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日本中世史スレ

1 名前:■とはずがたり 投稿日: 2002/11/04(月) 21:53
日本中世史を語る

73 名前:小説吉田学校読者 投稿日: 2007/02/13(火) 22:53:26
こういう奇説から真実が見えるときもありますので、要注目です。
なお、私の中では、上杉謙信女性説が8割方、固まってきてる。貴城けいか瀬奈じゅんあたりに謙信やらせて大河一本打てないか。って、全然宝塚好きじゃないんだけど。

『桶狭間の戦い』で新説 信長 略奪中の敵急襲
http://www.tokyo-np.co.jp/00/gnm/20070212/lcl_____gnm_____000.shtml

 戦国武将・織田信長が天下統一のきっかけをつかんだ尾張の「桶狭間の戦い」(一五六〇年)。信長の勝因は「民家の略奪行為で油断する敵を急襲したから」という新説を、県立歴史博物館(高崎市)の黒田日出男館長=東京大名誉教授=が、教授を務める立正大(東京)の「立正史学」に発表した。NHK大河ドラマ「風林火山」の種本ともいえる「甲陽軍鑑」を解読して導いた新説。この新説をテーマに三月三日、同博物館で講演する。 (菅原洋)
 桶狭間の戦いは、何倍もの軍勢を率いた駿河の戦国武将・今川義元に対し、信長がいかにして勝ったかが長年論争の的になってきた。
 明治時代に陸軍が出した本などがまず、信長が迂回(うかい)して近づいたとする「迂回奇襲説」を主張して定説化。この説は近年は学界で否定され、信長の伝記「信長公記」に基づいて正面から攻め込んだとする「正面攻撃説」が主流となった。両説とも、豪雨が信長に有利に働いたとの見解は共通する。
 これに対し、黒田館長は信長公記よりも古く、甲斐の戦国武将・武田信玄の合戦などを伝える「甲陽軍鑑」に着目した。甲陽軍鑑はこれまで、誤記の多さから学界では史料としての価値が低くみられてきた。
 しかし中世史が専門の黒田館長は、全二十数冊に及ぶ膨大な甲陽軍鑑を分析。「記憶違いはあるが、悪意のねつ造はなく、体験に基づく良質な史料」との結論に至った。
 さらに、桶狭間の戦い当時は武田氏と今川氏は同盟していたため「戦いの敗因を間違えるとは考えにくく、第三者が敗者から得た信頼できる情報に基づく」とみている。
 その上で、黒田館長は甲陽軍鑑に多い桶狭間の戦いに関する記述の中に「その日の(事前にあった別の)戦いに勝ったと思った今川軍が略奪に散る中、織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った」という意味の内容を見つけた。
 こうした記述はこれまで学界でまったく無視されていた部分。黒田館長は甲陽軍鑑に関連する別の史料の中でも、桶狭間の戦いに今川方で参戦した、後の徳川家康が「今川軍が略奪し、油断していた」と証言したのも確認。黒田館長は略奪を歴史用語で「乱取り」と呼ぶため、新説を「乱取状態急襲説」と名付けた。
 黒田館長は「戦国時代に戦い後の乱取りは常識。信長公記は信長の立場に立つため、略奪に付け込んだ勝因を『みっともない』と避けたのでは」と指摘している。
 講演会は既に定員を超えており、同博物館で三月三日から今回の論文を販売する予定。
<メモ>甲陽軍鑑 1573−86年に武田信玄の重臣・高坂弾正らが記し、甲州流軍学者・小幡景憲が写本を完成させた。大河ドラマ「風林火山」では主人公・山本勘助が今川家に関与する場面があり、桶狭間の戦いでは勘助が情報源の一つだった可能性もある。

74 名前:とはずがたり 投稿日: 2007/12/23(日) 22:55:30
「教行信証」に親鸞の書き込み発見、角筆のくぼみ
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20071222STXKG010822122007.html

 浄土真宗の宗祖・親鸞(1173―1262年)が教義の根本を記した「教行信証」の自筆本「坂東本」(国宝)に、先のとがった木や象牙などで紙にくぼみを付ける「角筆」の書き込みが約700カ所見つかっていたことが22日、分かった。

 角筆による書き込みは一般的に、漢字の振り仮名や送り仮名などが多いとされるが、見つかったのは文字や棒線のようなもので詳細は調査中という。

 坂東本の修復にかかわった広瀬杲・元大谷大学長は「坂東本は親鸞が生涯手元に置いており、書き込みは直筆の可能性が高い。教行信証の解釈にも影響するのではないか」と話している。

 坂東本はとじ目付近に裂け目が生じるなど劣化が進んでいたため、所蔵する真宗大谷派(本山・東本願寺、京都市下京区)が2003年から04年にかけて修復。

 その際、修復を指導した京都国立博物館の調査員らが偶然、小さなへこみを発見。角筆の可能性があるとして、紙を傷つけない発光ダイオード(LED)の光で詳しく調べ、角筆と判断した。〔共同〕 (14:37)

75 名前:荷主研究者 投稿日: 2008/02/28(木) 23:55:31

http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2008/01/20080105t75021.htm
2008年01月04日金曜日 河北新報
頼朝軍との戦い解明へ 奥州藤原氏が築造・阿津賀志山防塁

3重の土塁と、その間に走る堀が確認できる阿津賀志山防塁

 奥州藤原氏が源頼朝との戦いに備えて現在の福島県国見町に築いた国内最大級の「阿津賀志(あつかし)山防塁」の発掘調査に、同町教委が新年度着手する。800年以上前に造られた全長3キロの防塁は今もほぼ原形をとどめる。調査によって、奥州藤原氏の東北統治の実態や、平安から鎌倉時代に移る日本史の転換点となった阿津賀志山の戦い(1189年)の実像が解明されそうだ。

 防塁は阿津賀志山の戦いの直前に完成したとされる。幅15メートルの間に二重の堀と三重の土塁を張り巡らし、阿武隈川と西側の山間部に挟まれた平野部を遮断した。藤原氏が頼朝軍の北進を止め、この地で合戦をするために築いた。

 鎌倉幕府が造った元寇防塁(福岡市)に次ぐ規模で、完成まで延べ25万人が投入されたと推定されている。

 調査は4年かけて、3キロの防塁のうち1.8キロほどの区間で堀の埋め土を取り除くなどして当時の姿に復元。奥州藤原氏の土木技術を調べるほか、要した作業員数を精査して周辺人口や東北支配の実態を探る。

 兵士の骨などが発掘されれば、両軍の交戦場所や本営と武将の配置など戦いの様子が浮かび上がる。出土例がない奥州藤原氏方の武具が見つかる可能性もある。

 防塁跡は1970年代の圃場整備で整備地域に含まれたが、町が県と交渉し対象から外した。高さ5メートルの土塁と深さ2―3メートルの堀は人が歩けるよう一部埋められたものの希少性が高く、国史跡に指定された。

 町は発掘調査と復元整備を目指し80年代から防塁跡の土地買収を進めた。ここ数年、耕作を放棄する農家が増えたことから買収が進み、本格的な発掘調査が可能になった。

 阿津賀志山の戦いでは10万人以上とされる頼朝軍が3日間総攻撃を仕掛けても防塁を突破できず、2万人の藤原勢に苦戦。頼朝軍は正面突破を断念して藤原勢の背後を奇襲して勝利した。この戦いで頼朝は全国統一を決定的にし、鎌倉幕府誕生につながった。

 平泉研究の第一人者の入間田宣夫・東北芸術工科大教授は「奥州藤原氏の行政、軍事システムの解明などにつながれば、世界遺産登録を目指す平泉の研究にとって朗報となる。阿津賀志山の戦いは平安末期の天下分け目の戦いと言える重要な合戦だけに、実像解明を期待したい」と話した。

76 名前:荷主研究者 投稿日: 2008/06/30(月) 00:59:03

http://www.kahoku.co.jp/news/2008/06/20080614t15036.htm
2008年06月14日土曜日 河北新報
600メートル大路発見 平城京と類似 加美

加美町・壇の越遺跡で発掘された道路

 宮城県教委は13日、奈良・平安期の役人の居住区跡とみられる加美町宮崎地区の「壇の越遺跡」と、北側にある郡役所跡「東山官衙(かんが)遺跡」との境界にある道路が、壇の越遺跡内で既に発掘されている大路と同規模だったことが分かったと発表した。

 両遺跡は、陸奥国府・多賀城から出羽国に向かうルート上にある律令(りつりょう)国家の最前線基地。壇の越遺跡は都を模して、碁盤の目状に造られていたことが既に判明している。居住区と役所との境界に大規模な道路を敷くスタイルも平城京と類似しており、県教委文化財保護課は「壇の越遺跡が、平城京に似ていることがあらためて分かった」としている。

 確認されたのは壇の越遺跡の北側の境界で、東西に走る道路。8世紀前半に造られ、幅4―5.6メートル、長さ600メートル以上とみられている。
 東山官衙遺跡は国の史跡に指定されており、多賀城の下で郡を治めた役所とされている。東山官衙遺跡の南門から壇の越遺跡には南北に幅6メートルの大路が延び、南門から200メートル付近で今回発掘された道路と交差している。
 これまでの発掘で、東山官衙遺跡と壇の越遺跡を取り囲む外郭施設の範囲が東西1.2キロ、南北1.4キロ以上であり、外周が3.1キロ以上に及ぶことも確認された。
 15日午前10時半から、現地で一般を対象にした説明会が開かれる。

77 名前:石垣眞人 投稿日: 2008/07/29(火) 14:42:44
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.saces.live.com にアクセスしてください。

78 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/11/10(月) 11:57:33
そもそも可成りの醜男だった癖に美男子扱いされてると思ってたけどそれも怪しいのか。また今の五条大橋のある五条通は昔は六条坊門小路であって,五条大橋にある弁慶義経の像はそもそも場所的に間違いなのは有名だけど,義経記では橋の上ではなかったのか。。
>そもそもこの義経記自体が民間伝承をまとめたもので、庶民の間にあった「判官(ほうがん=義経の別称)びいき」の高まりから多くの虚構を含んでいたとされる。
基本的に義経よりも頼朝派なのは俺が長男だからかねぇ?

【もう一つの京都】検証・源義経伝説 兄頼朝との協力と確執
2008.11.9 15:04
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081109/acd0811091506003-n1.htm

 生まれて間もなく父を亡くし、母の元からも引き離され一人再起の日を待った幼少時代、平家追討における超人的活躍にもかかわらず、兄との決裂で命を狙われ自害を図るその最期。鎌倉幕府の成立前夜を駆け抜けた希代の英雄、源義経の生き様は必ずといっていいほど、その「悲劇」とセットで語られる。

 現代人を魅了し続ける義経の実像は謎も多い。近年批判が進んでいる鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」を除けば、歴史上確かな記述が残っているのは、25〜31歳までしかないともされる。

 例えば、牛若丸時代の義経が鞍馬天狗を相手に剣術を磨き、五条大橋で華麗に舞って豪傑、武蔵坊弁慶を討ち倒す伝説。このころ五条大橋は存在せず、室町時代の物語「義経記」では2人は五条天神と清水寺で2度戦い、2度とも牛若丸が勝ったとされている。

 しかも、そもそもこの義経記自体が民間伝承をまとめたもので、庶民の間にあった「判官(ほうがん=義経の別称)びいき」の高まりから多くの虚構を含んでいたとされる。

 義経の容姿について成立年代が義経記より早い「平家物語」は「九郎(義経)は背は小さき男、色白で前歯が少し出ている」と伝えるが、義経記では「唐代玄宗皇帝の世なら、その妃楊貴妃というべきであり、漢の武帝のときなら、その妃李婦人かと疑われるほどの美男子」となるのだ。

                 ◇

 英雄としての人気が高く、後世に多くの伝説が作り出された義経。信頼できる史料に義経が最初に姿を現すのは、異母兄である源頼朝と初対面を果たしたとされる年の3年後の1183(寿永2)年のこと。

 このころ京都では、源(木曽)義仲が平氏を都落ちさせた後、狼藉の限りを尽くしていた。義経は義仲を追討するため、頼朝の代官として上洛、歴史の表舞台に躍り出た。

 当時の右大臣、九条兼実は同年10月17日、日記「玉葉(ぎょくよう)」に「源頼弟九郎(実名を知らず)、大将軍として数万の兵を率いて上洛を企てる」と書き残し、11月2日には「其替りに九郎御曹司(誰人や、尋ね聞くべし)」と記述。義経は貴族の間で突如として現れた新星であった。


 翌1184(寿永3)年、宇治川の戦いで義仲を破った義経はそのまま京都に入る。その後、有名な一ノ谷の戦いや屋島・壇ノ浦の戦いにかり出され、1年余りで平氏を壊滅させる電光石火の戦績をあげる。

79 名前:とはずがたり 投稿日: 2008/11/10(月) 11:57:51
>>78-79
                 ◇

 京都大大学院の、元木泰雄教授(日本中世政治史)は著書「源義経」(吉川弘文館)で京都で乱暴の限りを尽くした義仲追討と平氏一門の残党を鎮圧し、都の治安を守った義経の活躍を「戦乱で退廃した京の救世主にほかならない」と評している。

 入洛後の義経は平氏との最終決戦に向けた準備だけでなく、貴族と社寺の紛争解決や乱暴をはたらく武士の取り締まり、朝廷との折衝などを敏速にこなし、見事なまでの政治的手腕を発揮した。京都の武士との連携も深め、郎党らに所領を与えることで京都周辺に独自の軍事基盤を築きつつあったという。

 しかし壇ノ浦の戦いで5年近くにもわたる源平合戦が終了すると、頼朝と義経の確執が顕在化。義経の経歴は没落へと突き進む。なぜ、頼朝は平氏討伐の最大の功労者である義経を死に追いやったのか。

 「義経が追討の功を独占している」とした梶原景時の“讒言(ざんげん)”や、頼朝の許可無く義経が官位を受けたことなどの説があるが、元木教授は「(義経が京の)後白河と提携し、平氏の立場を継承しようとしたことに求められる」とする。


 義経は京都での滞在を通じて、王権を擁護するなかでその存在感を高めた。鎌倉に鎮座した頼朝は、義経が東国ではなく西国の武士を率いて平氏追討を成し遂げたことに困惑。さらに、義経がそれまで平氏が独占していた役職、御厩司に就任したことに憤った。

 東国の武士による武家政権の確立を目指した頼朝と、京都で王権と提携しようとした義経。2人の「武士のあり方」をめぐる衝突が対立の本質だったのかもしれない。

 1185(文治元)年11月3日、頼朝の追討を受け、義経は1年10カ月滞在した京都を後にした。その4日後の日記に、兼実はこう記している。

 「義経、大功を成し、その詮なしと雖(いえど)も、武勇と仁義とにおいては、後代の佳名をのこすものか。嘆美すべし。嘆美すべし」(森川潤)




 源義経 1159(平治元)年、河内源氏の当主、源義朝の九男として生まれる。母は九条院の雑仕女、常磐御前。牛若丸と名付けられ、その後稚児名を遮那王と名乗った。1180(治承4)年に兄、頼朝と対面した後平氏追討で活躍し、1185(元暦2)年に壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させる。しかしその後都を追われ、各地を流浪、1189(文治5)年に奥州平泉(岩手県)で自害する。享年31。

「源義経」美男説を追う
-不毛な論争を越えて-
http://www.st.rim.or.jp/~success/bi_ye.html

80 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/04/09(木) 03:19:25
 2009年4月8日(水)
中世の埋蔵銭、大量に出土 熊谷の諏訪木遺跡
忍城の成田氏と関係か
http://www.saitama-np.co.jp/news04/08/06x.html

 熊谷市教育委員会は七日までに、同市上之の諏訪木遺跡から中世の埋蔵銭が大量に出土したと発表した。戦国時代に行田の忍城を治めた成田氏の旧館跡が近くにあることから、同教委では「成田氏に関連したものの可能性が強い」とみている。

 諏訪木遺跡はこれまで六回の発掘調査が行われ、縄文晩期から近世までの住居跡などが見つかっている。今回は区画整理に伴って、三月末まで発掘を実施。二月二十四日に、古墳の堀の跡を三十センチほど掘ったところ、埋蔵銭が大量に見つかった。

 銭は約百枚ごとに束にされ、それが数段重ねられていた。まだ完全に土を取り除いていないため枚数は不明だが、三千枚から五千枚はありそうだという。中国から輸入された銅銭とみられ、十一世紀末に北宋で鋳造された「紹聖元宝」などが確認されている。

 市教委社会教育課によると、戦での略奪に備えて地中に保管した備蓄銭か、神仏に祈願するためにささげた埋納銭か、埋めた理由には二つの説が考えられるが、今回はどちらに当たるかは不明。

 成田氏は平安時代中期から県北部に勢力を誇った武士。中世に熊谷の上之地区に館を構え、十五世紀後半に忍城に拠点を移した。その旧館の跡(現・泰蔵院)が、遺跡から五百メートルほど離れた場所にあることから、成田氏との関係を指摘している。

 同市では一九七七年にも玉井地区で一万六千枚の埋蔵銭が発見されており、今回が二例目。

 この埋蔵銭は江南文化財センターで五月八日まで展示されている。土曜休館。四月中のみ日曜開館。問い合わせは、同センター(TEL048・536・5062)へ。

82 名前:とはずがたり 投稿日: 2009/07/06(月) 11:45:41
議員板の総選挙スレで頼朝のお母んの話しになった時に実家の熱田大宮司家の出自を藤原南家と云うべき所を北家と書いてしまった。。
恥ずかしい上に南家好きとしては万死に値するわ。。_| ̄|○



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