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化学・薬品産業総合スレッド
1
名前:
荷主研究者
投稿日: 2003/12/07(日) 23:23
これまで「石油・LNGなど=エネルギー総合スレ=」で扱ってきた化学系のネタを独立させます。
社団法人日本化学工業協会
http://www.nikkakyo.org/
石油化学工業協会
http://www.jpca.or.jp/
化学工業日報
http://www.chemicaldaily.co.jp/
石油化学データベース
http://kaznak.web.infoseek.co.jp/new.htm
478
名前:
荷主研究者
投稿日: 2009/10/31(土) 18:49:37
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=13720&catid=303
2008年11月11日付 宮崎日日新聞
選択と集中 1…世界展開
■最先端の生産基地に
旭化成最大の生産拠点である延岡・日向地区工場群では、2006年1月に人工腎臓工場を増設して以来、世界市場で最先端を行く工場の新・増設が続く。現在までその数は12工場。ほとんどは操業約70年の歴史を経て撤収した再生繊維・レーヨン工場の跡地を活用する。
生み出す製品群は人工腎臓のほか、ウイルス除去フィルター、液晶パネル製造部品、LSI関連部品など、いずれも世界市場でトップもしくは2位に立つ戦略商品だ。
なぜ延岡に最先端工場の立地が続くのか―。グループ内の新規事業立地決定までの流れでその理由が理解できる。
工場を新・増設する場合、延岡のほか、静岡県富士市、滋賀県守山市などの国内や国外の工場群の中から一つ一つ場所を選んで投資費用を細かく分析。各地区を比較検討した上で最終的に持ち株会社の取締役と事業会社の社長で構成するグループ経営会議で意思決定する。この流れの中で最重視されるのが基礎的な投資部分、いわゆるインフラコストだ。
社長の蛭田史郎(66)は「延岡には豊富な水、電力資源、質の高い労働力という経営インフラがあるのが強みだ」と説く。グループ発祥以来85年間、創業者の野口遵が獲得した水量豊富な五ケ瀬川水系の水利権、恒富地区にある高さ180メートルの巨大な煙突に象徴される自家発電群、地元で「会社」と言えば旭化成だけを意味する企業城下町としての特性など、工業集積地としての歴史があるがゆえに、延岡が立地点として選択されている、ということになる。
■ □
最先端工場の新規立地が始まった06年以前を見ても旭化成の事業構造はここ20―30年間で劇的に変化した。
延岡地区の工業製品出荷額に占める製品別割合では、75年に64・7%、85年には48・3%だった繊維は、06年に12・8%にまで低下。逆にLSIなどのエレクトロニクスが85年の1・1%から33・8%へと拡大し、さらに人工腎臓などのメディカル部門とともに成長を続ける。
背景には、70年代の2度にわたる石油危機によるエネルギー価格の高騰、90年代前半のバブル経済崩壊を経た国内市場の飽和、さらには冷戦構造の終結に伴うグローバル市場の出現など複雑な要因が密接に絡み合う。
経営環境が激変する中で、旭化成が目指したのが「低コスト体質への変化」と「技術開発による世界展開」だった。これこそが、人的資源の集約が避けられない繊維部門から世界市場で戦える製品製造へと移行する構造転換の本質である。
売上高の3割をアジアを中心にした海外へ転じ、まったく新しいグローバル企業体に転換した旭化成。生産拠点として選ばれた県北地域もまた変化を迫られつつある。(敬称略)
▼
構造転換によってグローバル企業へと進化した旭化成。世界市場に対応するための事業の選択と集中は、グループ内だけでなく、企業城下町である延岡市などの県北地域や協力企業群にまで波動となって変化をもたらしている。第1部「選択と集中」では、構造転換を果たした旭化成の変化そのものを中心に追う。
【写真】旭化成最大の生産拠点である延岡地区工場群。国内市場の飽和に伴う構造転換で世界最先端の生産基地に生まれ変わった
479
名前:
荷主研究者
投稿日: 2009/10/31(土) 18:50:22
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=13721&catid=303
2008年11月12日付 宮崎日日新聞
選択と集中 2…荒療治
■不振部門丸ごと譲渡
旭化成の創始者・野口遵が延岡市の愛宕地区で1922(大正11)年にアンモニア合成を始めて以来、グループの歴史は事業の多角化に彩られている。戦前は、生み出されたアンモニアで再生繊維ベンベルグを生産。さらには繊維レーヨン原料のカセイソーダも製造し、副産物の塩素、酸素を火薬原料の硝酸や人工調味料の化学合成に使った。
戦後も61年から24年間社長を務めた宮崎輝の下で「三種の新規」と呼ばれる住宅、化学繊維、合成ゴムのほか医薬、電子部品へ次々と新規事業を広げ、会社の規模を拡大。多角化戦略を推し進めた宮崎の口癖は「何が何でもやり通せ」だったという。
□ ■
中興の祖と呼ばれる宮崎が推進した拡大成長路線から旭化成は90年代末、大きくかじを切る。85年のプラザ合意に伴う円高、93年のバブル崩壊と金融不安による厳しい経営環境の中、「負の遺産の整理」と「選び抜かれた多角化」による選択と集中を始めたのだ。
その先鞭(せんべん)をつけたのが99年1月に発表された食品部門の日本たばこ産業への事業譲渡だ。系列8社と本社の不振部門を従業員約1千人を含めて丸ごと売り渡す、という荒療治だった。
「単純な撤退ではなく事業を売るというのは初めての経験だった。会社の揺るぎない構造転換への決意を感じ、衝撃を受けた」。当時、延岡支社勤労課長として人員再配置で労働組合との折衝などに奔走した上荷田洋一(55)=現・同支社総務部長=は振り返る。延岡の子会社・旭食材、佐土原町の日本食材加工も譲渡対象になっていた。
全社的にはこの間、経営本体の刷新も矢継ぎ早に実施された。2000年4月には一定以上の利益を上げる事業を見極める経営指標「EVA」(経済付加価値)を導入し、規模拡大路線と決別。03年10月には経営判断の迅速化などのために繊維、エレクトロニクス、化学、医療など各事業会社と持ち株会社による分社化を進めた。
県内関連では2000年の門川ソーイング閉鎖、01年の日向医薬工場閉鎖が相次いだ。1995年から中止していた地元高校生採用は構造転換が完了した後の07年春まで再開されなかった。当時、延岡・日向地区で約7千人だった正社員数は3千人にまで圧縮した。
改革ともリストラとも表現される旭化成の構造転換。中でも県北にとって1933年以来操業を続けていたレーヨン工場の撤収は、地域に衝撃を与えた一つの事件だった。(敬称略)
【写真】野口遵が創業して以来、旭化成は85年の時を刻む。その歴史は事業の多角化に彩られてきた
480
名前:
荷主研究者
投稿日: 2009/10/31(土) 18:54:54
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=13725&catid=303
2008年11月16日付 宮崎日日新聞
選択と集中 6…エレクトロニクス
■繊維に代わり急成長
繊維事業に代わり、旭化成延岡地区で急成長したのがエレクトロニクス事業である。1990年代から工場立地や生産能力の増強が相次ぎ、延岡全体の工業出荷額の3割以上を占めており、圧倒的な存在感を示している。
けん引するのは93年から稼働する岡富地区の高密度集積回路(LSI)の生産拠点「電子部品生産センター第二製造部」。生産量は当初比で15倍に拡大。2010年度まで五カ年の新中期経営計画は、研究開発や設備投資を進める重点分野に位置づける。
車載向け製品などでのさらなる成長を見込む。製造全体を統括する電子部品生産センター長の市原格(51)は「長期的に現在の2倍の生産能力を目指す」と力を込める。
□ ■
化学工業の旭化成が全くの異分野だったエレクトロニクス事業に参入したのは1971(昭和46)年。多角化戦略の一環だった。当初はケミカル分野などの技術を応用した製品が中心だったが、家電製品・部品分野の成長を見越し、門外漢のLSIにも参入することになった。
後発メーカーとして取り組んだのが、発注者の要望に応じて設計し、少量生産する小型LSIだった。90年代初頭は先行大手が手がけていなかった分野で、携帯電話普及による需要増が見込まれていた。進出先として、岡富地区にあった旧レーヨン工場従業員向け寄宿舎の用地が選ばれたのだった。
首都圏などの消費地から遠く物流コストが高くつくのが延岡地区事業の難点とされるが、LSIは堅調な成長を続ける。その要因の一つが、売値に対する1%未満という物流コストの低さだ。
LSIは大きな製品でも長方形の長い方の辺が約3センチ程度。最小のものは2ミリ四方。大量の製品を段ボールに詰めて空輸可能で、製品1個当たりの経済的な付加価値が高い。一方、繊維、ケミカル製品は、容積や重量が大きく、コンテナ輸送が必要。物流コストが売値の1、2割を占めるのが通常である。
新規事業の進出先を決める際、旭化成グループは人件費や水、電力費などの用益費を踏まえた費用対効果を精査した上で最終決定する。関係者の多くは「厳しい選択と集中が進んだ結果として、延岡には組立・加工型の工場が集積した」ととらえる。
世界シェアの7割を占める携帯電話部品の磁気センサーも延岡地区が唯一の生産地。重量が軽いドライタイプの人工腎臓組立工場も生産開始した。物流面の不利を克服した高付加価値工場群へと色彩は強まりつつある。(敬称略)
【写真】小型の電子部品は、フィルムで保護した上でリールに巻き付けるなどの方法で出荷。大量の製品を段ボールに収納して空輸するため、物流コストが低く抑えられる
481
名前:
荷主研究者
投稿日: 2009/10/31(土) 18:55:33
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=13727&catid=303
2008年11月18日付 宮崎日日新聞
選択と集中 7…ハイポア進出
■県北の活性化に期待
日向市の細島工業港に面した広大な工業団地・細島4区に、旭化成が世界シェア5割でトップを走る電池用材料「ハイポア」の新工場進出が明らかになったのは今年2月。団地が造成されて34年目での出来事だった。
細島4区は、国内製造業の海外シフトなどの影響で企業誘致が進まず、敷地の大部分が未使用のままだった。その広大な遊休地問題の解決が前進し、先月30日の着工式に立ち会った日向市長の黒木健二(65)は「地域経済活性化の大きなインパクトになる」と期待を込めた。
フィルム状製品のハイポアは、携帯電話やノートパソコン用のリチウム電池の電子部材として用いられる。化学部門で研究開発され、1977(昭和52)年から販売開始。関連機器の普及とともに世界的な需要が拡大し、2000年以降の出荷高は年間10―15%の勢いで急速に伸びている。
リチウム電池を搭載するハイブリッド車や電気自動車にも供給される「環境型」製品でもあり、今後は爆発的な市場拡大も予測される。着工式で旭化成ケミカルズ専務の山添勝彦(54)は「トップシェアの地位をさらに強くするのが使命。市場をリードするために日向の成功は欠かせない」と語った。
■ □
ハイポアの大規模展開を視野に入れる旭化成は07年春ごろから守山工場(滋賀県)に次ぐ第二の生産拠点の調査を開始。第一ラインを進出後に急激な需要増があり得るため、新ラインをすぐに拡張できるかが重視された。
延岡市の岡富地区には01年に撤退した旧レーヨン工場跡地に人工腎臓工場が相次いで進出し、まとまった土地は残っていなかった。広大な遊休地のある細島四区が急浮上したのだった。
細島4区の土地面積72・3ヘクタールのうち、旭化成は40ヘクタールを所有する。ハイポア工場進出計画は、このうち29ヘクタールの活用を予定。第一ラインが完成しても、大半の造成地は残される。市場動向を見据えながら、第2、3の生産ラインを増設することが可能である。
操業開始とともに、地元を中心に約70人を新規採用する予定。工場の機械化、省力化の流れの中、かつてのような大量の雇用拡大がある訳ではないが、有効求人倍率が低迷する県北地域にとって、増設への期待は大きい。優れた人材の域外流出を防ぐため、地元自治体の延岡、日向市は、新卒者を送り出す地元工業高校との連携に力を入れ始めている。(敬称略)
【写真】工場進出が決まった日向市の工業団地・細島4区。リチウム電池の需要増にスピーディーに対応できる敷地の拡張性が立地の決め手になった
482
名前:
荷主研究者
投稿日: 2009/10/31(土) 19:26:16
ここからは化学産業スレに貼るかね。
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=14817&catid=350
2009年2月6日付 宮崎日日新聞
15…アンモニア合成
■石灰窒素捨てる決意
世界で初めてアンモニア合成に成功したのは、後にノーベル賞を受賞するドイツの化学者フリッツ・ハーバーであった。
現在約9兆円(2007年)の売上高を誇る世界屈指の総合化学メーカー・BASFの支援を受けカール・ボッシュとともに研究、1911(明治44)年には合成試験工場を建設し、第一世界大戦が勃発(ぼっぱつ)した14(大正3)年には、ついにアンモニア合成による化学肥料を販売するまでに至った。
化学工業上、アンモニアは極めて重要な物質だ。化学肥料の原料となるばかりでなく、硝酸を化学変化させることで爆薬を製造することが可能になる。アンモニア合成の成功で同盟国側のドイツ軍部は、当時の火薬原料であったチリ産硝石を輸入調達する必要がなくなり、大戦終結が18年まで長引く遠因になったといわれる。
逆に連合国側は、火薬原料確保のため合成アンモニアの国産化を国が奨励するようになった。その一つが旭化成の創業者・野口遵が延岡工場に技術導入したイタリアの化学者ルイギ・カザレーが開発したカザレー式アンモニア合成法だったのである。
□ ■
1921(大正10)年、洋行先のイタリアでカザレー式の導入を決定する以前から、野口はアンモニア合成に強い関心を寄せていた。
その7年前に出版した自著「工業上より見たる空中窒素固定法」で、最新情報としてハーバーの合成試験着手を紹介。4種類の窒素固定法のうちアンモニア合成を「航空船」と例える一方で、自らが熊本県水俣市などで工業化していた石灰窒素を「蒸気船」とした上で「不遠(とおからず)将来に於(お)いて石灰窒素を凌駕(りょうが)せんとするの勢(いきおい)を示す」と断じている。
苦労を経て作り上げた石灰窒素の主力工場である熊本県八代市の鏡工場を、野口は延岡工場建設の3年後にあっさりと見限るが、この著書を書いた時点で既に石灰窒素を捨ててアンモニア合成に転換する決意を固めていたのかもしれない。
さて、洋行の話である。同年2月にマルセイユへ到着した一行は、14年前に石灰窒素の特許を譲り受けたイタリアへ向かう。その途中に偶然、カザレーの話を聞きつけた。早速、試験合成していた工場へ出掛けるとアンモニアのにおいがぷんぷんしている。野口は「これは出来るに違いない」と直感が働いた。貧弱な装置だったが、思い切って「いちかばちかで」(本人談)買うことに決めた。
【写真】カザレー式アンモニア合成法を発明したルイギ・カザレー。カザレーの工場に出向いた野口はアンモニアのにおいがぷんぷんしているのを肌で感じて「これは出来る」と特許購入を即決した
483
名前:
荷主研究者
投稿日: 2009/10/31(土) 19:27:09
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=14864&catid=350
2009年2月7日付 宮崎日日新聞
16…カザレー法
■言い値で特許を購入
わずか一代で旧財閥に匹敵する企業グループを築いた野口遵は、内面的にも決してひとくくりに表現できない人物であった。60銭の麦わら帽子とニッケル製の時計鎖を愛用し、汽車賃の過払いには自ら駅の窓口で抗議して取り返すような男だったのに、洋行先のローマではカザレー式アンモニア合成法の特許をルイギ・カザレーの言い値である100万円(現在の約10億円)で購入を決めてしまう。
2週間以内に予約金10万円を支払うことになり、大阪の本社に野口は「果たしてうまく行くか否かはなお研究を要するが、もし買わずに他人が買えば、この発明の実用化で会社はつぶれる。100万円でつぶれるのだ」と少々脅しを込めて打電した。戦前の総合商社・鈴木商店もカザレー法に関心を示していたからだ。
契約を済ませた野口ら一行3人は1921(大正10)年の春、意気揚々と帰国した。この旅で野口はローマのスニア・ビスコーザ社を訪ねてレーヨン工場も視察。数点の見本を日本に持ち帰っている。
□ ■
「長峰与一、柿原政一郎、山本弥右衛門さんたちです」。野口の七回忌を記念した延岡工場関係者の座談会で、初代延岡市長の仲田又次郎はカザレー式アンモニア合成工場建設当時の地元協力者として3人の名前を挙げている。
長峰与一とは本県1区(宮崎、児湯、南那珂三郡)選出の衆院議員で、五ケ瀬川の水力発電を開発し、工場を誘致しようとした人物である。長峰は1919年春に野口の後見人である中橋徳五郎に会い、協力を要請。政界の重鎮でもあった中橋は原敬内閣に文相として入閣したのを機に日本窒素肥料会長職を前年、退いたばかりであった。
この時、中橋から「僕の関係していた会社に野口という非常にやり手がいる。彼に会って話してみないか」と紹介された。さらに野口を訪ねたところ、早速日之影町の立地予定地を調査することになり、翌年5月には発電会社「五ケ瀬川電力」が設立された。
その会社の社長には長峰の兄伊作が就任したが、取締役には宮崎銀行頭取の大崎敬方のほか、後に有力な工場建設協力者となる山本弥右衛門が取締役に入っている。山本は旧恒富村平原の大地主で、長峰とは旧制宮崎中で同級生の間柄であった。
柿原政一郎は高鍋町出身で、1920年5月の総選挙では長峰と同じ選挙区から立候補し当選した。当時、野口が自宅を構えていた広島で土地開発などにも携わり、そこで野口と接点が生まれたといわれている。
【写真】旭化成創業の地である愛宕地区工場群の正門。進出当初は延岡工場と呼ばれ、後には薬品工場という名称で市民に親しまれた
484
名前:
荷主研究者
投稿日: 2009/10/31(土) 19:27:59
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=14903&catid=350
2009年2月8日付 宮崎日日新聞
17…立地の経緯
■柿原政一郎協力願う
なぜ旭化成が延岡市に立地することになったのだろうか。北川、祝子川、五ケ瀬川、大瀬川の4つの大河が延岡湾に流れ込む世界的にもまれな地理的特殊性ゆえに、創業者の野口遵が目をつけたからだとする説もある。しかし、それを裏付ける資料は何も残っていないし、野口が日記を記すような性格ではなかったことも手伝って不明確な部分が今も多く残る。
ところで延岡にアンモニア合成工場を建設する前後、野口は広島市に自宅を構えていた。地元に一大化学工場を建設する野望を持っていたからだが、豊富な水量の太田川の水利権を獲得したにもかかわらず、結局地元には発電所も工場も造らなかった。
地元財界に冷遇され中国5県の電力統合という目標が頓挫したからにほかならない。水利権はその後、付き合いのあった島根県の電力会社にあっさりと売り渡した。
旭化成の延岡進出に関しても野口の合理主義を少しだけ頭の片隅に置いて考えた方がいいだろう。本県出身の衆院議員だった長峰与一の要請を受け1920(大正9)年に着工した日之影町の五ケ瀬川発電所の場合もそうだ。
本県工業振興のための電力開発であることは知っていたはずだが、野口は当初、熊本県八代市の鏡工場への送電を予定していた。そこから一転して延岡進出へと気持ちが傾いたのは、一人の男の説得によるものだった。
□ ■
野口がアンモニア合成法の特許を取得する前後、県内では県外への送電反対運動がうねりとなって起こっていた。その政府対策委員を務めていたのが柿原政一郎であった。
高鍋町出身である柿原の履歴は興味深い。東京帝大哲学科を中退後、同郷で孤児救済に生涯を捧げた石井十次のつてで倉敷紡績に入社。岡山県で新聞社経営などに携わった後、20(同9)年5月の総選挙に立候補し、当選している。広島では臨海埋め立て地の再開発で活躍した人物でもある。
財団法人・正幸会が出版した「柿原政一郎」によると、地元財界にまったく相手にされなかった広島時代の不遇を知っている柿原は野口を訪ね、腹を割って話した。「真に腰を入れて宮崎で事業を始めてくれたら…」と考え、用地、電力、工場労力の調達に全面協力するむねを伝えた。
延岡に新規立地するよりも既存の鏡工場を拡張してアンモニア合成工場を建設した方が電力、労力的に見てもコストを抑えられるのは誰の目から見ても明らかであった。野口は「鏡か延岡か」で迷っていたのである。
【写真】延岡市の旭化成愛宕地区工場群には1923年に建設された当時のれんが造りのアンモニア合成工場跡が今も残る。85年の歳月を経た建造物は倉庫などに使われているが「産業遺産」と呼ぶにふさわしい
485
名前:
荷主研究者
投稿日: 2009/10/31(土) 19:29:01
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=14904&catid=350
2009年2月10日付 宮崎日日新聞
18…立地変更
■八代から延岡に即決
カザレー式アンモニア合成法の開発者であるルイギ・カザレーと正式契約を結ぶため、野口遵は1921(大正10)年、再び渡欧した。12月には契約書に調印し、翌年いよいよ野口の事業を総合化学工業へと飛躍させる工場の建設に着手することになる。
アンモニア合成工場は当初、カーバイドから石灰窒素、硫酸アンモニウムを一貫製造していた熊本県八代市の鏡工場に建設する予定だった。旧鏡町と旧文政村の中間地点にある約35ヘクタールの広大な空き地を建設予定地とし、カザレーと技術移転で合意した翌年3月10日には起工式を行う運びとなっていたのである。
しかし、野口は鏡での工場建設を取りやめた。式典に野口が出席することを知った住民が、会社側に環境問題で補償を求めたためだと言われるが、用地を確保していた割にはあまりにもあっけない。中止の判断は起工式の直前、もしくは当日だった可能性もあるが、一転して野口は延岡進出へとかじを切る。しかも即決に近い状況だった。
合成工場創業当初から旭化成に勤務した市山幸作著の「創魂 野口遵」によると、野口は鏡での建設中止を決意した同じ月の、おそらく15日から18日の間に工場の敷地選定のために延岡へ乗り込んだ。後に初代延岡工場長を務めた谷口喬一を事前に派遣し、立地先を港のある土々呂や門川まで広げて具体的な予算も含めた調査をさせていた。この用意周到ぶりを見ると、鏡での立地をやめる以前から野口が延岡進出を検討していたと考えた方が合点がいく。
□ ■
延岡を訪ねた野口を旧恒富村平原の大地主で村議会議員の山本弥右衛門が出迎えた。野口の日本窒素肥料と共同出資で五ケ瀬川発電所の建設を進めていた本県選出衆院議員の長峰与一と、旧制宮崎中では同級で親友の間柄である。その縁があっての面会だったと推測される。
山本はまず延岡藩最後の藩主である内藤政挙が経営していた延岡電気所へと案内する。内藤家所有の日平銅山(現延岡市北方町)で利用した余剰電力を延岡市街地へ送っていた電力会社だが、ここで所長を務めていた笠原鷲太郎と話し合った。内容は不明だが、延岡電気所は工場建設中に配電で野口に協力する。
さらに恒富村役場では別の村議も加わって愛宕山の展望所へ登り、町並みを一望した。この時、野口は持っていたステッキで現在の愛宕地区工場群付近にぐるりと輪を描き、「これくらいの土地が欲しい」と言った。
【写真】野口は当時は珍しい自動車に地元の名士を乗せて愛宕山(右奥)のふもとまで行き、見晴らしのいい場所へ登った。そこでステッキで輪を描きつつ「これくらい土地が欲しい」と言った(手前は旭化成恒富地区工場群)
486
名前:
荷主研究者
投稿日: 2009/10/31(土) 19:29:52
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=14944&catid=350
2009年2月11日付 宮崎日日新聞
19…恒富村議会
■住民説得し用地買収
愛宕山の上で野口遵は「これくらいの土地が欲しい」とステッキで示し「村で責任を持って買収してくれ」と言ったが、同行した恒富村議会議員の山本弥右衛門ら地元の名士たちは即答できなかった。あまりにも性急な要請に不意を突かれたのだろう。結局、野口の宿泊先の吉野屋旅館(延岡市南町)で夕食まで付き合い、引き受けることを決めた。
気の早い野口は大阪の日本窒素肥料本社へと急ぎ、1922(大正11)年3月26日の取締役会で延岡工場の建設を正式決定した。その後、大気中の窒素と水を原料とするアンモニア合成で「空気が薄くなる」などのうわさが広まったにもかかわらず、恒富村議会の議員らは住民を説得して約65ヘクタールの立地予定地の買収をわずか4カ月でまとめてしまう。
この時代の恒富村議会の顔ぶれを見ると、市町村議の社会的地位が現代と比較にならないほど高かったことに驚かされる。一例を挙げれば、延岡電気所の所長を兼任していた笠原鷲太郎は東京帝大を卒業後、内藤家に請われて日平銅山をはじめとする産業振興に尽くし衆人の尊敬を集めていたし、三宅忠己は宮崎銀行頭取を務めた人物である。
ほとんどは延岡藩主を務めた内藤家が1899(明治32)年まで開塾していた私塾・亮天社の塾生だった点も特筆に値する。脱亜論を唱えた福沢諭吉の慶應義塾に18歳まで籍を置き、公私ともに福沢の薫陶を受けた最後の藩主内藤政挙によって産業人としての高度な実学を徹底的にたたき込まれた人々だった。
□ ■
1922年8月、日本窒素肥料は延岡で国内初のアンモニア合成工場建設に着手する。現場を指揮したのはわずか37歳の工場長谷口喬一であった。野口が「あの時の大将は谷口君」と振り返る通り、工場建設のほとんどを谷口に任せきりにしている。
新興企業である日本窒素肥料の技術陣は若い世代で占められていた。旭化成社史によると、33(昭和8)年の時点では100人を超す大卒・高工卒の技術者が集まり、うち60人が延岡で働いていた。野口は若い技術者と議論することを好み、時に自由に任せ、時に直接指示していた。戦後、旭化成中興の祖と呼ばれた宮崎輝が直接若い社員を動かして建材事業などの「三種の新規」を立ち上げた話をほうふつとさせる。
アンモニア合成工場は23年10月までに完成した。基礎化学品であるアンモニアを空気と水で大量に製造することを真っ先に可能にしたことで野口は事業界の巨人への階段を上り詰めることになる。
【写真】1923年、延岡に完成した日本窒素肥料アンモニア合成工場。用地買収を4カ月で終わらせたのをはじめ、亮天社で教育を受けた旧恒富村のリーダーたちが積極的に野口遵に協力した(写真は旭化成提供)
487
名前:
荷主研究者
投稿日: 2009/10/31(土) 19:30:46
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=14970&catid=350
2009年2月13日付 宮崎日日新聞
20…事業多角化
■合成工場がきっかけ
アンモニア合成工場の建設現場には、技術移転元であるカザレー社からイタリア人技術者が派遣された。発明者であるルイギ・カザレーも1923(大正12)年9月に延岡を訪ね、完成を見届けた11月まで滞在している。カザレーらの宿泊用として野口遵の日本窒素肥料は洋風木造施設を建てたが、この建物が「向陽倶楽部」である。
化学工業上極めて重要な化学物質であるアンモニアをただ同然の空気中の窒素と、水を分解した水素による合成に成功したことは、化学肥料である硫酸アンモニウムの生産コストを従来の半分にしただけでなく、水の電気分解によって生まれる酸素を使った硝酸や硫酸、火薬など事業が芋づる式に多角化するきっかけをつくった。
延岡で軌道に乗ったアンモニア合成工場を、野口は26(昭和元)年には熊本県水俣に設置。さらにその5年後には朝鮮半島で、巨大なダム開発で豊富な電力を得ることによって「可及的に低廉良質なものをつくる」という信念をアンモニア合成による化学肥料の大量製造で実現した。この過程を見ると延岡が試験プラントのような役割を果たしていたことも分かる。以来、戦後も含めて延岡は多くの新製品の試験生産の基地となり、旭化成80年史の表現を借りれば、グループの「心のふるさと」になった。
□ ■
カザレー式合成法の技術移転を正式契約するために22(大正11)年に渡欧した際、野口はドイツでグランツシュトフ社から再生繊維・レーヨンの製造特許権を取得している。
旭化成のもう一つの祖業とも言える繊維事業をさかのぼると、滋賀県の琵琶湖畔で20年に操業を開始した旭人造絹糸にたどり着く。技術的に未熟だったがために翌年には操業停止に追い込まれたが、関西財界のあっせんで日本綿花(現・双日)の社長喜多又蔵と野口がスポンサーとなり新会社・旭絹織として事業を再開することになった。ちなみに喜多と野口は後に経営上で意見対立、喜多が29(昭和4)年に退任、経営権は野口が握っている。
当時としては最新鋭のドイツ式製造工程に工場を一新し、24(大正13)年に操業が開始された。高品質のレーヨンは市場で好評を博した上、競合するメーカーが帝国人造絹糸(現・帝人)しかなかったこともあり、作れば売れる状況だった。野口は新工場の建設を延岡市(旧岡富村)に決定し、26年8月には祝子川の用水路開削などについて県から許可を得た。
【写真】工場完成を見届けてイタリアへと帰国するカザレーのために野口ら幹部は1923年11月10日に送別会を開き、旧旭化成向陽倶楽部前で記念撮影をした。前列中央にカザレーが座り、右隣に野口、左には番頭格である市川誠次が並んでいる(旭化成延岡支社提供)
488
名前:
荷主研究者
投稿日: 2009/10/31(土) 19:31:23
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=15034&catid=350
2009年2月14日付 宮崎日日新聞
21…3町村合併
■円満進出の「副産物」
大量に生産していたアンモニアを原料にする再生繊維・ベンベルグに目を付けた野口遵は1928(昭和3)年、米国に渡りドイツ・ベンベルグ社と特許権導入の契約を結んだ。当初は、この年の6月に建設に着手した朝鮮半島の興南工場に隣接して造る腹づもりだった。しかしその後、興南の水質が繊維産業に向かないことが分かり、延岡へと方向転換する。
滋賀県でレーヨン工場を展開していた野口が買収した旧岡富村の水田約40ヘクタールは、27(同2)年の昭和金融恐慌などの影響で手つかずとなっていた。しかし、ベンベルグ工場はアンモニア合成工場に隣接する旧恒富村に建設することになる。
野口はレーヨン事業を、日本綿花の喜多又蔵と共同経営する旭絹織で展開していた。しかし同じ繊維にもかかわらず喜多とそりの合わなかった野口は29(同4)年4月、別会社の日本ベンベルグ絹糸を設立して事業を始める。
同年12月には延岡を訪れて岡富、恒富両村の有志を前に「排水と原料の問題で岡富では困る」と理由を説明しているが、もともと岡富の土地は旭絹織が買収したものであり、物理的に岡富への立地は不可能だった。だが、地元ではその経緯をよく理解していなかったようである。
恒富側は大喜びして土地の無償提供を引き受けてしまう。しかし、一転して買収費用30万円を捻出(ねんしゅつ)できないことが分かり融資を申し出たところ、野口は「よろしい、お貸ししましょう。しかし、来年の3月までに(延岡町、恒富村、岡富村の)3町村の合併ができたら、お祝いにみんな差し上げます」と言った。
□ ■
一方、恒富に横取りされたと受け取った岡富の有志8人は年が明けた元旦、大分県別府市の別荘に野口を訪ね直訴する。気の毒に思った延岡町長の小田彦太郎、東海村長の甲斐伊佐男も同行していた。しかし、立地が変更するわけがなく岡富の有志は納得せぬまま去った。その後、残された小田と甲斐に対して、野口は合併の話を打ち明け「合併すれば工場がどこにできても同じだ」と語った。
旧岡富村が財政的に困窮していたことを野口は見抜いていたのだろう。延岡町長の小田らに合併の打診を受けた岡富村はこの話に乗る。買収資金の30万円がのどから手が出るほど欲しい恒富村の事情もあり、同年4月に工都・延岡市の土台となる新延岡町が誕生したのである。ちなみに、この合併の経緯があるが故に初代延岡市長である仲田又次郎は野口を「延岡の母」と表現した。
【写真】野口が経営参画した旭絹織が1926年に買収した旧岡富村の敷地にはレーヨン工場が進出する。旭化成の事業撤退から10年が経過しようとしている現在も当時の建物が残る
489
名前:
荷主研究者
投稿日: 2009/10/31(土) 19:49:15
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=18289&catid=346
2009年6月25日付 宮崎日日新聞
メード・イン・延岡8…経済情勢
■「世界照準」変わらず
世界経済の悪化で経営の足元が揺らいだ旭化成は、2010年度を最終年度とする中期経営計画の見直しも迫られた。東京都内で実施したその説明会で、記者からの質問は水島地区(岡山県倉敷市)工場にある石油化学コンビナートの再編の行方に集中した。
4月には住友化学が、サウジアラビア国営企業と合弁で世界最大級の石油化学原料の製造プラントを本格稼働。安価な製品が市場に出回るとの憶測もある中、旭化成も三菱ケミカルホールディングスと生産設備の運営統合に踏み切る。同時不況をきっかけに世界の化学メーカーは今、業界再編の渦中にある。
石油危機、バブル崩壊など経営環境が激変するたびに事業構造を転換してきた旭化成。今回は汎用品である石油化学製品を経営資源集中の選択から外し、05年にはグループの総営業利益のうち約40%を占めた化学部門の比率を10年後には25%にまで圧縮する戦略を描く。
一方で社長の蛭田史郎(67)は「エレクトロニクス分野、医薬、医療領域の拡大とグローバル化は今後も変わらない」と言い切る。
岡富地区で製造する人工腎臓を軸とした透析事業の拡大や、日向市に工場を置くリチウムイオンバッテリーセパレーターのハイブリッドカーへの参入…。旭化成にとって戦略上不可欠な製造拠点となった延岡・日向地区の事業を成長させ、各分野の営業利益構成を15年には均衡させる狙いがある。
□ ■
創業者の野口遵が1922(大正11)年に化学肥料用のアンモニアを合成し始めて以来、旭化成は化学原料から繊維、ラップ、電子、医療へと芋づる式に事業を多角化し、市場を世界に求めて総合製造メーカーへと変化してきた。
発祥の地としての歴史がやがて90年が経過しようとしている延岡でも、祖業である再生繊維・レーヨンの工場跡地にはここ数年、最新鋭の生産拠点の立地が相次いだ。
その製品群の大半は世界市場で1位、もしくは2位に位置する戦略商品だ。加速する経済のグローバル化を象徴するように延岡は今も姿を変え続ける。 (敬称略)
【第5部の参考資料】旭化成80年史、宮崎輝追想録、図解旭化成
▽お礼
1面連載の「旭化成構造転換の波動」はこれで終わります。取材に協力していただいた関係者に感謝します。【取材班】延岡支社=森耕一郎、押川真基、堀口佳菜子▽文化部=杉田亨一
【写真】旭化成発祥の地である延岡。旭化成がグローバル化を加速させる中、戦略上不可欠な生産拠点としてその姿は変化し続けている
490
名前:
荷主研究者
投稿日: 2009/11/03(火) 03:06:37
http://www.business-i.jp/news/ind-page/news/200910310053a.nwc
2009/10/31 Fuji Sankei Business i.
ゼオン、川越事業所閉鎖へ
日本ゼオンは30日、自動車部品向けの特殊ゴム材料を生産する子会社の川越事業所(埼玉県川島町)について、操業を2010年6月末に停止し、11年3月をめどに閉鎖すると発表した。同材料の生産は大津事業所(大津市)に集約する。
国内の自動車生産が低調なことなどが理由。川越事業所の従業員28人の雇用は、日本ゼオングループ内の配置転換により維持する方針という。
491
名前:
荷主研究者
投稿日: 2009/11/03(火) 03:07:44
http://www.business-i.jp/news/ind-page/news/200910290026a.nwc
2009/10/29 Fuji Sankei Business i.
旭化成など化学・繊維 医療への進出加速 汎用品頭打ち、成長分野に活路
化学・繊維メーカーが、医療分野への進出を強めている。旭化成は透析治療に欠かせない人工腎臓の販売を強化するため、韓国に現地法人を設立し、11月から販売を開始する。帝人は睡眠時無呼吸症候群(SAS)用治療装置の販売強化を目的に、装置の販売や検診サービスを手がけるグループ会社2社を合併させた。汎用樹脂や繊維など、主力製品の需要が頭打ちとなり採算が悪化するなか、成長が見込まれる分野に積極進出することで、経営の安定化を図る。
旭化成が設立した新会社「韓国旭化成メディカルトレーディング」(ソウル)は、資本金が10億ウォン(約8000万円)で、医療機器子会社の旭化成クラレメディカル(東京都千代田区)が全額を出資した。
人工腎臓は、血液を体外にいったん出し、尿素などの老廃物を「中空糸膜」と呼ぶ特殊なフィルターで除いて体内へ戻す装置。旭化成によると、韓国には透析治療が必要な慢性腎不全の患者が約5万人おり、毎年8%ずつ増えるとみられている。従来の代理店経由の販売と並行し、新会社が医療機関に直接売り込むことで、需要に応える。
旭化成クラレメディカルは、欧州などの販売を強化するため、今年5月に米国の医療機器メーカー、ネクスステージと提携。10月には、人工腎臓を含む医療機器を製造を行うメテク(東京都板橋区)を子会社化している。
一方、帝人傘下で医薬品や医療機器の開発・販売を行う帝人ファーマ(東京都千代田区)は、10月1日付でSAS治療装置の販売や診療サービスを行う全額出資子会社の新潟スリープラボ(新潟市)と帝人在宅医療(東京都千代田区)を合併させた。
SASは潜在患者が多く、治療装置を使った在宅医療ニーズが高まっている。合併により、関連組織の運営一体化や機動力の向上を図る。これらの施策により、装置の年間売上高を、現在の数十億円から3年後には約150億円に増やす計画だ。
このほか、クラレ傘下のクラレメディカル(東京都千代田区)も、骨の移植が必要になった際に使う人工骨の国内製造販売承認を7月に取得し、人工骨市場への参入を視野に入れる。
医療分野は、化学メーカーにとって繊維事業などで培った技術を生かせるほか、原材料価格高騰の影響を受けにくく、経営の安定化に寄与するため、今後も進出に拍車がかかりそうだ。
492
名前:
とはずがたり
投稿日: 2009/11/06(金) 16:24:00
円高で目減り、製薬2社が減収 武田は11年ぶり
http://www.47news.jp/CN/200911/CN2009110501000741.html
製薬大手4社の2009年9月中間連結決算が5日出そろった。円高で海外売上高が目減りしたことが響き、武田薬品工業とエーザイの2社が減収となった。
武田の中間期での減収は1998年以来、11年ぶり。円高が516億円のマイナス要因となり、売上高は前年同期比6・4%減の7554億円にとどまった。エーザイの売上高は1・0%減の3949億円。
最大市場である米国の景気に回復傾向が出てきたのを背景に、4社とも主力製品の販売は堅調。アステラス製薬は泌尿器系の治療薬が順調に伸びて増収を確保し、第一三共はインドの製薬会社を買収した効果も加わって大幅増収となった。
一方、純利益は円高の影響を吸収しきれなかったアステラスと第一三共が減少。前年同期に米製薬会社の買収関連費用がかさんだ武田と、米国での自社販売を増やしたエーザイは増益となり、明暗が分かれた。
2009/11/05 18:19 【共同通信】
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