠牲者追悼の式典が開かれた。正式に政府が謝罪したということではないが、互いに忖度(そんたく)した和解をしたということだ」(党幹部)と説明し、根拠がないとの批判に反論している。

237 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/08/16(木) 01:14:46
若き日の吉永小百合が主演する映画『あゝひめゆりの塔』をみた。
‘本軍や国民は勇敢に戦って立派に戦争に殉じた
∪鐐茲枠畛瓦
の2点は読み取れた。

,亡悗靴討脇本軍の一般構成員や銃後を護る臣民の汚い部分やずるい部分がまるで欠けている。本当にそうだったのかも知れないがリアリティに欠けてる様な気がする。
映画作成当時の国民みんなのあの戦争に対する虚しさを慰める自慰的な感じがあるけど作成時の1968年ですらまだこんなのが必要だったのか?戦争末期に少年少女だった連中も40代にならんとする頃だが。
それとももっと若い連中に軍国主義の或る種の良さを押しつける効果を狙った物なのか。△有る分屈折していると云えるが。
今日の若者と教育がもし仮に堕落しているとするならば,その原因は日教組の偏向教育ではなくて,戦後の保守勢力の戦争郷愁路線が原因ちゃうやろか!?お国の為に市ねが無くて天皇陛下万歳だけあるのは畸形であるのかも知れぬし。

238 名前:やおよろず 投稿日: 2007/08/16(木) 08:05:03
戦後左翼と戦後右翼は、アメリカが生んだ双子の兄弟です。

戦後の保守勢力の戦争郷愁路線=日教組の偏向教育でしょう
ほとんど妄想に近いものではなかろうかと
左翼勢力が主張しているほど右翼が危険ではなく、右翼勢力が主張しているほど左翼が危険でもない。
どちらも、大した影響力がない。
しかしながら、自陣営の影響力を確保するためには、相手方の脅威を煽り立てるしかない。
本当に恐ろしいのは、その勢力の主張と言うよりは、それを隠れ蓑に使った様々な犯罪行為でしょう。

冷静な議論は、この両陣営が主張するベールを取り払ってみるべきかと思います。

それと、いわゆる日教組の偏向教育は、
彼らの中でも共産主義の敗北が確実になった80年代から激しくなっていくわけです。
中国の反日宣伝が始まるのは70年から、本多の「中国の旅」は72年です。

239 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/08/16(木) 10:13:09
>>238
>戦後の保守勢力の戦争郷愁路線=日教組の偏向教育でしょう
>本当に恐ろしいのは、その勢力の主張と言うよりは、それを隠れ蓑に使った様々な犯罪行為でしょう。
>冷静な議論は、この両陣営が主張するベールを取り払ってみるべきかと思います。
なるほど〜。確かに2ちゃんの煽りじゃないですけど,向こう側の煽りあいに乗った時点で,この枠組みに組み込まれてしまいますよね。

80年代に日教組の偏向教育が激化したというのはどの事を指しているんですかね?
詳しくはないので生半可に論評出来ないんですけど,日中関係は70年代に国交恢復とともに出てきたって面も大きいんではないでしょうかねぇ?

240 名前:やおよろず 投稿日: 2007/08/16(木) 10:28:09

82年 「侵略・進出」誤報事件

これが一つ流れを作ったように思いますが、
慰安婦とかそういうのが教科書に登場するのは、その後です。

このあとで、近隣諸国条項ができて、教育問題が国際問題に直結することになり、
国内で支持を失った左翼側が、政府の攻撃材料に使えるとなり、激化していったものと思われます。

もっとも戦後において右翼が支持を得たことは一度もなかったと思いますが

241 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/08/16(木) 22:02:30
>>240
>82年 「侵略・進出」誤報事件
これは教科書に侵略という用語を使うか進出とするかの議論でしょうか?

>もっとも戦後において右翼が支持を得たことは一度もなかったと思いますが
やや煽り気味に云うと,靖国に参拝したがる連中は,みんな右翼だと思ってるんですけど違いますかねぇ。
少なくとも自民党従って,政府は兎も角,議会の主流は右翼だったと思うんですけど如何でしょう。

>>237でもその前からでも思ってたんですけど,(日本的サヨ的の理想である)戦後民主主義の主流だった戦後は,その底流にかなりの戦前の意識を残していた様な印象があります。
其れが漸く弱体化したのが戦後40年経とうとする80年代ぐらいだったのかなぁという気がします。だから戦後自民党的保守への嫌悪感を持っているのは80年代に子供だった現30代ぐらい迄で,それより下の世代は嫌悪すべきエスタブリッシュメントが左翼になったのかなぁと現在のネット右翼全盛を見て思ったりします。
80年代の日教組の攻勢なんてのは,組合の弱体化を考えると幻想な気がするんですけどどうでしょうかねぇ。
思想的な1940年体制と云うべき様な物の終焉物が80年代に有ったような気がするんですけど,そのせいで一連の旧日本軍への反省行為の様なものが発生してきたのでは?

纏まらぬレスで3失敬です。。

242 名前:やおよろず 投稿日: 2007/08/17(金) 08:50:27
>>241
>>82年 「侵略・進出」誤報事件
>これは教科書に侵略という用語を使うか進出とするかの議論でしょうか?

「侵略を進出に書き換えた」という虚報を朝日新聞が報じて、中国から反発が来ました。
それ以降、教科書問題が国際問題化するようになり、
左翼陣営の活動の中心が教科書中心に移っていくわけです。

>(日本的サヨ的の理想である)戦後民主主義の主流だった戦後は,その底流にかなりの戦前の意識を残していた様な印象があります。

国民が連続していることを考えれば、それは当然と言えば当然でしょう。

しかしながら、事実として主権回復までの7年弱の期間、戦中の以上に激しい報道統制があったわけで、
その時期に少年期を過ごした年代は、報道統制から抜け出ていないというのも確実にあるわけで、
これが左派=良心的との評価の源泉ではなかろうかと思います。
社会の中軸が戦前派から戦中・戦後派に移行していくのが80年代であったのでしょう。


左派が決定的に信頼を失ったのは、「浅間山荘事件」で、
それ以前、60年代における経済成長で、共産主義に対する幻想は市井からは消えていたとは思いますが。


>80年代の日教組の攻勢なんてのは,組合の弱体化を考えると幻想な気がするんですけどどうでしょうかねぇ。

事実として日教組上層部の北朝鮮訪問が常態化していたわけで、「最も尊敬する人物は金日成将軍」などという日教組委員長の言葉も残っているほどで、
組合員の多くが思想・信条とは無関係であることは知っていますが、組合の上層部には確実に共産圏とのつながりがあります。

243 名前:やおよろず 投稿日: 2007/08/17(金) 09:11:12
>>242

>左派が決定的に信頼を失ったのは、「浅間山荘事件」で、
>それ以前、60年代における経済成長で、共産主義に対する幻想は市井からは消えていたとは思いますが。

続き

 この辺の左翼団体が平和団体・市民団体に衣替えしてきたのが大きいのかと思われます。
 実際、この辺が騒いでいただけで、イデオロギー的なものが一般市井に広がっていったわけではなかろうとも思いますが

 逆に言えば、いわゆる「右傾化」の動きは、戦争論やネット右翼というよりは、北朝鮮の拉致発覚が大きいでしょう。
 かといって、この問題で一般的に社民党をはじめとする左派=北朝鮮派が批判されているかと言えば、そうでもないような気がします。
 北朝鮮は批判されていますけど
 基本的に左派は北朝鮮シンパが多いので、北朝鮮批判が広がったことを捉えて「右傾化」と捉えているのかもしれませんが

 部落問題にしろ、北朝鮮問題にしろ、その当事者は批判されてはいますが、それをもって左派全体が批判されているかと言えば、そうでもないように思います。

244 名前:名無しさん 投稿日: 2007/08/17(金) 11:47:57
それと同様に、北朝鮮批判は支持されても、いわゆる右派の主張が受け入れられているわけでもないでしょう
世の中は右派と左派の2陣営に分割されるとの前提のもと、
左派が批判されれば、右傾化だとか、
左派陣営に属する北朝鮮が批判されているから、右派が支持を得ているとか、
そういう見方は間違っているのではなかろうかと思います。

245 名前:杉山真大 ◆mRYEzsNHlY 投稿日: 2007/09/10(月) 20:57:55
韓国国内で「日本の植民地支配は正しかった!『嫌韓流』支持!!戦前日本万歳!!!」てやっている面子と同じか!?!?

イスラエルでネオナチ集団逮捕、旧ソ連出身のユダヤ系移民
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070910i213.htm

 【エルサレム=三井美奈】イスラエル警察は9日、ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーを崇拝する8人のネオナチ集団を逮捕したと発表した。

 イスラエルは、ナチスによるユダヤ人虐殺を生き延びた被害者が中心となって建国しただけに、ネオナチの存在は国民に大きな衝撃を与えている。

 8人は16〜21歳で、いずれも旧ソ連出身のユダヤ系移民。同国中部ペタハティクバで、シナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)に出入りする信者やアジア系移民、同性愛者を次々と襲撃していた。報道によると、自宅でヒトラーの肖像や拳銃が見つかり、押収されたビデオには、8人がナチス式の敬礼をしたり、麻薬中毒者を路上でひざまずかせ、「ユダヤ人」であることをわびるよう脅したりする様子が映っていた。

 イスラエルは、ユダヤ人には無条件で国籍を与えており、8人は子供のころ、両親と移民したらしい。同国には1990年代、旧ソ連から100万人以上のユダヤ系が流入。現在、国内人口の約6分の1を占めるが、イスラエル社会にとけ込まず、ロシア語を使いながら独自の共同体を作っているケースも多い。

 逮捕者の1人は、腕に「白人パワー」という言葉を刺青しており、ユダヤ系としての自覚が薄い「白人至上主義者」だったと見られる。

 オルメルト首相は9日の閣議で、「イスラエル国民なら、だれでも無関心ではいられない」と話し、教育制度を見直す必要があると強調した。

246 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/10/16(火) 20:10:57
旧日本軍を神聖化したい連中の野望が挫かれるのは非常に意義深い事である。

2007年10月16日(火) 夕刊 1面
「要請を実現したい」/細田幹事長代理前向き
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200710161700_02.html

 【東京】自民党の細田博之幹事長代理(元官房長官)は十六日午前、沖縄戦「集団自決(強制集団死)」への日本軍の強制を削除した高校歴史教科書の検定問題への対応について、「本道に戻したい。(県民大会実行委員会の)要請内容を実現したいと思っている」と述べ、検定意見撤回や記述の回復に積極的に取り組む考えを示した。十一万人が参加した県民大会の実行委員会要請団に答えた。実行委はこのほか、社民党の福島瑞穂党首、公明党の太田昭宏代表や浜四津敏子代表代行、池坊保子文科副大臣らにも要請。教科書協会も訪ね、今回の検定で意見が付された五社の担当者らに記述の訂正を要請した。

 要請団の約百七十人は同日、七班に分かれて関係先を回り、検定意見の撤回と記述の回復を含めた四項目を要望。実行委員長の仲里利信県議会議長や高嶋伸欣琉球大学教授らのグループは自民党本部に細田幹事長代理を訪ね、検定意見の撤回などを求めた。

 仲里委員長らによると、同席した河村建夫広報本部長(元文科相)も「教科書に歴史の事実が書かれなければ、文部科学相はきちんと直すよう監督指導する責任がある」と述べ、文科相の責任で対応する必要性を強調したという。

 仲里委員長は要請後、細田幹事長代理の発言について「力強い話があり大きな前進だ」と歓迎。高嶋教授も、河村広報本部長の発言に「政治家の責任の在り方を示したいい発言」と評価した。

 一方、実行委幹事の伊波常洋県議(自民)らのグループは、自民党沖縄振興委員長の山崎拓衆院議員を平河町の個人事務所に訪ねた。山崎氏は冒頭、「超党派の県民大会は県民の総意としてしっかりと受け止めたい。沖縄振興委員会でも、この問題で何かできることがあるか検討している」と述べ、党として対応する姿勢を明らかにした。

 面談は非公開だったが、伊波県議らによると山崎氏は「子どもたちに教える立場から、軍部の関与については事実上元に戻すことを希望しており、そうなると予見している」など、記述回復に前向きな姿勢を示した。

 検定意見の撤回については「制度の問題があるが、今後起こらない仕組みを必ず確立する」と述べ、検定意見撤回以外の手段で解決に取り組む考えを示した。

 要請団の要望は(1)検定意見の撤回と記述の回復(2)教科用図書検定調査審議会の速やかな再開催(3)審議の公開と審議会への沖縄戦研究者の参加(4)沖縄条項の確立―の四点。

小沢氏、国会決議に意欲
「政府・文科省と戦う」

 【東京】民主党の小沢一郎代表は十六日、国会への「沖縄戦『集団自決(強制集団死)』の教科書検定に関する決議案」提出について、「民主党の認識は一致している。政府や文部科学省に対して戦っていく」と、意欲を示した。十一万人が参加した「教科書検定意見撤回を求める県民大会」実行委員長の仲里利信県議会議長らの要請団に答えた。

 検定手続きの見直しなどを求める同決議案提出をめぐっては、自民党執行部から反対意見が相次いでいるほか、民主党内からも「全会一致」の慣例を重視し「多数決ではできない」(平田健二参院民主幹事長)との異論が出ており、めどが立たない状況に陥っている。

 小沢代表はこれまで、「参院の判断、運営に任せている」と述べ、事態を静観する構えを見せていたが、今回の発言は従来より踏み込んだものといえる。

 仲里議長らによると、小沢代表はそのほか「政府は審議会に責任を負わせるような格好でやっているが、真正面からはっきりと政府の言葉を言わなければならない」と述べ、同問題をめぐる政府の対応を非難。

 その上で「歴史の事実は一つ。その事実を歪曲することは厳にあってはならないし、それは自分たちもただしていく」と述べ、県民大会で決議した検定意見の撤回や記述の回復に前向きに取り組む姿勢を示したという。

247 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/10/28(日) 21:43:23

京大教授陣に反共工作 米、左傾化阻止へ世論誘導
http://www.47news.jp/CN/200710/CN2007102101000161.html

 【ワシントン21日共同】1950年代に日本の左傾化を恐れた米広報文化交流局(USIS)が日本で行った世論工作を詳述した報告書が21日までに米国立公文書館で見つかった。左派勢力が強かった京都大学の教授陣を対象にした反共工作のほか、日本映画やラジオ番組の制作、出版物刊行をひそかに援助、米国が望む方向への世論誘導を図った実態が細かく描かれている。

 報告書は、米政府情報顧問委員長(当時)を務めたエール大学の故マーク・メイ教授が59年、日本に5週間滞在しまとめた。フロリダ・アトランティック大学のケネス・オズグッド助教授が発見、冷戦時代の米対外世論工作をテーマにした著書「トータル・コールドウォー」の中で明らかにしている。

 報告書によると、USISは(1)日本を西側世界と一体化させる(2)ソ連、中国の脅威を強調する(3)日米関係の強化で日本の経済発展が可能になることを理解させる−などの目的で、50の世論工作関連事業を実施。このうち23計画が米政府の関与を伏せる秘密事業だった。

2007/10/21 16:00 【共同通信】

248 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/12/02(日) 21:37:47
五・一五前夜のチャップリン 皇居前一礼の謎に新事実
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071202-00000919-san-soci&kz=soci
12月2日18時50分配信 産経新聞

 昭和7(1932)年に来日した世界の喜劇王、チャールズ・チャプリン(1889〜1977年)が「五・一五事件」の前日、皇居前で一礼したのは自身を守る“演出”だった−。親日家でありながら、外国勢力打倒をかかげる軍人らの標的にされたチャプリンを守るため、皇居訪問を最優先させるなど、秘書やその知人らが訪日の行動計画をたてた手紙が研究者によって発見された。「親日ぶりの単なるアピール?」「不審な車につけられた?」など、その意味が明かされず謎とされた「一礼」が、チャプリンの“世紀の名演技”だったことを裏付ける貴重な資料という。

 手紙は元陸軍少将の作家、櫻井忠温(ただよし)がチャプリンの秘書、高野虎市(1885〜1971年)にあてたもので、チャプリン研究の第一人者、大野裕之・日本チャップリン協会会長が高野の遺品などから発見した。原稿用紙7枚に書かれ、正確な日付は不明だが、「最近の日本は騒がしいのでお気をつけください」など日本の情勢の報告とともに、「お早めに東京に来られたほうがいいと思います」「東京でまず宮城(皇居)に行く」よう指示。このほか、撮影所訪問や歓迎会への出席など行動計画が綿密にたてられていた。

 欧州やアジアをめぐる世界旅行の途上、5月14日に神戸港に入ったチャプリンは、京都や大阪を“とばして”東京に直行。その夜、ホテルへ行く前にまず二重橋に立ち寄った。「高野が『車から降りて皇居を拝んでください』というので、(腑に落ちないまま)礼をした」と、皇居への訪問を“最優先”させたことを自伝に記している。この「一礼」は当時、新聞などで大きく報じられたという。

 翌日には、一部軍人が蜂起して犬養毅首相を殺害した「五・一五事件」が発生、チャプリンも“外国文化の象徴”として標的にされていたことが、裁判記録などから明らかになっている。

 その特異な行程や一礼の意味はこれまで“謎”とされ、研究者からは「跡をつける不審な車におびえた高野が礼をさせた」などという見方も出されていた。

 高野はチャプリンより1カ月早く来日して日程を調整しており、大野会長は「不穏な動きを高野が事前に察知して、軍部に詳しい櫻井に相談したのではないか」と分析。「高野らが綿密に作戦をたて、チャプリンがその通りに演じたことが分かる貴重な資料」と、没後30年にして発見された資料を高く評価している。

 事件当日、チャプリンは首相の歓迎会には行かず、気まぐれで相撲観戦に出向き、難を逃れた。大野会長は「歴史は皮肉なもの。しかし高野の努力もあり、命拾いしたともいえる。手紙はそれを証明し、高野とチャプリンの深い関係をも裏付ける」と話している。

249 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/01/31(木) 23:57:59
大恐慌を放置してもっとも人気のない大統領であるフーバーとGHQでお馴染みのマッカーサーの意外な関係

http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/19430126buyou/buyou.htm

250 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/02/01(金) 00:04:59
>>249
>もっとも人気のない
wiki等を見ると退任後は色んな活動を通じてそれ程悪評価で死んだわけでは無さそうである。。

251 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/02/08(金) 21:49:47
こんなスタンスだったんですね。せめて西園寺も此に賛同してくれれば・・。

伊東巳代治の国連脱退反対運動
http://210.128.252.171/modern/column/07.html

この表現がなかなかいいっすねぇ。
>半世紀に及ぶ政治生活で伊東が放った最後の淡い光茫であった。

252 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/02/28(木) 22:13:34
私は日本の民主主義社会の原点を室町・戦国期の町衆や国人らの自治に求めていて,南山城の国一揆や加賀の一向一揆(専門のウェブサイト迄みつけた http://rokuro.at.infoseek.co.jp/ )を高く評価してるけど,明治体制下のこの富山県の米騒動の震源地ぶりもなかなか評価できるぞ!
なんでも一番有名な1918年以外にも大きな物は3度あったそうだが,いずれも富山県がきっかけになっちょる。最近では自民党の金城湯池になっちまたが農地解放前迄は庶民の不満のポテンシャル高かったのか。

米騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

米騒動の発生契機としては凶作による米不足や米価格の暴騰が直接的な要因になる事が多い。一般に「米騒動」とのみ呼称した場合は、大正時代の1918年に発生したものを指す。しかし、単純な「米価格の暴騰に伴う民衆暴動」という定義の騒動は江戸時代の享保の大飢饉の頃から幾度となく発生しており、明治維新以降で全国規模にまで発展した米騒動は1890年、1897年、1918年の3度を数える。
1890年の米騒動
1890年1月18日、富山県富山市において市民による市役所・資産家に対する救助要請運動が始まったのをきっかけとして、同年4月から9月にかけて鳥取県、新潟県、福島県、山口県、京都府、石川県、福井県、滋賀県、愛媛県、宮城県、奈良県など19箇所において騒動が発生した。特に新潟県佐渡市相川町では6月28日から7月5日にかけて鉱夫を中心として2000名以上が蜂起し、軍隊の出動をもって鎮圧する事態にまで発展している。[要出典]
1897年の米騒動
1897年5月下旬の富山県魚津町での騒動をきっかけとして始まった騒動で、同年8月から10月にかけて、石川県、長野県、山形県、新潟県、福井県など10箇所において発生した。最も大騒動となったのは長野県飯田町の騒動で、9月1日から9月3日の3日間で約2000名の民衆が暴徒と化し、米問屋や警察署などを襲撃する事態に至った。[要出典]
1918年の米騒動
1918年7月下旬から9月にかけて、富山県魚津町を中心にして参加者100万人を超える全国規模の民衆暴動へ発展した事件。本項次節以降で詳述する。

253 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/04/16(水) 12:50:41
上原勇作と云えばキーワードは帷幄上奏権・二個師団増設問題・軍部大臣現役武官制ですねぇ〜。基本事項であるから抑えておくよーに♪
民党の経費節減・民力休養に対する蛮勇演説の樺山資紀とついごっちゃになってしまうね。樺山と聞けばすっと蛮勇演説が出てくるけど。
熊本鎮台司令長官として熊本城を西南の役で守り抜いた谷干城も組閣の大命が下るも陸軍が陸相を推挙しなかった為に組閣に失敗した流産内閣宇垣一成も間違えない。田中義一も軍人出身だけど政友会総裁の印象が強いなぁ。
上原の日本史上というか日本史入試上の印象はこう見るとあんま強くないのかねぇ。
あんま関係ないけど「たにたてき」よりも「たにかんじょう」と有職読みするのが個人的な好み。もっと関係ないけど宇沢弘文先生もひろふみではなくこうぶんな感じですな。

旧陸軍大臣収集の「上原文庫」、都城市立図書館が調査へ
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20080413-OYS1T00337.htm

 旧陸軍大臣の上原勇作が集めた戦前の軍やOB関連の雑誌など約5000冊を蔵している「上原文庫」(宮崎県都城市立図書館)の本の劣化が進み、同図書館が保存や複写本の作成に向けて蔵書の内容調査を始める。上原は読書好きとしても知られ、文庫には国会図書館にもない貴重な史料が多いとみられているが、内容の詳細な研究は行われていなかった。専門家は「史料の重要性がつまびらかになれば」と期待している。

 同文庫は都城出身の上原の陸軍大臣就任を記念して1914年(大正3年)に設立。多くが上原の蔵書で、市民からの寄贈もある。OB組織「帝国在郷軍人会」の機関誌がほぼそろっているほか、新兵生活の苦心談などを掲載した啓発雑誌「皆兵」、陸海軍の下士官が投稿した作文や俳句などの文芸誌も。

 有馬学・九州大教授(日本近代史)によると、旧日本軍は平時から国民向けの啓発活動に熱心で、軍のOB組織が重要な役割を担っていた。雑誌などから陸軍や在郷軍人会が何を目指していたかがわかるという。「文庫は戦前の軍と社会の関係を研究する上で欠かせない史料群で、その豊富さは全国一では」と話す。

 しかし、蔵書はほとんどが酸性紙で劣化が進行。開くだけで紙が崩れる本もある。図書館では本をばらしてとじ直し、酸化を防ぐ箱の中で保管するほか、複写本を作るなどして史料の存続を図ることを計画。1冊あたり数千円の費用がかかることから、日本近代史に詳しい大学教授らに蔵書を読み解いてもらい、概要を記したリストを作成して重要な史料を選別していく。

 同図書館の羽田野信拓・副主幹は「各史料の内容調査を急ぎ、重要性を広く訴えたい」と話している。
(2008年4月11日 読売新聞)

254 名前:荷主研究者 投稿日: 2008/06/19(木) 23:32:04

http://www.kahoku.co.jp/news/2008/05/20080506t33007.htm
2008年05月05日月曜日 河北新報
旧陸軍施設相次ぎ解体 盛岡・青山地区

4月に解体された覆馬場。消えゆく赤れんが造りの建物に住民から惜しむ声が上がった=盛岡市青山2丁目

 旧陸軍関連の建物が数多く残る盛岡市青山地区で、街の景観が様変わりしている。覆馬場と兵舎が今年に入り、相次いで解体された。江戸期の町家をはじめ明治、大正期のモダン建築などの保存活用に力を入れる土地柄だけに、失われゆく地域のシンボルを惜しむ声が上がっている。

 市北西部の青山地区は戦前、騎兵第三旅団や工兵第八連隊の駐屯地として発展した。戦後は戦地などからの引き揚げ者が住み着き、戦時の記憶を色濃く刻む街並みとして知られる。それが今年、いずれも民間企業が所有する覆馬場と兵舎が次々壊された。

 さらに6月には、これも民間企業所有の覆馬場が姿を消す。旧陸軍施設で青山地区に残るのは市所有の覆馬場1棟だけとなる。

 施設解体後の跡地は緑地になったほか、今後、スーパーなどが建てられる。施設所有の企業側には工場の規模拡大や業務縮小という事情があり、「既に決まっていたこと」と口をそろえる。

 変ぼうする街並みに、青山大通り商店街の安部一夫会長(58)は「街の顔が失われていくのが寂しい。もう少し保存に向けて行政や企業と協議する時間が欲しかった」と肩を落とす。

 「いわて・戦争を記録する会」の加藤昭雄事務局長(花巻市)も残念そう。旧陸軍の関連施設が1カ所に集中するのは全国でも珍しく、「文化財としてとても価値が高かったのに…」と解体を惜しんでいる。

 建物の保存について、盛岡市は「多くは民間企業の施設で、市の現在の財政事情では買い取れない。ただ、市所有の覆馬場は国指定の文化財を目指して、地域の中で活用法を探りたい」(環境企画課)と語るのが精いっぱいだ。

255 名前:名無しさん 投稿日: 2008/06/22(日) 17:25:55
明治天皇の孫、海渡り60年 ブラジルで皇太子さま対面
http://www.asahi.com/national/update/0621/TKY200806210120.html
2008年6月21日17時58分

 【サンパウロ=島康彦】皇太子さまは20日夕(日本時間21日早朝)、サンパウロ市内のホテルで、日系人ら約50人と懇談した。その中に、約60年前、皇籍離脱してブラジルに渡った元皇族がいた。多羅間俊彦さん(79)。終戦直後の皇族首相・東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)氏の四男、明治天皇の孫だ。

 宮家のプリンスとして一目置かれる生活が、戦争で一変する。自宅は焼け、終戦直後の1947年、他の宮家とともに皇籍を離脱した。

 同じころ、知人からブラジル行きの誘いを受けた。大学でラテンアメリカ研究会に所属し、南米の自然にあこがれる気持ちもあった。「ロマンがある世界に飛び込みたかった」。コーヒー農場を経営する元外交官夫人の養子となって、51年、海を渡った。

 周囲は驚いたというが、多羅間さんは「苦労はなかったですね。希望に満ちていたから」と笑顔で振り返る。

 日系2世の女性と結婚。長男と3人でサンパウロで生活する。ブラジルでの半世紀を超える年月は「非常に豊かな人生でした」と話す。

 今回の皇太子さま訪問では、ブラジル日本文化福祉協会副会長として、準備作業にかかわった。「100周年は一つの区切り。日本側との連絡など今後も力になれることをやっていきたい」

256 名前:石垣眞人 投稿日: 2008/07/30(水) 14:42:20
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。

257 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/08/13(水) 18:38:39

終戦直前の東条手記 「内閣、国民に嘆息」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080813-00000060-san-soci&kz=soci
8月13日8時0分配信 産経新聞

 太平洋戦争開戦時の首相だった東条英機陸軍大臣が、終戦直前の緊迫した情勢の中で心情をつづった手記が国立公文書館(東京都千代田区)に所蔵されていることが12日、わかった。

 昭和20年8月10日から14日の間に書かれたもので、昭和天皇が臨席された10日の重臣会議の記述から始まる。東条元首相は政府がポツダム宣言受諾を決めたことについて、11日に「新爆弾に脅(おび)え、ソ連の参戦に腰をぬかし一部条件を付し在りといえども、全く『敗戦者なり』との観念に立ちたる無条件降服を応諾せりとの印象」と政府の“弱腰”を厳しく批判している。

 13日には「もろくも敵の脅威に脅え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及び国民の無気魄(きはく)」に嘆息を漏らし、自身の責任に言及する。そして14日には首相時代の秘書官にあてて「大義に殉ぜる犠牲もついに犬死に終らしむるに至りしことは前責任者としてその重大なる責任を痛感する。事ここに至りたる道徳上の責任は死をもっておわび申上ぐる」と自決の覚悟を記している。

 東条元首相は同年9月にピストルで自殺を図るが一命を取り留め、東京裁判で絞首刑判決を受けて、23年12月に刑死した。手記は東京裁判で東条元首相の弁護人を務めた清瀬一郎弁護士が法務省に寄贈した裁判資料の中にあった。

 小堀桂一郎・東大名誉教授の話「生々しさはあるが、新たな発見はこれといってない。ただ興味深かったのは、東条さんのような地位にあった人でも、ポツダム宣言の条件を無条件降服だと思い込んでいたこと。国際法の厳密な解釈ができていないことが随所にうかがえる。また、全面的な武装解除を履行すれば国体の護持はできないという認識は正しく、この点はさすがに軍人だと感心した」

258 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/08/14(木) 14:24:48
政界名(迷)言集
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/meigen.html

259 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/08/15(金) 13:53:31
なんだ,この文語体であること以外あんま中身の無い文章は。。
しっかし,現代に於いて日本國民が8/15を大東亞戦争の一大劃期だと考えてゐるのは天皇から終戦を直接に語られた日だからなんだな。。

【正論】「8月15日」 埼玉大学教授・長谷川三千子
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080813/trd0808130328001-n1.htm

260 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/08/20(水) 18:26:05
ちょいと前の記事だが。

2007/06/15
文科省が削除要求 「集団自決」修正
軍関与の記述部分 沖縄T
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1089893576/2746

2007/06/23
沖縄:教科書検定問題で記述の復活はしない考え…安倍首相
沖縄:教科書検定、国と溝 「自決強制」目撃の女性に怒り
>>213

「集団自決」に「軍の関与」復活 検定意見を実質修正
http://www.asahi.com/politics/update/1226/TKY200712260329.html
2007年12月27日06時47分

 沖縄戦の「集団自決」をめぐり、来春から使われる高校日本史の教科書検定で「日本軍の強制」が削除された問題で、渡海文部科学相は26日、教科書会社6社から出されていた訂正申請を承認した。「日本軍が強制した」という直接的な記述は避けつつ、「軍の関与」や「戦中の軍の教育」などによって住民が自決に追い込まれたと記しており、「集団自決が起きたのは、日本軍の行為が主たる原因」と読める内容になった。

 一度検定に合格した教科書の記述に沖縄側が激しく反発したことをきっかけに異例の再審議となった。6社中5社は文科省側とやりとりしながら、訂正申請を一度取り下げたうえで、修正して再申請し承認された。文科省は、「軍の強制」を認めなかった検定意見を撤回しなかったものの、内容を事実上修正する結果となった。

 渡海氏はこの日の会見で「審議経過も明らかにしており、沖縄の理解をいただきたいと思っている」と語った。一方、9月末に開かれた沖縄県民大会の実行委員長を務めた仲里利信・県議会議長も会見し、「記述の回復がほぼなされ、これまでの検定意見は自動的に消滅したと考えている」と表明した。ただし、県民大会で決議した「検定意見の撤回」が実現しなかったことには不満の声も根強く、28日に実行委員会を開いて、正式な態度表明をするという。

 渡海氏は県民大会の直後、「訂正申請があれば真摯(しんし)に対応する」と表明。11月に各社から申請が出されたことを受けて、諮問機関の教科用図書検定調査審議会(検定審)に検討を要請。検定審日本史小委員会は25日に訂正申請を承認する報告をまとめた。

 今回の再審議では、「日本軍が強制した」と記した訂正を認めるかどうかが焦点だった。日本史小委は、沖縄戦や軍事史の専門家9人に意見を求めたうえで、(1)集団自決が起きた状況をつくった要因として、軍の関与は主要なもの(2)軍命令で行われたことを示す根拠は確認できていない(3)住民側から見れば、自決せざるを得ないような状況に追い込まれたとも考えられる――という「基本的とらえ方」をまとめた。この方針に沿って、教科書会社に訂正申請の根拠となる資料の提出や説明を求めた。

 その結果、三省堂、実教出版、清水書院、第一学習社、東京書籍の5社は訂正申請にあった「自決を強要された」「集団自害と殺し合いを強制した」といった直接的な表現を取り下げ、「日本軍の関与」「米軍の捕虜となることを許さないなど指導」との表現に変えて再申請した。山川出版社は事実関係だけで、背景や要因には触れなかった。

 「強制的な状況のもとで」「『強制集団死』とする見方が出されている」といった記述も承認された。文科省は「『強制』や『強要』があれば即不合格になるのではなく、全体の文脈の中で小委が判断した」と説明している。

261 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/09/15(月) 01:18:04
麻生太郎外相と韓国・朝鮮、被差別部落/坂井貴司
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/c40aeeaef38844fe604e08bee1a98452

262 名前:名無しさん 投稿日: 2008/09/15(月) 01:58:31
>>261
典型的な朝鮮万歳系・部落万歳系の記事ですね。

263 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/09/15(月) 09:18:17
典型的であろうと無かろうと近代や帝国主義の時代がこういう事が法治主義の名の元で行われてたって事は事実かと思います。
散々抑圧しといて向こうから日本に来たがったとか向こうが日本の名前欲しがったとか云う典型的な保守派の発言は身勝手で他者への配慮が決定的に欠けているとしか思えませんね。

264 名前:名無しさん 投稿日: 2008/09/15(月) 11:48:06
その話自体がインチキ臭いんですよね。

265 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/09/15(月) 17:27:17
>>264
どの辺りがインチキなんでしょう?
あと50年もしたらこの時期(現代)の日本の政治家は韓国が嫌がるようなことを云った事実はない善隣友好に尽くしたのに中韓は勝手に日本を恨み続けたって言い出しそうです…。

267 名前:やおよろず ◆N22LLUydY2 投稿日: 2008/09/23(火) 02:04:54
>>265
>>261がファクトかどうかの話ですから。
嫌がったとか何とか、一般的な話にもっていくのは、いかがなものかなと思いますけどね。

ファクトを無視して、共産独裁国家を賛美していた大学教授や文化人など自称インテリ(実態は単なる馬鹿)の飯の種にしか思えませんけどね。

268 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/09/23(火) 03:12:39
日本なりイギリス成りが朝鮮なりインドなりに植民地収奪したと云うファクトから出発しないと議論にならないような気がしますが如何でしょうか?
日本人が朝鮮地域の発展と繁栄のみを祈るお人好しだった疾っくに欧米の植民地となっていたでしょうし。
収奪なり侵掠なりしたと云うファクトから始めないと,無謬の皇軍,無辜の臣民,無欠の皇室が前提ではやおさんの云う共産独裁国家を賛美していた大学教授や文化人など自称インテリ(実態は単なる馬鹿)と大差ない事に成ってしまいませんかね。

269 名前:名無しさん 投稿日: 2008/09/23(火) 11:09:08
1.イギリスと日本が同じである。

これは立証なしで、前提としなければならないのでしょうか?

2.論点は、日本の善意の有無である。

日本が善良なお人好しでなければ、その行為は全て否定されるべきであるというのが前提になりますね。


どっちにしろ、奴隷として強制連行したことがファクトであるとの裏付けにはなりませんけどね。

270 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/09/23(火) 20:02:22
>>269
>1.イギリスと日本が同じである。
>これは立証なしで、前提としなければならないのでしょうか?
まぁイギリスも善意でやってたかも知れませんので,其れを言い出すとなかなか大変ですな。。

>2.論点は、日本の善意の有無である。
>日本が善良なお人好しでなければ、その行為は全て否定されるべきであるというのが前提になりますね。
欧米の侵掠の危機に対して日本が自衛の為にやった事だから何やっても良いという結論にはならんと思います。

現在に至る迄,中韓が日本に頭下げろと云って来て腹立たしいと云う感情と当時の列強のやった事の是非は切り離して論じるべきではないでしょうかね。

271 名前:やおよろず ◆N22LLUydY2 投稿日: 2008/09/23(火) 22:25:04
>>270
善意かどうかと、強制連行があったかどうかとが、どういう風にリンクするのでしょうか?

272 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/09/23(火) 22:31:08
>>271
日本の保守陣営の観点からの典型的な日本の植民地支配観は日本は良い事をしてあげたと云う善意論ではないでしょうかね?
革新陣営が主張する植民地支配者としての日本の悪行の典型の一つが強制連行だとするとそれの対応物かと。

273 名前:やおよろず ◆N22LLUydY2 投稿日: 2008/09/23(火) 22:35:12
>>272
強制連行の有無が論点ですけど。
植民地支配云々が論点ではないはずですが。

274 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/09/23(火) 22:44:08
植民地支配の一環として”強制連行”があったのではないでしょうかね?
沖縄戦での陸軍の強制と同じくその強制の中身を論じないと駄目なのでしょうけど。
日本が朝鮮人に対して不利な立法をして経済的困窮に追い込み結果として日本の劣悪な労働環境で働くことを強いられるようになった,と云う事を強制では無く募集に応じたのが彼らの自発的行為だから強制連行は無かったという主張ですかね?

275 名前:やおよろず ◆N22LLUydY2 投稿日: 2008/09/23(火) 22:44:51
>>274
それでは、日本国民はどうなのでしょうか?

276 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/09/23(火) 22:47:31
>>275
といいますと?
日本人労働者も当時の産業資本にさんざん搾取されていたから同じと云う事でしょうか?

277 名前:やおよろず ◆N22LLUydY2 投稿日: 2008/09/23(火) 22:49:27
>>276
そういうことになりませんかね?搾取論だと。
戦後の東北地方からの出稼ぎも、強制連行であるといえなくもない。

なんにしろ、奴隷狩り的な強制連行はファクトではありませんね。
かりに、搾取があったから強制連行でとしても、奴隷狩りをファクトとすることはできません。

278 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/09/23(火) 22:53:33
>>277
そうだったんじゃないでしょうかね。
搾取という違うタームが付いているだけで本質は同じだと思いますよ。
一生懸命経済発展の為の資本蓄積をしていたとしても当時の劣悪な労働環境に置かれた労働者や明治政府に拠って植民地的な地位におかれた東北地方民が産業資本家や薩長藩閥政府に怒りを持ったとしてもそんなものは無かったと云う気には成れませんねぇ。

279 名前:やおよろず ◆N22LLUydY2 投稿日: 2008/09/23(火) 22:57:06
>>278
論点は、怒りの有無ではなく、奴隷狩りの有無ですが。

今なお朝鮮や中国からわたってくる不法難民も、強制連行なのでしょうか?

280 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/09/23(火) 23:01:46
>>277 >>279
>奴隷狩り的な強制連行
日本は歴とした法治国家でしたからその辺は巧妙にソフィスティケートされていた筈です。
法律に照らしてグレーではあり,朝鮮人に不利なようになっていたかも知れませんけど,其処がクリティカルなんでしょうかね?

日本による植民地化が直接の原因で状況に追い込まれて日本に渡らざる得なかった,ってのと現代の独立国からの不法入国を同一視するのは無理があるんじゃないでしょうかね?

281 名前:やおよろず ◆N22LLUydY2 投稿日: 2008/09/23(火) 23:07:27
>>280
どうでしょうね?
まず、朝鮮と日本の経済格差が日本政府によるものであるのかどうか?

朝鮮内にいるのと、日本に行くのとで、日本に行くほうがカネになるのなら、
日本に来る朝鮮人が多くても不思議はありませんけどね。

そういう経済格差と人口動態は、現在の脱北者の行動と類似しているのではないでしょうか?

282 名前:やおよろず ◆N22LLUydY2 投稿日: 2008/09/23(火) 23:09:59
>>280
>>日本は歴とした法治国家でしたからその辺は巧妙にソフィスティケートされていた筈です。

一般に革新陣営が流布している言説は、虚言となってしまいますね。

飯の種とは言え、言説が過激になっていくことは、
誰のためにもならないのではないでしょうかね?

無理に一般国民と一般在日との間に壁を構築して、
それでもって、飯の種にしている人間が、社会的に一定の影響力を持っている以上、
どうしようもないことなのかもしれませんけどね。

283 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/09/23(火) 23:26:06
>>281
論理を敷衍すると中韓が(半)植民地化されたのも,情勢を見て適切に国家運営できなかった彼らの自己責任でそれを侵掠した方の責任にするのは筋違い,全て合法的なものであったと云うことになるんでしょうかね。
確かに当時の産業資本の現代に繋がる発展への役割を無いと云うことは出来ず,寧ろ積極的な意義を見いだすべきだと思いますが,当時の劣悪な労働環境を問題であったと認識する事から現代の社会権や生存権が正当化されるのだと思います。

同じように当時の列強の行動を適切に批判してこそ将来嘗てのような帝国主義による抑圧が再来する事の抑止になると思ってます。
で,日本の支配にも積極的な意義があった可能性はあるとは思いますがその辺は当時の労働者と資本家への現代人の帰属意識よりも当時の朝鮮人の現代の朝鮮人の帰属意識の方が遙かに高いのでそれに日本人が触れるのは難しいであろうかと思います。

日本語が判らないのを良いことに契約書にサインして連れてきたり,美味い飯が食えるぞと騙して連れて来たりがあった様に聞いてますけど,少なくとも一部の拉致被害者を騙して自分の意志で北朝鮮入りさせた北朝鮮位には当時の資本家好き勝手やってた様に思いますけどねぇ。
タコ部屋での悲惨な生活を正確に知らされて日本に来た人なんているんですかね?

>>282
煽りあいがエスカレートしてゆくのは不毛でしょうね。
革新陣営が殊更に戦前の日本を貶め,保守陣営が殊更に無謬性を主張し,それに海外の言説も絡んで紛糾すると云うのは不健全でしょう。
日韓中で解決するのは難しそうですので欧米の歴史学者にも這入って貰って検証する必要があるのかも。ドイツとその周辺諸国みたいに自分らで解決できないのは情けないですけど,向こうは全部ナチスが悪いで押し込めてしまえたからなぁ。。

284 名前:やおよろず ◆N22LLUydY2 投稿日: 2008/09/23(火) 23:41:18
>>283
仲介業者がいたのは事実でしょうね。
仲介業者と労働者の話で、政府の話なのかどうかは微妙ですし、
全く無関係な世代が騒ぐことでもないような気がします。
そういう仕事についている人は別ですが。
暮らしが苦しいのと、普通に暮らしていたのを羅利するのとを同一視するところに、革新陣営の不誠実を感じますが。

革新陣営も細る一方なので、言説が過激になっていくのも組織の宿命として理解できます。

南北朝鮮とも、日本叩きなくして政権維持ができないでしょうから、これはどうしようもないですね。
学者も利害関係を背負ってるでしょうから、難しいでしょうね。

北朝鮮拉致問題ですが、拉致されたとされる人の中にも、北朝鮮に自ら入国した人もいるでしょうね。
現在のように、北朝鮮の情報が国内に流れるような時代でもなかったでしょうしね。
もちろん、普通に暮らしていて拉致誘拐されたケースが多いでしょうけど。

285 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/09/24(水) 00:52:03
>>284
>政府の話なのかどうかは微妙ですし、
慰安婦なんかもそうでしたけど確かに微妙でしょうけど如く巧妙なソフィスティケートの一環で推奨しなかった迄も黙認等はあったでしょうから無関係と突っぱねるのもどうでしょうかね。

>全く無関係な世代が騒ぐことでもないような気がします。
これは矢張り帰属意識なんじゃないでしょうかね。
会津が薩長と"歴史的和解"みたいなニュースが時々流れますが裏返せば未だ引っかかるものがちょいとあるって事ですよね。
日中韓が会津と薩長ぐらい落ち着いた関係になるといいんですけど…。
知ってるのは留学生ぐらいですので本国の人の事は知りませんけど彼らは全くそんな不幸な歴史などなかったかの様に振る舞ってくれますし,騒いでるのは一部の人だけなんじゃないでしょうかね?

286 名前:やおよろず ◆N22LLUydY2 投稿日: 2008/09/24(水) 02:18:54
>>285
一部ではありましょうけど、政権が左右されるほどの影響力を持つ一部ではあるでしょう。

287 名前:石垣眞人 投稿日: 2008/10/10(金) 15:23:57
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。

288 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2008/10/24(金) 08:56:20
歴史の小さな一ページの一こまが変わるかもしれない。成田市の調査に期待する。

皇室用の防空壕?
http://mytown.asahi.com/chiba/news.php?k_id=12000000810230002

 成田市三里塚御料の三里塚記念公園に、地元で皇室用ではないかと伝えられる防空壕(ごう)が残っている。市によると、市にも国にも記録はなく謎のままになっていた。市は21日から地元からの要望を受けて内部の調査を始めた。(的場正)
 記念公園は、成田空港の建設前は宮内庁の御料牧場の一部だった。防空壕は皇族の宿舎などに使われた貴賓館の北に位置し、中央の部屋は深さ5〜6メートルのところにある。広さは6畳ほどで、天井の高さは約2・5メートル。壁はコンクリートで、出入り口は東西に2カ所。それぞれ厚さ約20センチの扉が二重になっていて、その外側に南北へ抜ける幅約1メートルの通路がある。いずれも部屋から見て左側にだけ階段が付いていて、階段の側を出入り口として使い、反対側は近くに爆弾が落ちた時に爆風が吹き抜けるようにしていたと考えられている。
 中央の部屋には電灯が付いていた跡やコンセントが残っている。防空壕の入り口付近にある配電盤には「昭和16年」の文字があり、1941年ごろに建設されたと考えられている。コンクリートの壁には69年の牧場移転後に書かれたらしい落書きもあったが、表面は建設されたときからほとんど劣化していないように見える。
 調査の様子を見ていた地元の人によると、地元では皇室用と考えられていた。「秘密の防空壕」と呼ばれ、御料牧場の関係者は「お文庫」と呼んでいたという。中央の部屋には畳が敷かれていたが、戦後は牧場でとれたサツマイモやジャガイモの貯蔵庫に使われていたらしい。
 2・9ヘクタールの公園一帯は国有地で、市は牧場の事務所棟を「御料牧場記念館」として、貴賓館とともに管理している。だが、防空壕は国にも記録がなく、これまで調査はされていなかった。今回、市が国に調査を申し出たところ、初めて認められたという。
 この日、中に入った小泉一成市長は「当時の最高の技術と材料が使われ、保存状態も想像以上に良かった。貴重な歴史的建造物を一人でも多くの方にみていただけるよう、一般公開に向けて努力します」と話した。

289 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/10/24(金) 10:09:10
興味深い。子供の頃お寺の脇の崖に洞穴があって防空壕だと小学生の間では噂されてましたが本当だったのかなぁ。。
戦争末期は松代に地下要塞建設をしてたのは良く知られてますが,昭和16年だからもっと前の話ですね。
このまま成田に御遷座いただけたら今頃千葉が日本の首府に成ってたかも知れませんなぁw
それにしても新勝寺に空港に防空壕と成田は色々立地してますなぁ。。元々空港も御領牧場などが有って用地買収が簡単とか思ってのことなんでしょうかね。だとすると空港と防空壕の立地は偶然という訳でも無いでしょうけど。

290 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/10/24(金) 10:26:48
やっぱそう(御料牧場があったから空港立地)なんか。。しかも今は廃止されてるのか。未だ残ってるのかと思ってた。。
>当初は千葉県富里村(現・富里市)を建設予定地としていたが、地元自治体との調整は難航した。そのため、1966年佐藤栄作内閣は、建設予定地を同県成田市三里塚に変更した。国有地である宮内庁下総御料牧場や県有林、またその周辺の土地は開拓農民達の物であった為、用地買収は容易に進むと考えたからである。

それにしても今は成田に合併を要請して断られている富里に空港が立地してた可能性もあったのか。

まさか新勝寺と御料牧場は関係あるまいなと思ったが流石に無関係かw

宮内庁下総御料牧場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

前身

江戸時代、下総台地の北部に江戸幕府によって佐倉牧が設置されて、軍馬や農耕馬の放牧地があった。佐倉牧は7つの牧から構成されていたことから「佐倉七牧」とも称され、三里塚一帯には七牧の1つであった「取香牧(とっこうまき)」が置かれていた。明治時代に入り文明開化の煽りを受け、国内での羊毛の生産を高める必要性が起こり、「1.青草に富むこと」「2.樹林地に恵まれていること」「3.物資の輸送に便利な所」を条件に、内務省は用地選定にアメリカの牧羊家アップ・ジョーンズを起用して各地の実地調査を行った。その結果、七牧の一つ取香牧(現:成田市取香、三里塚周辺)の隣接地が牧羊場に定められ、1875年(明治8年)9月、下総牧羊場が開場した。この時、取香牧も閉場し、牛馬の改良に当たる取香種蓄場として発足した。この頃、内務卿・大久保利通は現地の視察を行い、また、牧羊場・種蓄場両場の初代場長に、内務省の岩山敬義が就任した。

設立
1878年(明治11年)5月、大久保が暗殺され非業の死を遂げる。その影響もあってか1880年(明治13年)1月、両者が合併して下総種蓄場となった。この合併は事業を整理する意味合いが含まれていたとされる。下総種蓄場は、場内を三里塚区、両国区(現:富里市両国)など七区に分けられており、本庁は両国区高堀に置かれた。
下総種蓄場の管理は、1881年(明治14年)にそれまでの内務省から新設された農商務省に移され、1885年(明治18年)6月には宮内省御料局の直管となり、1888年(明治21年)10月に「宮内省下総御料牧場」と改められ、それまで高堀にあった本庁が三里塚に移された。その後、牧羊事業は次第に縮小され綿羊の数も減少した。

291 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/11/20(木) 01:23:20
浄土宗、戦争責任を検証
戦後63年、加担を反省へ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1226053946/6

292 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/12/10(水) 17:21:29

終戦時の鈴木首相証言、幻に 天皇へ波及恐れ 東京裁判
http://www.asahi.com/national/update/1210/TKY200812100191.html
2008年12月10日15時6分

 第2次世界大戦後に日本の戦争指導者らを裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)で、日本の弁護団は当初、終戦時の鈴木貫太郎首相を証人に呼ぼうとしていたが、天皇への波及を恐れる声が内部にあり、結局は断念していた。国立公文書館が所蔵する弁護団の内部資料から、こんな事実が分かってきた。国体護持のため天皇を裁判から守ろうとした弁護活動の内幕がうかがえる。

 資料は、法務省が70年代初めまでに収集。移管された公文書館が07年夏以降、公開している。6千冊を超え、専門家の分析も終わっていない。

 「鈴木貫太郎宣誓供述書」と題するタイプ文書によると、千葉県の鈴木邸を1946年5月12日、弁護団の清瀬一郎副団長が訪れた。

 清瀬は鈴木に、45年8月にポツダム宣言を受諾した時、宣言にある「戦争犯罪人」の意味をどう解釈していたのかを尋ねた。宣言が作られた時は、捕虜虐待など通常の戦争犯罪しか国際的に認められておらず、連合国が後から作った「平和に対する罪」や「人道に対する罪」は不当だと理論上、考えていたからだ。

 鈴木を訪れたのは、実際には政府がどう考えていたかを確かめるためだった。

 鈴木「国際法上、既成の概念として何人も疑念を持たざりし為(た)め、閣議に於(おい)ても別に議論は為(な)さず」。通常の戦争犯罪しか想定していなかったという説明だった。

 翌13日に、清瀬が法廷で「戦争犯罪」の解釈に異議を唱えたことは、速記録などで知られる。鈴木証言は、この裏付けの一つだった。ただ判事団は訴えを却下した。

 そこで清瀬は、再び「戦争犯罪」の解釈論を戦わせるべきだと主張。47年1月の「一般委員会取扱事項及劈頭(へきとう)陳述起草について」という文書では、ポツダム宣言受諾時の「首相並(ならび)に連帯責任ある各閣僚」を証人に呼ぼうと提案した。

 しかし、これには内部から反対の声が上がった。清瀬への返信と思われる「清瀬氏劈頭陳述案に対する所見」で、ある弁護人は「終戦は御上の御発意に依(よ)れる」ので、「受諾当時の首相其(そ)の他を証人とするは、御上に如何(いか)なる累を及ぼすや予断を許さざるものあり」と天皇への影響を懸念した。

 もし弁護側が鈴木を呼び、終戦の経緯をたてに「戦争犯罪」の解釈を争うなら、検察側も、終戦を決断したのは天皇だと証人に引きずり出そうとするのでは、と恐れたわけだ。

 いかなる形でも天皇を法廷に立たせないというのは、弁護の絶対方針だった。46年6月14日の「日本弁護団会議記録」には、天皇について「(戦争)責任として煩わさないことは勿論(もちろん)ですが、証人としても煩わさないということで進みたい」とある。

 その後、鈴木は証人に呼ばれず、宣誓供述書も法廷に提出されなかった。弁護側は48年3月の最終弁論で、連合国の「戦争犯罪」の解釈を法律論から批判。しかし判決は、こうした主張を退けた。(谷津憲郎)

■新しい知見

 東京裁判に詳しい日暮吉延・鹿児島大法文学部教授(日本政治外交史)の話 東京裁判で、弁護側は大量の証拠を次々と提出するのを法廷戦術の一つとしていた。にもかかわらず、鈴木元首相を呼ばず、宣誓供述書も提出しなかったのはなぜか。天皇への影響を恐れて、というのは新しい知見だ。この時期、東京裁判で天皇が起訴される可能性はすでになくなっていたが、弁護側にとっての現実的な脅威は、天皇が証人に呼ばれることだった。未提出の大きな理由の一つだろう。

293 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/01/23(金) 15:53:46
硫黄島滑走路、島内移設へ 地下に眠る遺骨捜索要望受け
http://www.asahi.com/national/update/0123/TKY200901230199.html
2009年1月23日15時2分

 太平洋戦争の激戦地として知られる硫黄島(いおうとう)にある海上自衛隊管理の飛行場滑走路について、政府は、島内の別の場所に移設する方向で検討を始めた。地盤の隆起や沈下で運航に支障がでてきかねないため。島内に張り巡らされた地下壕(ごう)の跡などには今も1万3千人以上の戦没者の遺骨が残されており、移設後、滑走路の地下の捜索・収集を進めたい意向だ。

 旧日本軍は戦時中、米軍来襲に備えて硫黄島の地下に陣地を築き、トンネルを張り巡らせた。その長さは約20キロに及ぶといわれる。米軍は壕の開口部をふさぐなどして、日本軍の将兵を殺害した。このため、厚生労働省の把握できていない壕が島内のいたる所にあって、その中に戦没者の遺骨が多数あるとみられている。

 現在の滑走路は幅60メートル、長さ2650メートル。防衛省によると、米軍が1945(昭和20)年、旧日本海軍の元山(もとやま)飛行場を利用して設置した。その後、68(昭和43)年に硫黄島を含む小笠原諸島が米国から日本に返還され、改修を経て、70年5月9日、防衛庁の飛行場となった。米海軍航空母艦の艦載機の夜間発着訓練(NLP)にも使われている。

 硫黄島周辺はもともと火山活動が激しい。防衛省によると、93年に大規模な改修をしたが、その後、滑走路の中央部や東端が沈下する一方、西端が隆起し、凹凸の差は最大80センチになっている。今年度から数カ年かけて、アスファルトで滑走路をかさ上げする大規模な改修を予定し、工事費の一部11億円の予算を今年度分として確保していた。

 ところが、戦没者遺族らから滑走路下の遺骨収集への強い要望があり、方針を転換。現滑走路は応急的な改修にとどめる。本格改修をしてしまうと、今後何十年も滑走路を掘り返すことができなくなり、遺骨収集ができなくなるためだ。

 太平洋戦争の激戦地として知られる硫黄島(いおうとう)にある海上自衛隊管理の飛行場滑走路について、政府は、島内の別の場所に移設する方向で検討を始めた。地盤の隆起や沈下で運航に支障がでてきかねないため。島内に張り巡らされた地下壕(ごう)の跡などには今も1万3千人以上の戦没者の遺骨が残されており、移設後、滑走路の地下の捜索・収集を進めたい意向だ。

 旧日本軍は戦時中、米軍来襲に備えて硫黄島の地下に陣地を築き、トンネルを張り巡らせた。その長さは約20キロに及ぶといわれる。米軍は壕の開口部をふさぐなどして、日本軍の将兵を殺害した。このため、厚生労働省の把握できていない壕が島内のいたる所にあって、その中に戦没者の遺骨が多数あるとみられている。

 現在の滑走路は幅60メートル、長さ2650メートル。防衛省によると、米軍が1945(昭和20)年、旧日本海軍の元山(もとやま)飛行場を利用して設置した。その後、68(昭和43)年に硫黄島を含む小笠原諸島が米国から日本に返還され、改修を経て、70年5月9日、防衛庁の飛行場となった。米海軍航空母艦の艦載機の夜間発着訓練(NLP)にも使われている。

 硫黄島周辺はもともと火山活動が激しい。防衛省によると、93年に大規模な改修をしたが、その後、滑走路の中央部や東端が沈下する一方、西端が隆起し、凹凸の差は最大80センチになっている。今年度から数カ年かけて、アスファルトで滑走路をかさ上げする大規模な改修を予定し、工事費の一部11億円の予算を今年度分として確保していた。

 ところが、戦没者遺族らから滑走路下の遺骨収集への強い要望があり、方針を転換。現滑走路は応急的な改修にとどめる。本格改修をしてしまうと、今後何十年も滑走路を掘り返すことができなくなり、遺骨収集ができなくなるためだ。

294 名前:名無しさん 投稿日: 2009/01/29(木) 00:27:39
ここで良いでしょうかね!?とりあえず、URLのみをば。

朝日新聞襲撃犯、名乗り出る…87年阪神支局で発生 すでに時効、実名公表し詳細語る
http://www.zakzak.co.jp/gei/200901/g2009012817.html

当初、ヤフー(産経)で載って、すぐ削除、それでZAKZAK(夕刊フジ)の、しかもどうゆう訳か「芸能」に載ったそうです。

295 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/01/29(木) 08:31:36
>>294
こういうテロはやりきれんですなぁ。。転載しておきます。

朝日新聞襲撃犯、名乗り出る…87年阪神支局で発生
http://www.zakzak.co.jp/gei/200901/g2009012817_all.html
すでに時効、実名公表し詳細語る

 1987年5月、朝日新聞阪神支局に何者かが押し入り散弾銃を乱射、記者1人が死亡した「赤報隊事件」(時効)の実行犯を名乗る男が、29日発売の週刊新潮に実名で手記を寄せていることが分かった。今年1月、別件で4年間収監されていた網走刑務所を出所した男は昨年1年間、同誌と情報を交換。収監先の刑務所では、朝日新聞記者2人と特別面会もしていたという。

 記事によると、男は都内の元右翼構成員。誰もが知る“公的な組織に属する人物”から「朝日を狙ってくれ」と金で依頼され、「東京本社」「阪神支局」「名古屋本社寮」「静岡支局」の順に襲撃(静岡支局は爆破未遂)。当初言われていた怨恨や思想的背景はなく、記者1−2人を殺害することのみが目的だったという。

 また、一連の朝日新聞襲撃事件と同じ「警察庁指定116号事件」に後に指定された「リクルート会長江副浩正宅銃撃事件」、参考事件の「中曽根康弘元首相襲撃事件」には関与しておらず、「赤報隊」を名乗る犯行声明は後日、別人に書かせたものだという。

 阪神支局襲撃にはバイクを使用し、複数回の下見の後、関西系暴力団に所属する案内役兼運転手と、男の手下で見張り役らの複数で実行。事件から10年後の97年、見張り役の男が自殺したことから、真相を表に出したいという思いを強くした。

 2004年、刑務所収監時に朝日新聞東京本社や阪神支局に手紙を送付し、記者2人との特別面会が実現したが、刑務所の面会室で、記者の1人に高圧的かつ直接的に問いただされたことから面会は決裂。今回の独占手記につながったという。

ZAKZAK 2009/01/28

296 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/03/01(日) 01:08:19

半世紀前の京都知事選「大連立」工作の証拠か 側近?のメモ見つかる
2009.2.28 01:37
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/090228/lcl0902280143002-n1.htm

 高度経済成長期を中心に京都府で7期28年にわたって知事を務め、革新府政時代を築いた故蜷川虎三氏が知事室に残した資料から、蜷川氏3選時の昭和33年の知事選の前に書かれたとみられるメモが見つかった。本来、蜷川氏の対立軸となる自民党側の動向に関する記述で、支持基盤の社会党と自民党が手を組み、無投票3選をもくろんだことをうかがわせる内容。同年には「55年体制」後初の衆院選が行われており、中央で自社2大政党化が進む中、京都では「大連立」が工作されたことをしのばせる興味深い資料となっている。

 メモは、府立総合資料館(京都市左京区)が保管していた。「知事選」と鉛筆で書かれた茶封筒の中に、昭和33年の知事選のスクラップや政見放送時の原稿とともに入っていたという。

 同年4月に行われた知事選は、社会のほか自民からも初めて推薦を受けた蜷川氏が、共産公認、保守系の2候補と対決。70%近い得票率で圧勝した。

 B5判の原稿用紙4枚のメモは手書きで、推薦の構図が決まる少し前に書かれたとみられる。「高山市長より午後三時前に電話があり…」という書き出しで、蜷川氏の側近が「至急耳に入れておきたい件あり」として当時の高山義三・京都市長から呼び出され、伝えられた話を書きとどめ、蜷川氏に渡したとみられる。

 メモには「『社会党推薦』に対する態度は今暫(しばら)く保留して頂き、自、社の『共同推薦』の形ではなく『無選挙』の方向にもってゆきたく思う。又その可能性も高い」と記載。高山氏が、自民党が独自候補を立てない確約を得たことをにおわせる内容で、さらに「東京へは是非行ってほしい。中央との話は出来ている」とし、蜷川氏自ら自民党本部へ行くよう促すような記載もある。

 また、反蜷川派の自民関係者が独自候補の擁立に動かないよう、後に衆院議長となる前尾繁三郎氏のビッグネームを利用したことをうかがわせる記述も。知事選の対立候補として前尾氏の名前がうわさされることについて「泡沫候補を封ずる為の作戦に過ぎない」とし、「絶対出ない者(前尾氏)を看板にしていくのだ」と、周到な戦略ぶりをうかがわせている。

 また「四月解散間違いなし(中略)そのおつもりでやって頂きたい」という記述も。実際、知事選のわずか2週間後には岸信介政権下で「話し合い解散」が行われており、5月の衆院選で自社が全議席の97%を占め、2大政党化が進んだ。

 当時を知る共産党関係者は「高山氏が東京を訪れ、自民党本部から独自候補を擁立しないという確約を得ていたといううわさは当時からあった。それを裏付ける内容だ」と話している。

297 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/03/23(月) 15:57:39
小説「大菩薩峠」から宮沢賢治,赤軍派迄。

大菩薩峠の歌
http://www.ihatov.cc/song/bosatsu.html

 中里介山の未完の小説「大菩薩峠」は、原稿用紙にすれば13,000枚にもなるかという記録的な長編で、「日本一長い小説」とも「世界一長い小説」とも言われます。

 その物語は、武蔵と甲斐の国境にある大菩薩峠の頂上で、机龍之助という一人の剣士が、通りかかった老巡礼を無惨に斬り捨てる場面から始まります。この「動機なき殺人」によって、龍之助は血と欲望にいろどられた終わりのない旅を彷徨う宿命を背負いました。
 時は幕末、その後の龍之助は京で新選組と大立ち回りを演じたり、天誅組の蜂起に加わって失明したりしますが、盲目になることで彼の「音無しの剣法」はますます冴えわたります。善や悪などという観念を超出していくヒーローの魔剣は、さらに多くの人々の血を浴びつづけていくのでした。…

 ここに広がる情景は、私たちがイメージする宮澤賢治の作品世界とは、よほど異質で対極的なものに感じられますから、彼がこの「大菩薩峠」の愛読者であったと聞くと、かなり意外な感じもします。しかし、賢治の初期短篇の中には、何となくこれと相通ずるような劇画調のタッチの作もあり、彼もどこかには、このような世界への親和性を持っていたのだろうと思います。
 何よりも、作者の中里介山は、仏教とりわけ田中智学の主導する国柱会の日蓮主義に強く傾倒していたと言われています。また田中の方も、この小説が世に出た当初、各所でこれを賞賛し推奨していました。したがって、ひと頃の賢治――田中智学に心酔し、文学によって国柱会に貢献しようと決意していた――にとっては、当然この小説は必読の文献だったに違いありません。

 それにしても、読んだ小説をもとに自分で詞と曲を作り、歌曲にして唄っていたというのは、賢治としてもこの物語によほど何かの思い入れがあったのでしょう。…

  さて時は変わって、机龍之助の時代から100年後、また「大菩薩峠事件」と呼ばれる出来事が起こります。
 全共闘運動が敗北した1960年代終わり、最も暴力的な路線をとっていた共産同赤軍派は、「前段階武装蜂起」のための軍事訓練をこの大菩薩峠で行っていました。内偵を進めていた警視庁と山梨県警は、彼らの集結していた山荘を包囲して、最高幹部ら53名を逮捕します。
 この後、追いつめられた赤軍派はますます武器への固執を強めて連合赤軍を結成し、やはり中部の山岳地帯において、組織内部の連続リンチ殺人から「あさま山荘事件」を経て、崩壊へと進んでいったのです。
 机龍之助にしても連合赤軍にしても、暴力に魅入られた人間が歩もうとする道筋は、私たちに強い印象を与えます。また両者のその「修羅」のような行状が、「菩薩」という名を冠した地点で繰り広げられるアイロニーは、何か仏教的な「業」を連想させずにはおきません。
 中里介山がこの小説を形容した言葉で言えば、これはまさに「カルマ曼荼羅」です。

298 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/03/24(火) 11:07:20
やれやれ勿体ない。。

旧吉田茂邸全焼、漏電と放火で捜査/大磯
2009/03/22
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryivmar0903461/

 二十二日午前六時ごろ、大磯町西小磯の旧吉田茂元首相邸二階から煙が出ているのを男性警備員(66)が見つけ、一一九番通報した。木造二階建ての本邸約一千平方メートルを全焼し、約六時間半後に鎮火した。けが人はなかった。大磯署が漏電などによる失火と放火の両面で調べている。

 旧吉田茂邸は要人の会談にも使われた戦後史の舞台の一つ。西武鉄道が一九六九年に買収。県が二〇一二年度からの一般公開を目指し、西武鉄道から敷地を買い取って整備する計画を進めていた。

 大磯署の調べでは、二階部分の燃え方が激しいという。本邸から約二十メートル離れた警備員室内で漏電を知らせる警報器が鳴り、警備員が外に出て出火に気づいたという。二十三日以降に実況見分をして詳しい出火原因を調べる。

 同署や大磯町消防本部によると、邸には火災報知機やスプリンクラー、防犯カメラなどはなかった。

 敷地を所有する西武鉄道広報部によると、本邸には管理人夫妻が週五日、朝から夕方まで滞在している。本邸玄関の鍵は管理人夫妻が持っており、二十一日は夕方に施錠して帰宅したという。警備員は敷地内を一日九回巡回することになっており、出火約三十分前の見回りでも本邸や敷地出入り口の施錠を含め異常はなかったという。

 現場はJR大磯駅から西に約二キロ離れた国道1号と西湘バイパスに挟まれた丘陵地。吉田茂元首相(一八七八〜一九六七年)の養父健三氏が一八八四年に別荘として建て、戦後になり元首相が海外要人を招くため総檜(ひのき)造りの数寄屋風にした。

 政財界の大物が元首相に意見を求める「大磯参り」をしたことで知られる。七九年には大平正芳首相とカーター米大統領(いずれも当時)の首脳会談も行われた。吉田元首相の孫の麻生太郎首相も幼少期を過ごしている。

299 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/03/24(火) 11:12:25
>>298
こんなんばっかやねぇ。。

重要文化財の旧住友家俣野別邸が全焼/横浜・戸塚区
2009/03/15
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryivmar0903273/

 十五日午前五時ごろ、横浜市戸塚区東俣野町の国の重要文化財「旧住友家俣野別邸」から出火、木造二階建ての同別邸母屋約六百五十平方メートルを全焼したほか、隣接する工事用事務所と資材置き場のプレハブ二棟計約百八十平方メートルも全焼した。当時は無人でけが人はいなかった。

 戸塚署によると、現場には火の気がなく、出火元も分からないことから、十六日以降に現場検証を行い、詳しい出火原因を調べる。

 同署などによると、別邸は復元工事中のため高さ約三メートルのアルミ製フェンスで囲まれ、近づくと警備会社に通報する赤外線センサーが設置されていた。

 十四日は作業員九人が午前八時から午後六時ごろまで屋根の下地工事を行い、午後七時半ごろ出入り口を施錠。その際、センサーを起動させて帰宅したという。だが、火災発生時までにセンサーは作動しておらず、出入り口も施錠されたままだったという。

◆旧住友家俣野別邸 1939年に財閥の住友家16代当主の別邸として建設された。昭和前期モダニズムの趣向を凝らし、中世以降のヨーロッパ北部で見られる建築様式を基調とした和洋折衷建築。2004年に国重要文化財に指定。管理団体の市は昨年1月から復元工事を進めていた。事業費は約1億6000万円で11年春には完成し、一般公開される予定だった。

工事で報知器撤去/横浜の旧住友家別邸
2009/03/17
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryivmar0903342/

 横浜市戸塚区東俣野町の国指定重要文化財「旧住友家俣野別邸」が全焼した火災で、昨年一月の復元修理工事着工後、邸内の火災報知機が撤去されていたことが十七日、分かった。戸塚署は同日から現場検証を開始。工事施工業者などから事情を聴き、出火原因を調べている。

 工事を監理する市まちづくり調整局と戸塚消防署によると、邸内の天井に備え付けてあった火災報知機があると工事に支障が出るとして、協議の上、昨年五月以降に報知機を撤去したという。

 消防法施行令では、重要文化財の建造物には火災報知機の設置が義務付けられているが、同消防署は「工事などで関係者以外が立ち入れない状況では(施行令は)適用されない。必ずしも火災報知機を設置しなくてはならないわけではない」と説明している。

 同局は工事期間中、施工業者に邸内での喫煙の禁止や消火器の設置などを記した説明書を配布し、二週間に一度のペースで点検していたという。

 戸塚署によると、別邸は高さ約三メートルのアルミ製フェンスで囲まれ、防犯センサーが設置されていた。センサーは異常の有無にかかわらず四時間おきに警備会社に通報する仕組みとなっており、出火の約一時間半前には異常は報告されなかったという。

300 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/03/24(火) 15:22:45
>>298

戦後保守政治の舞台が灰に…絶句する地元住民ら
(2009年3月22日21時26分 読売新聞)

旧吉田邸全焼:防火設備なく 貴重品も灰に
毎日新聞 2009年3月22日 21時46分(最終更新 3月23日 2時38分)

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1036413264/2830-2835

301 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/03/31(火) 03:13:41
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1194191152/83-84で出てきた高峰譲吉。
凄いですねぇ〜。
それにしても加賀藩典医の家の出とは知らなかった。

“三共の初代社長”―高峰譲吉―
http://www.geocities.jp/kazumihome2004/13-5.html

 高峰譲吉は近代資本主義の二つの神器、科学技術と産業をともに手にした最初の日本人である。研究開発が産業と結びつけば、巨大な富を生むことを実証して見せた。三共の初代社長にして、二十世紀初頭の世界をリードした高峰は、政府役人、科学者、実業家、“日米親善特使”の四つの顔を駆使した。米国人女性と結婚し、日米の融和に尽力した国際人でもある。その独創を支えたのは、粘り強い知的探究心と、臆することなく世界と向き合う「志の高さ」ではなかろうか。


1854 加賀藩典医・高峰精一の長男として、現在の富山県高岡市に生まれる
1862 金沢の藩校、明倫堂に8歳で入学
1865 長崎留学、英語を学ぶ
1868 京都の兵学塾、大阪の緒方塾に学ぶ
1869 大阪医学校・大阪舎密(せいみ)学校入学
1873 工部大学校(現・東大工学部)に入学、応用科学を専攻
1880 英国留学
1884 帰国後、米国ニューオーリンズ万博に事務官として出張、キャロライン・ヒッチと婚約
1885 特許局長代理
1887 キャロラインと結婚、人造肥料会社を興す
1890 高峰式元こうじ改良法で特許。米国移住
1892 高峰式のウイスキー製造実験に成功
1893 モルト業者が強く反発、工場が全焼。肝臓病で重体に
1897 米パーク・デービス社と消化酵素タカヂアスターゼの製造開始
1899 日本での同酵素製造販売のため、三共商店(現三共)を設立
1901 上中啓三とともに、アドレナリンの抽出に成功
1921 ワシントン平和会議の事前パーティなど、日米の融和に奔走
1922 7月22日、68歳で死去

以下略

302 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/04/04(土) 15:22:43
すげえ。。
「昭和の脱獄王」

白鳥由栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E7%94%B1%E6%A0%84

303 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/05/21(木) 22:27:02
興味深いデータなので転載保存。

151 名前:千葉9区[] 投稿日:2009/05/16(土) 12:00:00
おもしろいデーターです
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/giin/1242432267/103-203
165 :無党派さん ◆UVotersb9o :2009/05/16(土) 10:51:39 ID:+ImmaWui
衆院選惨敗ワースト記録・党首付(第二次大戦後のみ)
議席は追加公認含む
ただし党分裂の場合は去った議員の分を、併合の場合は来た議員の分を相殺
*分裂 +併合
それ以外の引き抜き・補選・引退・公職追放などでの変動は考慮せず

自由党、1949年民主党はいずれも自民党の源流の一部

1 -163 273→110 1946進歩/町田忠治
2 -85 133→48 1949社会*/片山哲(労農へ11→7)
3 -79 191→112 1955自由*/緒方武虎(鳩山自由へ43→鳩山民主へ)
4 -66 180→114 2005民主/岡田克也
5 -65 138→73 1993社会*/山花貞夫(板橋民主へ1→0)
6 -51 141→90 1969社会/成田知巳
7 -35 35→0 1952共産/田球一
8 -28 287→259 1983自民/中曾根康弘
9 -27 269→242 1952自由/吉田茂
9 -27 113→86 1986社会/石橋政嗣
11 -26 96→70 1949民主/犬養健(同志クへ32→民自へ)
12 -24 58→34 1980公明/竹入義勝
13 -23 40→17 1960民社/西尾末廣
13 -23 304→281 1990自民+/海部俊樹(新自クから5)
15 -21 40→19 1976共産/宮本顕治
16 -19 279→260 1976自民*/三木武夫(新自クへ5→18)

バカ負けしているのは軒並み野党。例外は鳩山ブームで議席を獲られた1955年の自由党くらい。
1946年の進歩党は、選挙前に259人が公職追放されたので特例と見るしかない。
議席数を考慮すると、自民の安定度恐るべし(1993年は分裂を相殺すると逆に+1)。
あの公明さえ結構な大敗を経験しているのに。
ちなみに党首自身が落選したのは片山哲だけ(町田忠治、田球一は選挙前に公職追放)。

152 名前:千葉9区[] 投稿日:2009/05/16(土) 12:00:23
175 :無党派さん ◆UVotersb9o :2009/05/16(土) 10:53:32 ID:+ImmaWui
衆院選躍進ベスト記録・党首付(第二次大戦後のみ)
議席は追加公認含む
ただし党分裂の場合は去った議員の分を、併合の場合は来た議員の分を相殺
*分裂 +併合
それ以外の引き抜き・補選・引退・公職追放などでの変動は考慮せず

自由党、民自党、1955年民主党はいずれも自民党の源流の一部

1 +108 161→269 1949民自+/吉田茂(同志クから32)
2 +102 46→148 1946自由/鳩山一郎
3 +83 213→296 2005自民*/小泉純一郎(国新へ3→4、新日へ3→1、公認漏れ26→13)
4 +81 15→96 1946社会/(片山哲)委員長空席で片山は書記長
5 +65 120→185 1955民主/鳩山一郎
6 +53 86→139 1990社会/土井たか子
7 +48 96→144 1947社会/片山哲
8 +45 259→304 1986自民/中曾根康弘
9 +41 98→129 2000民主/鳩山由紀夫
10 +38 0→38 1993日新/細川護煕
11 +31 4→35 1949共産/田球一
12 +29 258→287 1980自民/(大平正芳)選挙中死去により西村英一が代行
13 +29 151→180 2003民主+/菅直人(自由から22)
14 +28 90→118 1972社会/成田知巳
15 +27 29→56 1976公明/竹入義勝
16 +26 14→40 1972共産+/野坂参三(沖縄人民から1)

例の郵政解散など、ワーストに比べて自民が上位に食い込んでいる。
保守合同以前の保守政党が上位にいるのも特徴。
また社会の乱高下も読み取れる。

153 名前:名無しさん[] 投稿日:2009/05/16(土) 13:44:55
>>151に自民党が
>>152に民主党がランクインするのは間違いない

304 名前:千葉9区 投稿日: 2009/06/01(月) 22:32:20
http://www.asahi.com/international/update/0601/TKY200906010354.html
タイタニック号、最後の生存者死亡 97歳の英国女性
2009年6月1日20時25分

 【ロンドン=土佐茂生】1912年に大西洋で沈没し、1500人以上の犠牲者を出した英豪華客船「タイタニック号」の最後の生存者ミルビナ・ディーンさんが5月31日、英南部サウサンプトンの介護施設で死去した。97歳だった。英メディアによると、最近、肺炎を患っていた。

 1912年2月英国生まれのディーンさんは生後9週だった同年4月、両親が米カンザス州に移ってたばこ屋を開くために、タイタニック号の3等客室に乗った。

 船が氷山にぶつかる音に気付いた父の指示で客室から甲板に上がった母や兄に連れられ、救命ボートで脱出して助かったという。船に残った父は死亡した。

 晩年は入居していた介護施設の料金月3千ポンド(約46万円)の工面に苦労し、救助後に与えられた救援物資の入ったスーツケースなど、思い出の品をオークションに出した。このため、映画「タイタニック」に出演したレオナルド・ディカプリオさんやケイト・ウィンスレットさんが支援を約束していた。

305 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/06/07(日) 22:51:46
NHKでやってますけど,愛国婦人会と国防婦人会は仲が悪くて悪口言い合ったりして戦争への貢献度を競い合ったそうです。
それらを統合して大日本婦人会となったそうな。

●婦人会 ふじんかい
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P330C100.HTM
アジア 日本 AD 
 婦人会の先駆者は奥村五百子で,軍人遺族の救護事業を目的として愛国婦人会を組織したことに始まる。

【奥村五百子】明治期の国粋・軍国主義に則った婦人運動家。1845年(弘化2)唐津の本願寺派高徳寺住職の長女として生まれる。17,8歳のころ,父兄の尊王攘夷運動を助け男装して萩藩への使者役を務めたこともあった。22歳で福成寺の住職と結婚したが死別し,のち水戸浪士鯉淵彦五郎と再婚。維新後江藤新平を支持し征韓論に賛同,大陸に関心をもつ。1887年(明治20)離婚し政治社会問題に没頭する。1894年(明治27)初めて朝鮮に渡り,日清戦争を経て再三朝鮮を訪れ同29年光州に実業学校を創設,子女の教育に尽力した。北清事変が起き日露戦争へと突入するなか,わが国の将兵が辛苦をなめる状況を視察し,全国の婦人が半襟一つを節約すれば軍人の援護は可能であると訴え,1901年(明治34)愛国婦人会を設立した。1907年(明治40)没。享年63歳。

【愛国婦人会】1901年(明治34)貴族院議長近衛篤麿の後援により,岩倉久子を初代会長として創立。総裁や名誉会長に皇族を頼み,会長・役員に華族や名流婦人を推し,上流婦人のみを対象とした構成であった。その数は1万3,000人にものぼり,日露戦争を契機に大飛躍を遂げ会員の人数も46万人と増大した。女性の戦争への協力を訴え,慰問団を満州に派遣するなど愛国思想を広めた。戦後は戦死者の遺族・傷病軍人の救護などの活動のほか,農村託児所をつくるなどの社会事業にも手を広げた。1917年(大正6)には事業範囲はさらに広がり,婦人の知識・道徳を高めるという婦人報国運動を起こした。昭和12年には会員数380万人となり,本部支部が台湾・朝鮮にも設けられた。このころ愛国婦人会と同様の趣旨で組織された婦人会に大日本国防婦人会・大日本連合婦人会があった。大日本連合婦人会は1931年(昭和6),文部省によって地域婦人団体(主として農村の女性)を統合した形で結成された。

【大日本国防婦人会】翌1932年,大阪で国防婦人会が結成され次いで東京でも結成された。1934年(昭和9)には大阪・東京の組織を統合した。会長には武藤能婦子がなり,愛国婦人会が上流社会の女性達によって組織されていたのに対し,陸軍・海軍大臣などの現役の将官夫人が幹部を務め,陸軍の監督のもとで後援を受けた。結成時の会員数は750万人であったが,1941年(昭和16)には1,000万人になっていた。会の目的は愛国婦人会と同じく戦時体制のもとでの婦人の国家への協力を促し,傷痍軍人や遺族の後援・慰問品の募集,さらには防空訓練を行い銃後を守るというものであった。こうした婦人会の活動のなかで,時局はますます戦闘の色を濃くしていき1941年太平洋戦争へと突き進んでいった。当局は非常事態を乗り切るため国民の大統一化をもくろみ,各婦人会を解散させ改めて一つの団体として統合させた。

【大日本婦人会】1942年(昭和17),太平洋戦争中に政府によって結成された婦人会の統合組織。国家への奉仕という精神に基づき,軍部・官庁の監督下で,軍人の援助・防空訓練を積極的に行うことはもちろんのこと,廃品の回収による節約,貯蓄の強化などの活動を行った。20歳以上の婦人をすべて強制加入させ,賛沢は敵とする集団活動は,婦人同士の行動を戒める方向へ向かい,共同意識を高めるとともに戦時下を婦人の手で守り抜くという体制翼賛運動を展開した。しかしその反面体制への批判・不満などを口にする者は即座に非国民のレッテルをはられ,さらには生活上の細部に至るまで統制する結果も招いた。1945年(昭和20),大日本婦人会は国民義勇隊に改編した。しかし戦争終結とともに解散しここに軍国主義的国策に沿った婦人団体は姿を消した。ただ婦人会としては家庭の主婦が協力し合い,平和を願う基本方針のもとに地域社会を形成する団体として,1952年(昭和27)に全国地域婦人団体連合会が結成され,現在に至っている。

306 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/06/16(火) 02:53:47

韓国人だと捏造だとかファビョるネトウヨですが豪州人ですぞw

元捕虜「麻生首相は謝罪して」 旧麻生鉱業で炭鉱使役
http://www.47news.jp/CN/200906/CN2009061501000678.html

 第2次世界大戦中、麻生太郎首相の父が経営していた旧麻生鉱業の吉隈炭鉱(福岡県桂川町)で使役されていた元連合国軍捕虜のオーストラリア人男性らが来日、同県飯塚市で15日記者会見し「わたしたちに与えた苦しみに対し、麻生首相は国を代表し謝罪していただきたい」と訴えた。

 来日したのは元捕虜のジョセフ・クームズさん(88)と息子2人、英国人捕虜だった故パトリック・マクアナルティさんの息子ジェームスさん(62)の計4人。16日に首相の親族が経営する麻生グループの親会社「麻生」(飯塚市)や吉隈炭鉱跡などを訪問する。

 クームズさんは1945年5〜8月に吉隈炭鉱で労働。「落盤事故が相次ぎ恐ろしかった。12時間もの重労働と粗末な食事のために両ひざを痛めた」と振り返った。首相に謝罪と補償を求める手紙を何度も送ったが返事がなく「奴隷のような労働をさせられた事実を認めてほしい」と訴えた。
2009/06/15 19:22 【共同通信】

308 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/06/19(金) 00:30:14

別に乱を起こしたから賊だなんて思うべきではないと思う。政治なんてその時々の為政者の都合の良いように書かれるわけだし。反乱軍は印象が悪いという印象論の方を教育すべきかもしれぬ。日華事変を日中戦争,大東亜戦争を太平洋戦争としてイデオロギーを排したように佐賀の乱も佐賀戦争とすべきなのかもしれんね。西南戦争は最初から西南戦争だったんでしょうかね。

「佐賀の乱」にわかに地元白熱 「乱じゃない、戦争だ」
http://www.asahi.com/national/update/0612/SEB200906110032.html
2009年6月15日16時37分

 明治政府樹立後の士族の反乱のうち、佐賀藩出身の江藤新平を中心におきた「佐賀の乱」について、「国を乱したという印象を持たれる。表現を改めるべきだ」という意見が地元で持ち上がっている。新平は「首謀者」として処刑されたが、「新政府に仕組まれた戦争」とする学説も登場。歴史教科書の表記をめぐっても議論が起きている。

 11日の佐賀市議会。自民党系の市議が「中学校の歴史教科書の図表に『佐賀の乱』と記されている。印象が悪く放置できない。『佐賀の役』などと改訂を求めて運動すべきではないか」と質問。田部井洋文教育長は「授業で使う資料集では、最近の研究で佐賀の乱に新しい見方が出てきていることを紹介している。諸説ある中で史実を多面的に教えている」と答えた。

 論争の火付け役は「幕末維新と佐賀藩」(中公新書)などの著書がある毛利敏彦・大阪市立大名誉教授(76)。4月に佐賀市内であった講演では、佐賀の乱を不平士族の反乱とする通説に対し、「大久保利通が一方的に仕掛けた」との自説を紹介した。

 ただ、「乱」を「役」に改めるのには否定的。「『役』という言葉は国家権力の発動によって人民に無理を強いること。史実からすれば、中立的に『佐賀戦争』と言うべきだ」と話している。

 佐賀市内で毎年開かれる新平らの慰霊祭では「佐賀の役」と呼ばれ、「佐賀の役記念碑」もある。新平のひ孫の江藤兵部さん(69)=埼玉県=は「小さな頃から佐賀の乱と言われ続けてきたが、事実と違うという研究が進んできた。子孫の一人としてはありがたい話で、歴史認識を改めるきっかけにしてほしい」と話す。(白石昌幸)

 〈佐賀の乱〉 1874(明治7)年、明治政府の改革に不満を募らせた士族が起こした最初の反乱。政府軍が鎮圧し、明治政府の初代司法卿を務めた江藤新平、秋田県令(知事)を務めた島義勇(よしたけ)らが処刑された。これ以後、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争と、西日本各地で士族の反乱が相次いだ。

309 名前:名無しさん 投稿日: 2009/06/19(金) 02:09:30
>>308
「乱」を起こしたことに誇りを持って欲しいですね。

というか「大久保利通が一方的に仕掛けた」という説が事実なら、
江藤新平はカッコ悪いと思うんですが…

310 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/06/19(金) 03:57:27
>>309
ですよね〜。
けど保守地盤の佐賀としてはややいたたまれない部分もあるんでしょうかねぇ。

大久保の挑発に乗せられたって部分はあるのかな,と云う気もしますが,当時の士族の不満は可成りのものだったでしょうから江藤としてはやむにやまれぬ心境だったのかもしれませんね。
司法の整備に力を注いだ元司法卿が叛乱の大逆を御犯す訳ですからさぞかし心中複雑であったかと思います。

311 名前:千葉9区 投稿日: 2009/06/21(日) 17:49:27
http://www.okinawatimes.co.jp/news/2009-06-20-M_1-025-1_001.html?PSID=a12b3b95c354dfb914d0ea98f29a8692
「軽便」糸満駅確認 鉄道ファン、住宅密集地で/「戦禍免れ現存 驚き」

手洗いに弾痕も


 【糸満】沖縄戦で破壊された軽便鉄道の糸満駅の一部とみられる建造物が糸満市照屋の住宅密集地に現存していることが19日までに分かった。元県立図書館館長の金城功さん(76)=那覇市=ら鉄道ファンのグループが調査し、トイレと浴室だった建物の下部部分を確認した。同鉄道の施設で現存しているのはほかに与那原町に1カ所のみ。糸満駅周辺は沖縄戦の激戦地で、金城さんは「あの戦争で破壊をまぬがれ、戦後60年余りも残っているのは驚き」と話している。(与那嶺功)

 現存するトイレには、弾痕や便器、男性用小便器の間仕切り、排水用の穴などがみえる。浴室は職員用だったとみられる。戦後、上部が増築され、しばらく住民が利用していたという。

 近くに住み、戦前の一帯をよく知るという伊敷喜栄さん(71)は「駅舎があった場所で、すぐ横をレールが走っていた。トイレだったのは間違いない」と話している。

 調査に加わった桃坂豊さん(48)(福岡県文化財保護指導委員)は「今回の確認で、糸満駅の場所が特定できた。銃弾の跡が痛々しく、戦争遺跡でもある」と感慨深げ。

 金城さんは「行政が標識などを立て、歴史的意義を広く知らせてほしい」と要望している。

 軽便鉄道の施設では、JAおきなわ与那原支店の1階壁に、旧駅舎の一部分が再利用されている。

312 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/06/27(土) 15:22:02
左の日本が悪い,右の日本は悪くないと云う対立は不毛である。日本も英米も悪な訳である。
まあ実際に東京の非戦闘民を攻撃したのはアメリカだけど。

英、第二次大戦中に東京の毒ガス攻撃を検討 文書公開
2009.6.27 11:34
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090627/erp0906271135005-n1.htm

 第2次世界大戦中の1944年に英当局が東京への大規模な毒ガス攻撃を検討していたことを示す文書が英国で公開された。英紙タイムズ(電子版)が26日に報じた。

 タイムズによると、英政府の研究者は1944年5月の「ガス爆弾による東京攻撃」と題された文書で、英軍から提供を受けた東京の写真や情報に基づき、ホスゲンとマスタードガスの2種類の毒ガスを使った効果的な攻撃を分析した。

 毒ガスの使用時期については、夏の大雨の合間を縫って攻撃できるのであれば「(冬より)夏の方が良い」と指摘。

 また東京の住宅密集地域の道路は狭く、ガスの流れが阻害されるため「極めて多くの小型(毒ガス)爆弾」の使用を提言した。

 東京への攻撃は、まず最初に焼夷(しょうい)弾を使って木造住宅が密集する地域で火災を起こした後で、近代的な建物が多い地域で、毒ガス攻撃を行うのが最も良い方法だとした。(共同)

313 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2009/08/09(日) 00:59:52
インパール作戦は何のためだったのか。私も現代史の本は結構読んでるつもりだが、本当に何のためだったのか。

語り継ぐ夏:09京都/2 インパール作戦に従軍した桑原眞一さん /京都
http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20090807ddlk26040537000c.html

◇戦友慰霊が役目、鎮魂の五条通復元図作り−−桑原眞一さん(87)=下京区
 「目の前で多くの仲間が倒れた。目玉が飛び出たり、腕を失ったり。即死もしょっちゅうだった。それでも怖いとか可哀そうとか考える余裕はなかった」。ずさんな計画で約7万人もの戦死・傷病者を出し、日本陸軍瓦解の発端とも言われるインパール作戦に従軍。何度も死線を越えた。
 赤紙が届いたのは大学在学中の1941年12月。入隊後、大隊砲を任された。中国・南京西方で揚子江沿いの警備を約1年務め、ベトナム、カンボジア、タイへと転戦。中国への補給ルートを断つため、数カ月の行軍を経て44年2月末、インド北東部のインパールに着いた。
 ここで、小銃隊はそれぞれ通常の2倍を超える20日分の米や乾パンなど食料と弾薬360発を持たされ、英印軍掃討のため、山間部の移動を繰り返した。戦況は泥沼。5月末には大隊砲の弾薬が尽き、戦闘だけでなく、飢えやマラリアで仲間がばたばた倒れた。
 「時には敵と鉢合わせになり、手投げ弾でやり合った。迫撃砲がすぐそばの樹木に当たって爆発し、仲間が吹き飛ばされたこともある。毎日夕方の点呼の度、戦友が一人、また一人と減っていった」。自身もその後、イラワジ川会戦で迫撃砲の破片が左腰部分を直撃。命に別条なかったのが不思議なくらいだという。
 そして、タイのノンプラドクで45年8月15日を迎えた。連隊長が停戦を命じ「次の命令があるから兵器を手入れしておくこと」と指示。すぐに敗戦のうわさが広がった。同月30日「敵に取られるよりはまし」と軍旗を「奉焼」した時、はっきり負けを悟った。全員ボロボロ泣いた。
 それから約10カ月、英印軍の捕虜としてタイの兵舎で過ごし、46年6月に復員した。生まれ育った下京区の五条通かいわいでは「建物疎開」があり、空襲の延焼を防ぐため、以前の自宅は強制的に取り壊されていた。
 多くの戦友の死を看(み)取った戦場から帰ってみれば、同じ小学校区から出征した同部隊の10人の中で生き残ったのは自分1人。仲間たちの死に対し、何もできないことを悔やんできたが、地元で07年8月に始まった五条通の復元図作りに加わり、少し当時を振り返る心の余裕ができた。
 「通りを歩くと、どうしても昔を思い出す。戦友を慰霊することが生きて帰った自分の役目。地図を作ることで戦友らをしのぶ気持ちもあったんです」
 その“成果”は9日まで立命館大学国際平和ミュージアム(北区)で展示されている。

314 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/09/01(火) 10:22:28
【正論】元駐タイ大使・岡崎久彦 「リベラル政権」の桎梏忘れるな
2009.9.1 02:58
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090901/stt0909010259002-n1.htm

 ≪政策変更には長大な時間≫

 「一利を興すは一害を除くに如かず。一事を生(ふ)やすは一事を省くに如かず」という政治の要諦は、ジンギスカンに仕え、ユーラシア大陸空前絶後の大帝国である元帝国の基礎を築いた大宰相、耶律楚材(やりつそざい)の千古の名言である。

 民主党新政権の発足を控えて、私がこの言葉を引用したいのには二つの理由がある。一つは過去のリベラルな政権が遺したものが長く日本国民の桎梏(しっこく)となった例があまりに多いからである。

 民主党がリベラルな政権であるかどうかは今の時点ではよく分からない。ただ、民主党の中には左翼リベラルの流れを汲む人々が少なくないのも事実である。

 戦後日本でリベラルあるいは左翼的な政権と言えば、三木、細川、村山、宮沢各内閣であろう。

 三木内閣の残したものの中で、F−4戦闘機から空中給油能力を外したのを復元するのにはF−15の発注まで待たねばならなかった。防衛費の1%の枠を外すのには中曽根内閣まで10年を要した。武器輸出三原則の拡大解釈は三十余年を経ても今なお日米同盟の障害である。

 また、三木総理が自分の靖国参拝を「個人の資格」でと言った結果、天皇の行事には公私の区別をつけるのが難しいので、戦没者慰霊のために戦後欠かさず続けられていた天皇陛下の靖国参拝がそれ以来妨げられている。それは、韓国、中国の反対で靖国が国際政治問題化する10年前の話である。

 ≪「自民党単独」の残滓も≫

 細川内閣はさして負の遺産は残していない。1994年の北朝鮮核危機で日米間に不協和音が生じる恐れがあったが、内閣は自ら退陣して同盟の危機を避けた。それはそれなりに日本の国益に沿った立派な出処進退だったと思う。

 村山内閣が、国会の多数の支持もないまま、一方的に発した村山談話が、その後日本外交に及ぼした足かせについては今更言うまでもない。

 他に鈴木政権の教科書問題の時の宮沢官房長官談話、そして宮沢内閣の時の従軍慰安婦に関する河野談話は長く傷痕を残した。

315 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/09/01(火) 10:22:49
>>314-315
 民主党政権は心して、このような後世の手を縛る一事を生むことを慎んでほしい。非核三原則の法制化などは、万一の場合によっては、国民に惨害をもたらす可能性をよく考えてほしい。党内の良識派も監視機能を発揮してほしいし、また、三木、村山政権と違うのは自民党という強力な野党が存在していることであり、自民党は国会で、そういう余計な一害が生じるのを避けるよう十分なチェック機能を働かしてほしい。

 他方、省くべき一事としては、自民党支配半世紀の残滓(ざんし)は少なくない。

 ただし、外交安保政策においては、他国との信頼関係維持のために、政権が代わっても一貫性が保たれるべきことは鉄則である。現に村山内閣といえども、就任早々日米同盟“堅持”の大原則を声明した。インド洋海上補給などは、民主党も支持している日米同盟の維持強化のための政策であり、省くべき一事とは性質が違う。

 ≪集団的自衛権に突破口を≫

 しかし、むしろ同盟の信頼関係強化を損ねるような、自民党単独支配の残滓がある。その整理を民主党政権にお願いするスジかどうかわからないが、政権が代わったときこそかかる堆積(たいせき)物を整理する機会であり、そうでなければ、二大政党交代の意味がない。

 その堆積物の最たるものは、集団的自衛権の行使は許されないという政府解釈である。

 そもそも憲法の解釈権は、政府でなく、裁判所にあると憲法に書いてある。まして、国会が批准し、憲法が遵守義務を定めている国連憲章などの条約に明記してあるのだから、日本にはその権利がある。権利があって、その行使が許されないなどという解釈は法治国家ではあり得ないことである。

 実は、選挙戦中の自民、民主の政策論争を通じて、集団的自衛権問題の一つの突破口が見えて来たかもしれないのである。

 それは自民党のマニフェストが集団的自衛権という言葉を使わず、単に、日本を守っている米国を攻撃するミサイルを撃ち落とす、共同行動をしている米艦を守るという、常識で反対出来ない問題提起の仕方をしたからである。

 もともと集団的自衛権が憲法問題だというのは、こじつけが重なって出来た解釈である。裁判所の有権解釈はすでに日本固有の自衛権を認めているし、集団と個別の間に線など引いていない。

 民主党も、これは憲法問題とは無関係で、ただ日本国民の安全を守るにはどうするかという行政府の政策の問題だと割り切れば、それこそ自民党支配半世紀の残滓を一挙に解決することになる。

 どうしても行使したくなければ、法的問題としてではなく民主党政権の間は政策として行使しないと言えば良いだけの話である。ただ、不測の事態を考えれば、それも言ってほしくはない。

 とにかく国民の安全に一害を加えるのを厳に慎むことである。(おかざき ひさひこ)

316 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/09/15(火) 22:13:33

<河村名古屋市長>南京大虐殺「誤解されて伝わっている」 (毎日新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_takashi_kawamura__20090915_6/story/15mainichiF0915e071/

 名古屋市の河村たかし市長は15日開かれた市議会9月定例会の一般質問で、1937年の南京大虐殺事件について、30万人以上が死亡したとする説について、「当時の南京の人口より多いので絶対違う」と否定し、「一般的な戦闘行為はあったが、誤解されて伝わっているのではないか」などと述べた。

 河村市長は「おやじは終戦を南京で迎えた。南京の人に本当に優しくしてもらい、名古屋に帰ることができたと言っていた。30万人の虐殺があったら8年後に南京の人が優しくしてくれるのか」と疑問視。「一般的な戦闘行為で市民が亡くなったことはあった。捕虜収容所で放火があって市民が亡くなったり、残っている日本人を逃がそうとして銃撃戦になり、市民が亡くなった。そういうものが誤解されて伝わっているのではないか。事件そのものについて日中友好のためにきちんと検証し直す必要がある」となどと述べた。

 東郷哲也議員(自民)の市長の歴史認識を問う質問に答えた。

 河村市長は議会後、発言の真意について「日中友好を深めるため、正確なことを調べた方がいい。(死者数は)30万人説があれば、25万、3万もある。国会議員時代にも質問主意書を出している」などと語った。

 河村市長は著書の中で、「南京大虐殺は国民党のプロパガンダだったかもしれないとか言っていると、『河村たかしは陰謀史観』とかいう声が聞こえてくる。ワシは特別変わったことを言っているわけではない」などと記している。

 衆院議員時代の06年には、政府に対し「いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問主意書」を提出。教科書などに「市民や捕虜の殺害」などが記載されている根拠や、政府見解を改めてただした。当時の小泉内閣は「1937年の旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害または略奪行為等があったことは否定できないと考えている」と答弁書を出した。【月足寛樹、丸山進】

[毎日新聞9月15日]

[ 2009年9月15日14時14分 ]

317 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/10/04(日) 04:33:49
506 名前:無党派さん[] 投稿日:2009/10/02(金) 17:26:42 ID:0wwy023u
この前の「たかじんのそこまで言って委員会」で三宅久之が麻生と会って話した体験から、
言ってたけど、麻生はもの凄い楽観主義者で「もうすぐ給付金が国民に行き渡るから、
支持率は上がりますよ」みたいな態度だったそうだ。東條とそっくり。

東条英機首相
「大詔を拝し奉りて」

《およそ勝利の要訣は、「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、
我等は、未だ嘗つて戦ひに敗れたるを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる
強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。》

なかなか辞めようとしないところもそっくり。東條暗殺計画を相談された石原莞爾はそれに
賛同し、「あいつは殺しでもしない限り辞めないやつだ」と言ったそうだ。

そして、玉砕。

むかし東條、いま麻生w
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/giin/1246372643/84-86

318 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/10/25(日) 00:53:11

西松建設が基金設立で和解 中国人強制労働、謝罪も
10/23 12:36
http://www.shizushin.com/news/social/national/2009102301000020.htm

 太平洋戦争中に強制連行され、過酷な労働を強いられたとして、中国人の元労働者ら5人が西松建設(東京)に1人550万円の賠償を求めた訴訟をめぐり、同社は23日、2億5千万円を信託して被害救済に向けた基金を設立し、謝罪することなどを条件に原告側と東京簡裁で和解した。
 訴訟自体は2007年に最高裁で元労働者側の敗訴が確定したが、この判決が「被害者らの精神、肉体的苦痛は大きく、関係者には被害救済に向けた努力が期待される」と指摘したことを受けて、双方が協議。今回、訴訟とは別の「即決和解」手続きを取った。
 戦後補償訴訟で、賠償責任を否定された企業側が自主的に金銭補償に応じるのは異例。同種裁判でのほかの被告企業にも影響を与えそうだ。
 和解条項によると、西松側は強制連行の事実を認めた上で、企業としての歴史的責任を認識し、元労働者側に謝罪の意を表明。広島県安芸太田町の安野発電所建設工事に携わった原告ら360人の中国人元労働者を対象に、2億5千万円の「西松安野友好基金」を設立するほか、後世の教育のため記念碑を建立する。
 元労働者らは1998年に提訴し、一審広島地裁で元労働者側が敗訴したが、二審広島高裁で逆転勝訴。最高裁判決は「日中共同声明で個人の賠償請求権は放棄された」として請求を棄却した。
 西松側は、今年発覚したダミー団体による政治資金規正法違反事件を踏まえ「会社の今までの問題を見直す一環」として和解に取り組み、新潟県での強制労働をめぐる訴訟でも同様の和解を検討している。

319 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/10/25(日) 16:33:35
英国で「佐賀の乱」公文書発見 駐日大使が母国に報告
鹿島出身の徳本栄一郎さん発見
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1455771.article.html

 明治政府に対する士族の反乱とされる「佐賀の乱」(1874年・明治7年)について記述したイギリスの公文書が英公文書館で見つかった。当時の駐日大使が英政府に送った報告書で、24枚の文書には佐賀の乱を単なる一地方の反乱ではなく、「明治新政府内の対立を背景にしたもので、結末に不満もあり、政府は信頼を回復していない」という内容が書かれている。外国高官の目で佐賀の乱を分析した貴重な史料といえる。

 鹿島市出身のジャーナリスト徳本栄一郎氏(45)が今年6月、ロンドン郊外の公文書館で日本関連文書を閲覧して見つけた。佐賀の乱に関する外国公文書の発見は初めてとみられる。

 報告書は1874年4月25日付で、幕末から着任していたハリー・パークス大使が英外務大臣あてに送っている。首謀者とされる江藤新平の処刑日から12日後の日付になる。

 徳本氏によると、報告書は裁判の様子を記して「死刑に加えて江藤前法務卿と島(義勇)らはさらし首にされた。この判決は大きな不満も呼んでいるようだ」と指摘。政府軍に反抗した榎本武揚が後に特赦で要職に就いた例と比較して刑が重すぎるという意見を紹介、「佐賀の乱鎮圧で政府への信頼が回復したとは言えない」と分析している。

 さらに大蔵卿大隈重信らの辞任や、鎮圧を指揮した内務卿大久保利通の動きを報告し、「新政府が分裂し、人々は個人的感情が(江藤処刑に)復讐の性格を与えたと考えているようだ」としている。

 「佐賀の乱」をめぐっては、明治政府に不満を募らせた佐賀の士族が起こした反乱という通説に対し、明治維新史に詳しい毛利敏彦大阪市立大名誉教授は、大久保による謀略説を主張している。

 県内でも初代司法卿で「人権の父」といわれた江藤が、功績に比べて不当な評価を受けているとし、「佐賀戦争」や「佐賀の役」と呼称変更を求める意見がある。佐賀市議会でも6月議会で中学歴史教科書の表記をめぐり議論した。

 それらの議論に関心を持った徳本氏が、英国通信社勤務時から活用している英国公文書館に関連資料がないか調べた。

 徳本氏は「英政府が維新直後で不安定な日本の情勢を気にしていたことがうかがえる。佐賀の乱が内乱に発展し、英国にとっても対日貿易で不利益を受けることを懸念していたのではないか。歴史を内側だけでなく、外からの視点でみることも大事だと思った」と話している。

【写真】「佐賀の乱」に関する報告書が見つかった1870年代の日本関連ファイル=英国公文書館で徳本栄一郎氏撮影
2009年10月25日更新

320 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/10/29(木) 09:44:34
歴史と云うには生臭いけど。

中曽根事務所が閉鎖へ 政治史の舞台また一つ消え
2009.10.29 01:10
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091029/stt0910290112000-n1.htm

 国会近くの東京・平河町にある中曽根康弘元首相の個人事務所が今年中に閉鎖されることが28日、わかった。来年からは中曽根氏が会長を務める世界平和研究所(東京・虎ノ門)に拠点を移し、政治活動を続けるというが、自民党の一時代を築いた政治史の舞台がまた一つ消える。

 中曽根氏の事務所がある「砂防会館」は、田中角栄元首相が率いる田中派(木曜クラブ)の本拠地だったことで知られ、現在も伊吹派(志帥会)や二階派(新しい波)が事務所を置く。

 中曽根氏がここに事務所を構えたのは昭和42年。53年から同じフロアの現在の場所に移し、30年以上政治活動の拠点としてきた。

 57年秋には自民党内で浮上した「中曽根総理、福田赳夫総裁」の「総総分離論」をけり、総裁選の予備選が実施された。中曽根内閣発足までの間の中曽根氏の一挙手一投足が注目され、事務所は中曽根派議員やメディア関係者で昼夜を分かたずごった返した。

 首相在任中は首相官邸や自民党本部を拠点にしたが、退任すると再び事務所に戻り、ゴルバチョフ元ソ連大統領や全斗煥元韓国大統領ら多くの外国要人を迎えたほか、政局の節目では自民党の大物・中堅議員が常に出入りした。

 平成15年の衆院選前には、当時の小泉純一郎首相が事務所を訪問し、引退を勧告。中曽根氏は「政治的テロみたいなものだ」と怒りを爆発させた。結局、56年にわたる議員生活から退いたが、その後も事務所で政治活動を続けてきた。

 ただ、中曽根氏も91歳。政権交代により、自らも若手議員として首相に担ぎ出した故鳩山一郎氏の孫、鳩山由紀夫氏が首相になったことも一つの区切りと感じたようだ。今後は政党色を薄め、世界平和研で外交や経済の政策研究に力を入れる考えだという。



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