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めも・らんだむ

1 名前:dingbats 投稿日: 2003/06/29(日) 12:50 [ yLVlMirI ]
おぼえがき用。読書メモ、日常雑記.etc

130 名前:kojikoji 投稿日: 2003/12/12(金) 00:25 [ rU66tzng ]
落馬事故の後ドーマン法リハビリに取り組んだ元競馬騎手・福永洋一氏を覚えていらっしゃるでしょうか?
事故が起きたのは1979年の春、当時から既に24年が経っています。
長い年月が経ち、資料も少なくなってきたようなので経緯をメモしておこうと思います。
私も当時の様子がよく分からない為、本・新聞などを読み改めて様々な事実を知りました。
初めに事故後の経過説明、後半はドーマン法との関わりについて纏めてあります。

―事故後の経過説明―

昭和54年3月4日、阪神競馬場では激しい雨の中、毎日杯のレースが行われていました。
出走馬12頭の中、唯一牝馬に乗っていたのが天才騎手と言われた福永洋一騎手です。
4コーナーを回った地点で彼は前走する馬のアクシデントに巻き込まれ、落馬事故に遭遇します。
落馬は騎手にとっての宿命のようなものですが、9年連続リーディングジョッキー(年間最多勝選手)
に輝いた彼の事故は、多くの人に多大な衝撃を与えました。
脳の損傷により危篤状態に陥った彼は、この日から長い闘病生活を送るようになります。
その闘いは又、後に始まる過酷なドーマン法リハビリとの闘いの序章でもありました。

事故後、福永氏は当時関西一のICU施設を持つと言われた関西労災病院に運ばれます。
瞳孔が開き、四肢は「除脳硬直」状態で昏睡が続き、命の保証は出来ない状態でした。
CTスキャンと脳血管撮影の結果、右側頭葉に脳挫傷、左側に脳血腫瘍が発見されます。
唯一の救いは自発呼吸がある事でしたが、意識を司る脳幹部の損傷は自力回復を待つしかありません。
どの病態を見ても非常に重篤で、命さえも危ぶまれていたのです。

直ちに医師団が今後の治療方針の協議をし、開頭手術が決定されます。
3/6に行われた手術後も福永氏の昏睡状態は続き、意識の回復は依然として有りません。
手術の成功により当面の危機は脱したものの、脳波は依然昏睡状態のままでした。
3/6の手術に続き、4/4には頭蓋骨欠損と正常圧水頭症の同時手術が行われています。

脳の損傷を受けた場合、関節の拘縮の阻止・良肢位の保持・床ずれの予防等の為、
障害を受けた後の早期リハビリ開始が重要であるとされています。
マッサージや関節を動かすリハビリは、福永氏の病室内でも既に始められていましたが、
手術による一時中断があった為、その後のリハビリは4/9から再開されたのでした。
この頃のリハビリは、一週間に3回、手足屈伸訓練を一日20分位ずつ行うというものです。
5月の初め頃左手の動きが活発になってきますが、依然瞳孔は散大し光反応がありません。

131 名前:kojikoji 投稿日: 2003/12/12(金) 00:32 [ rU66tzng ]
7/10福永氏は車椅子で機能訓練室まで移動して、訓練室でのリハビリを始めました。
関西労災病院のリハビリテーション科は、当時関西一という評価を受けていました。
この時点での福永氏の状態は、意識レベル3、左側の肘、膝、手は自力で運動可能、
右上下肢は麻痺しているけれども柔らかい状態であるというものでした。
リハビリは寝返りから始められましたが、自ら体を動かす事は出来ない状態でした。
8月からはマット訓練、左右の上下肢を挙げる訓練、起立訓練が始められています。
8月半ば、彼は支持用具に支えられながらですが、5ヶ月振りに立つ事が出来たのです。
しかし、頭部は乳児のようにぐらつき、誰かが支えなければ不安定な状態での起立でした。

9月からリハビリはいよいよ本格化します。午前午後それぞれ2時間ずつの機能訓練、
作業療法が行われます。10月に入るとゆるやかな進歩が見られ、目の動きも良くなってきます。
左手の回復が良く、食事もチューブからではなく殆ど口から摂るようになっていきます。

ここまで回復した要因として挙げられるのは、
・事故が起きた際、競馬場に待機していた医師の的確な応急措置。
・入院後、近代医学の英知を結集した医師団の大きな力があったこと。
・結婚後、僅か3年で事故に遭遇してしまった夫人の事故後の献身的な介護。
・毎日規則正しく続けられたリハビリの成果。
などが挙げられます。しかし、現役時代によく訓練された福永氏の体が非常に
しなやかで、訓練によく耐えられた事も、実は大きな要因だったようです。
お正月に一時帰宅した福永氏は、まだ自ら言葉を発する事は出来ませんでしたが、
相手の言葉に肯いて応えるようになっていました。
この頃から笑顔がよく見られるようになります。自宅での束の間の休息の後、
彼は再び病院へ戻り、翌年11月の退院まで入院生活を続ける事になります。

132 名前:kojikoji 投稿日: 2003/12/12(金) 02:28 [ rU66tzng ]
―ドーマン法との繋がり―

3月、今後の治療方法が医師と夫人の間で話し合われ、ここで夫人は初めてドーマン法の
リハビリを始めてみたいとの意志を医師に伝えます。これは夫人が入院中にずーと温めていた
考えで、“もう現役選手としては無理でも、せめて自ら歩き自分の言葉で話すようになってほしい”
との夫人の切なる願いでもありました。

労災病院に入院中のある日、日本人間能力開発センターから、ドーマン氏が来日するので会って
みないかという連絡が入ります。
夫人は申し出を受け、昭和55年7月ドーマン氏が入院中の福永氏の元を訪れました。
博士は、リハビリの様子を実際に観察し、病院の訓練士の人とも話し合っています。
ドーマン氏は「再び競馬界のチャンピオンになる事はあり得ないが、非常に理想的な
状態で訓練すれば、自分で生活するようになれる可能性は高い。ドーマン法によって
更に福永氏の病状は好転するだろう」という言葉を残していきます。

昭和55年11/21、福永氏は1年8ヶ月の入院生活を経て、関西労災病院を退院しました。
ご家族は、以後ドーマン法による自宅療法に回復の夢を託すようになります。
ドーマン法は一定数の人手を必要とするリハビリです。その協力の為に、
夫人の両親も住み慣れた土地を離れ、福永宅に移り住むという決断をしています。
「研究所が障害を治すのではなく家族が治す」というのがドーマン法の基本的な考えです。

133 名前:kojikoji 投稿日: 2003/12/12(金) 02:37 [ rU66tzng ]
翌年2月、福永氏は初めてフィラデルフィアのチェスナットヒルにある「人間能力開発研究所」
を訪れますが、そこでドーマン氏から家族へ言い渡された言葉は厳しいものでした。
「もし、家族が自分達には出来ないと判断した場合は、遠慮なくここから退去してもらう。
そして今後一切、当研究所とは関わりを持つことが出来ないということを承知してもらいたい」。
この前提を了解した人間のみがドーマン法を続けられる仕組みになっているのです。

半年毎に組まれるプログラムは、「運動」「知性」「栄養」の三つの分野に分かれており、
一日の殆どを使って行う苛酷なプログラムの初回分が、まず福永家に渡されたのでした。

帰国後の昭和56年3/5午前7時から、いよいよドーマン法プログラムが開始されます。
家の中は家具が片付けられ、リハビリに必要な器具で溢れる訓練場と化しました。
リハビリ主導者は義父のK氏、他にパートの手伝いの方々数名、4月から専任要員
としてT青年が雇われています。
(彼は半年後に渡米し、人間能力開発研究所に勤務するようになります)
この頃の訓練時間は一日10〜13時間、毎週訓練の回数が増えていくように
組まれています。
リハビリが進むと、福永氏の肘の皮がむけ血が滲む、膝にはこぶが出来、頭上ばしごを
握り締める手のひらはマメがつぶれて血が滲む、という文字通りハードな訓練の連続でした。
昭和57年1/30に福永氏は、相手の話す言葉を反復する事が出来るようにまでなります。

134 名前:kojikoji 投稿日: 2003/12/12(金) 02:43 [ rU66tzng ]
7月に来日したドーマン博士は福永氏の体の動きの進展に驚き、早速第二次のプログラムを
渡します。リハビリの量は二倍に増え、更に苛酷な訓練が待ち受けていました。
9月に入り福永氏は右足を1歩踏み出すのですが、それは2年5ヶ月振りの第一歩でした。

2回目の渡米は翌年の2月。この時ご家族はリハビリを実際に行ってきた経験から、
その方法等について研究所にある程度の提言をされたようです。
しかし研究所は全く取り合わず、強硬な姿勢で第3期・6ヶ月のプログラムを
渡しました。

今度のプログラムは長い距離が取れる訓練場が必要なものであり、自宅では手狭でした。
結局、中央競馬界トレーニングセンターの集会所を借り、そこで行う事になります。
この頃、リハビリ専任要員だったT青年は既に渡米しており、Aさんという女性が
代わりにリハビリ助手を勤めるようになっていました。
Aさんは、後にアメリカのドーマン研究所で研修をし、日本でドーマン法をアレンジした
施設を開設する女性です。

第三次のプログラムが終了した7月、研究所のジャネット・ドーマンが来日しました。
御一家に「リハビリを暫く休み2ヶ月の休暇を取るように」との言葉を言い渡します。
この休暇は、研究所で「ハネムーン」と呼ばれているもので、介護者の一時休暇と、
患者が家族と触れ合う暮らしを経験する事を狙いとし、設定されているのだそうです。
この頃福永氏の歩行距離は、ゆっくりながら145メートルの距離まで伸びていました。

135 名前:kojikoji 投稿日: 2003/12/12(金) 02:57 [ rU66tzng ]
昭和58年5月、3回目の渡米で受け取った新プログラムには騎乗訓練が入っていました。
翌年の10月、栗東トレーニンゲセンターの乗馬園で、嘗ての仲間達に見守られながら
乗馬する福永氏の姿が見られました。それは事故以来、初めて馬に乗った氏の姿でした。
その現場に居た夫人の目には涙が光っていたそうです。

ドーマン法のリハビリを始めて3年、昭和58年暮れに遂に全プログラムが終了しました。
翌年1月には、研究所から福永洋一氏の生涯計画書も渡されます。
計画書に書かれている文は「この計画の目的は、予定通り子供がプログラムを達成し、
それによって同年代の者と一緒に大学を卒業し、人生の予定された軌道通り就職する。
または更に大学院に進む事が出来るようにすることである」末尾には「福永洋一は、
1987年1月のドーマン博士の再診のときをもって卒業する」とありました。
子供に向けた文章で書かれているのは、研究所が基本的に子供の為の教育機関であり、
今回の福永氏のような成人のケースは例外的であった為だと思われます。
しかし、卒業したとはいえ、まだ自分の力で歩く事が達成されていない限り福永家に
とってのリハビリは終わっていないのです。目標は、あくまで自力で歩くことなのです。

でも、その後、御一家はドーマンリハビリを止めざるを得なくなってしまいます。
福永家は研究所との意見の相違に直面し、続行することが不可能になってしまった
のです。実は、2回目の渡米の時にその芽が僅かに見えていた形跡があります。
リハビリが進んでくると、家族から「このような訓練も取り入れたらどうだろう」等と
意見が出される事があるようですが、研究所は自らのプログラム以外のものは一切
受け付けない主義です。プログラム通りにやらないのなら勝手にして下さいと、
以後の関わりを拒否し、リハビリ中止通達を出す方針を採っています。

異議を唱える者は研究所を去るしか為す術は無く、ご一家は結局それを受け入れたのです。
後は自分達のペースでゆっくりとリハビリに取り組んでいくという道を選択したのでした。
3年間続けられたドーマン法による苛酷な訓練は、ここで終わりを告げます。
3回の渡米費用を含め、ドーマンリハビリに掛けた総費用は、約5,500万円だったそうです。

136 名前:kojikoji 投稿日: 2003/12/12(金) 03:04 [ rU66tzng ]
―その後の福永氏―

2002,9/23,北海道新聞に「天才騎手・福永洋一さん 1979年落馬しリハビリ生活」
という特集記事が載りました。
写真で見る福永氏は以前よりふっくらとし、例の福永スマイルで微笑んでいます。
この年は障害者インターナショナル世界会議が札幌で開かれた年だった為、
それにちなんで福永御一家へのインタヴューが行われたようでした。

記事の内容はリハビリ生活の記述が中心でしたがドーマンという文字は書かれていません。
現在の福永氏は、ご家族にトイレや食事などの意志を伝え、両腕を支えられて歩くという
生活を送っていられるそうです。
たまに、故郷である高知県の「南国土佐を後にして」を口ずさむ事もあるそうですが、
自ら言葉を出し相手に話し掛けるというのは、まだなかなか難しいようです。
相手が話し掛けた言葉を、部分的に反復して口に出すという対話形式になるようです。

事故当時2才3ヶ月だった長男は騎手になり、当時5ヶ月だった長女は理学療法士の
道に進んでいました。
ご家族は、事故以来いかなる時も福永氏を子供扱いしなかったそうです。
「常に一家の柱として接してきた」という義理のお父様の言葉に一家の姿勢が見て取れます。

その後のリハビリについてですが、マイペースで現在でも続けられているようです。
昨年増築したというトレーニング室には数々のマシーンと車椅子用のリフトが設置され、
そこでご自分達がベストと思う方法でリハビリに励んでいらっしゃるという事でした。
温かいご家族に囲まれて微笑む福永氏の表情は、現役時代の洋一スマイルそのままに
優しさに満ち溢れていました。

137 名前:kojikoji 投稿日: 2003/12/12(金) 03:12 [ rU66tzng ]
―私見―

体に障害を負った場合、痛みに耐えながらリハビリを行い続けるのは本当に辛い事です。
福永氏は、苛酷なドーマンリハビリを3年間よく耐え忍んだものだと感心させられます。
又、ひたすらに献身的であった夫人とその御両親の協力的な姿勢にも胸を打たれました。
一時は植物人間状態になるのではないかと危ぶまれた福永氏ですが、ご家族の介助が必要な
状態とはいえ、何とか自宅で生活できるまでに回復なさったのは喜ばしいことです。

しかし、リハビリというものを考えてみた時、ドーマン法によって良くなったのか、
また違うリハビリ方法を取り入れていたとしても、やはり現在の状態になったのか、
又は人間が本来持っている自然治癒力によって治った部分も多分にあるのではないか、
という辺りの判定はとても難しいと感じます。
それは比べてみるデータが殆ど無いからです。

ドーマン法については、世界中の様々な専門機関がその効果について否定的な見解
を示しています。あまりにも高額な費用が掛かる事、家族に多大な犠牲を強いる事、
医学的なデータが殆ど発表されていない事などの問題点が様々に指摘されています。
研究所は、ドーマン法を実施した結果のデータを何故きちんと発表しないのでしょうか?

ドーマン氏は、嘗て福永氏が入院する病院を訪れ、「我々のプログラム通りに訓練すれば、
自分で立ち、自由に歩け、そして自由に話せるようになるだろう」と語っています。
しかし、現在の医学では脳の障害が大きければ大きいほど完全治癒が難しいケースも多いのでは
ないでしょうか? 残念な事ですが、現状では近代医学の力にも限界があります。
では、代替医療で完全治癒がもたらされるかというと、これも有効性を実証するデータが
余りにも少なく、効果の程が実証されていないのが現状です。

138 名前:kojikoji 投稿日: 2003/12/12(金) 03:29 [ rU66tzng ]
実際に福永氏の状況を見ても、介助無しに日々の生活を送るのは困難な様子に見えます。
訪問者が誰であるのかなかなか分からない、言葉が思うように出てこないというのは、
脳の損傷に起因する後遺症なのだと思わざるを得ません。

であれば、やはり我々は障害の100%治癒をいたずらに望むよりも、患者が例え障害を
負ってはいても人間としての尊厳を守り快適な生活を送られるようにという、その点に
こそ最大限の努力をすべきなのではないかと思います。
その意味では、福永家が洋一氏を柱として尊敬する姿勢は素晴らしいと思えます。

有効性が実証されない割には費用が高額過ぎるドーマン法に対しては、
やはり数々の疑問を感じざるを得ません。
その素朴な疑問が解決しない限り、どうしても釈然としない気持ちが残ります。


私事になり恐縮ですが、先日親戚の人間が蜘蛛膜下出血で倒れ、2度の手術を受けました。
この病気も往々にして障害が残る事が多く、患者の意識が混濁する度に家族は一喜一憂
しておりました。突然の病魔は、一瞬にして我々の生活をも一変させてしまいます。

うろたえ憔悴する家族を前にして、私は一縷の可能性に望みを託して励まし続けるしか
ありませんでした。後は医師の力を信じ、患者の自然治癒力に期待するしかありません。
世の中の疾病は数限りなくありますが、脳の病気の恐ろしさを改めて痛感させられました。

地球上では、今この時間にも様々な病気と闘い続ける人達が多数いらっしゃる事でしょう。
いつの日か医学が更なる進歩を遂げ、患者の方々、ご家族の方々の苦しみが一刻も早く
取り除かれるようにと、私は心から願わずにはいられません。


参照―和田絵衣子著「奇跡への祈り」、三輪和雄著「騎手福永洋一の生還―脳障害との闘い」
   2002,9月23日付北海道新聞・特集記事
   「天才騎手・福永洋一さん −1979、落馬し、リハビリ生活―」

139 名前:<削除> 投稿日: <削除> [ LL4fayME ]
<削除>

140 名前:saihikarunogo 投稿日: 2003/12/15(月) 21:52 [ XOg4fbv. ]
koojikojiさんによる関連文献からの要約をもとに、
「福永洋一騎手とドーマン法について」というウェブページを作りました。

http://members.at.infoseek.co.jp/saihikarunogo/fukunagayouichidoman.html

141 名前:saihikarunogo 投稿日: 2003/12/18(木) 02:03 [ OJX6.eyU ]
「福永洋一騎手とドーマン法について」に、「意識レベル3」についての註などを
追加しました。
http://members.at.infoseek.co.jp/saihikarunogo/fukunagayouichidoman.html

*註 (by saihikarunogo)
「意識レベル3」について

「騎手福永洋一の生還―脳障害との闘い」(三輪和雄著、文春文庫、1986年)によると、
関西労災病院では、意識レベルを次の6段階に分けています。
(1)正常。
(2)質問に答えるが、ぼんやりしている。
(3)簡単な質問に応える。
(4)呼んでも答えず、手を握ったりする。
(5)ピンで皮膚を突いて、動きがある。
(6)全く反応がない。

福永洋一氏が関西労災病院に運び込まれた昭和54年(1979年)3月4日の意識
レベルは(6)、3月16日にICUから脳神経外科病棟へ映ったときの意識レベルは
(5)、7月10日に車椅子で機能訓練室まで移動してリハビリを始めたときは(3)で、
「左側の肘、膝、手は自力で運動可能、右上下肢は麻痺しているけれども柔らかい
状態である」というもの、そして、翌昭和55年(1980年)7月ドーマン氏が
入院中の福永氏の元を訪れたときは(2)でした。

142 名前:saihikarunogo 投稿日: 2003/12/20(土) 14:13 [ VMof5sMQ ]
>>136
>2002,9/23,北海道新聞に「天才騎手・福永洋一さん 1979年落馬しリハビリ生活」
>という特集記事が載りました。
>写真で見る福永氏は以前よりふっくらとし、例の福永スマイルで微笑んでいます。
>この年は障害者インターナショナル世界会議が札幌で開かれた年だった為、
>それにちなんで福永御一家へのインタヴューが行われたようでした。

北海道新聞の記事とドーマン法について、もと社団法人北海道私立幼稚園協会理事、
日本私立幼稚園連合会理事を歴任した、鈴木亮氏が、次のように書いています。

----------------------------------------------------------------
続・早期教育と臨界期(5)環境の意味するもの[2] 2002.9.25 Vol.15
http://www2.snowman.ne.jp/~tb-ryo/ron2/ron15.html

 私はその一例として北海道新聞に2002年9月23日に掲載された記事を紹介したい。

 天才騎手の福永洋一さんは1979年に落馬して植物人間になったと報道されていたが、その後アメリカに渡りドーマン博士の下で機能回復訓練の指導を受け、帰国後は家族に支えられながら血のにじむような反復訓練を1日10時間、これを5年間続けた。

 その結果、現在では笑うことも出来るようになり、両腕を支えてもらえば立つことと移動することも出来るようになったと、家族と共に笑顔の写真入りで掲載されたいたものだ。

 グレン・ドーマン博士は物理療法科が専門で、脳が損傷している場合はその部位を切除することで機能回復が図れるという考え方を持ち、実際に手術の成功例も持っている。それにも関わらず宗教上の理由から非難され、アメリカ社会では受け入れられていない。

 日本では故・井深大氏が彼の幼児教育と障害者のリハビリの説を受け入れて、日本に招いて講演を行ったことがある。また彼の著書も翻訳され、「ドーマン博士の幼児開発法」(講談社刊)「親こそ最良の医師」(サイマル出版会)「読書法」(アメリカ・クワットラングル出版社)などが出版されている。

 そして私は彼の教育に対する考え方、方法論に多大な影響を受けた一人である。

 特に「幼児は読む能力を持っている。2歳から始めよう。早ければ早い程良い」という説には大いに賛同する部分であり、研究のために実践して良い結果を得た。

 従来の教育分野ではほとんどの学者、教育実践者のみならず、社会全体の流れの中で猛烈な反対や非難の渦が広がっている。だが反対の理由が必ずしも論理的ではなく、科学的な事実として証明された例は一つもない。単なる仮想的な推論と根本的に間違った情報を潜在的に信じ込んでいるといった思いこみによるものがほとんどである。
----------------------------------------------------------------

143 名前:saihikarunogo 投稿日: 2003/12/20(土) 14:24 [ VMof5sMQ ]
鈴木亮氏は、

> グレン・ドーマン博士は物理療法科が専門で、脳が損傷している場合はその部位を切除することで機能回復が図れるという考え方を持ち、実際に手術の成功例も持っている。

と書いていますが、これはまったくのまちがいではないでしょうか?

鈴木氏は自ら脳卒中で半身不随となった後で病院のリハビリテーションと退院後の自己流の訓練で機能回復を果たしており、長年の幼児教育の実践と自身の体験から、独自の考えを著書やホームページで展開しています。

動物→(転換)→人間・その2(子育て文化ルネッサンス) 2003.11.19 Vol.23
http://www2.snowman.ne.jp/~tb-ryo/ron4/ron23.html
> 7年前、65歳の夏に脳内出血で倒れたが辛くも一命を取り留めた。だが、後遺症として「左上下肢機能全廃」となり身体障害者壱級の判定を受けた。おまけに「寝たきりで5年間の生命は保証する」と主治医からの宣告を受けた。

また、自閉症は、赤ちゃんがおかあさんのおなかのなかにいるときに話しかけてあげることで防ぐことができると考えているようです。

言葉を育てる・その1(胎児期) 2003.9.24 Vol.15
http://www2.snowman.ne.jp/~tb-ryo/ron4/ron15.html
----------------------------------------------------------------
 その昔、私が自閉症児を数人受け入れ、「言語障害・多動症・学習障害」、これら3つの合併症的障害が少しでも改善されることを願い、あらゆる方法を考え、選び、家族と共に根気よく継続訓練を実施したことがある。同時に、その原因は彼等の成育環境にあると考え、両親からの聞き取り調査を行ったが、その時に共通点だと思われる環境の欠如に気が付いた。

 それは、胎児期に母声音によるリリーサーを受けていない、もしくは音声の刺激のシャワーをほとんど受けていないと言うことだ。

 私はその頃から、アメリカの精神科医が発表した様な自閉症を先天的機能障害だと判定することには全面的に反対で、早期に発見すればする程に治癒する可能性があると考えていた。

 自閉症にならないための最も重要な方法は、徹底的に指導することである。最初の言葉の獲得は模倣が起源である。前章では模倣は生きるための本能活動であると断じたが、自閉症児はその本能が全く機能していないことも判明した。

 以上の事から、胎児期に言葉を育てることは、音声をリリーサーとして胎児に与える方法から始まると言ってもよい。これについていくつか詳述しよう。
----------------------------------------------------------------

144 名前:saihikarunogo 投稿日: 2003/12/20(土) 14:32 [ VMof5sMQ ]
鈴木亮氏のホームページでは、他に以下のページで、
福永洋一騎手とドーマン法に言及しています。

続・早期教育と臨界期(6)
環境の意味するもの[3] 2002.10.3 Vol.16
http://www2.snowman.ne.jp/~tb-ryo/ron2/ron16.html
----------------------------------------------------------------
 前章で紹介した福永洋一さんのリハビリ方法は、非常に重要な示唆を我々教育分野にいる人間に与えてくれた。その方法とは、訓練において「胎児からの生育・発達の順次性に従う」ということである。
(中略)
 さて、断片的にドーマン博士が考えた順次性のリハビリを考えてみたが、彼の理論を証明する論文を手にすることが出来なかったので、ここでは私が知り得たリハビリの内容を紹介しよう。
(中略)
 最後に、これらの運動がいかに重要であるかは、この訓練が福永洋一さんの事故から今に至るまでの毎日の訓練カリキュラムに含まれているものであり、一定の距離をタイムを計りながら目的を持たせて訓練していることからも理解できることだろう。
----------------------------------------------------------------

ボケ老人のリハビリに幼児の早期教育 2002.6.12 Vol.1
http://www2.snowman.ne.jp/~tb-ryo/ron2/ron1.html
> 落馬して植物人間になった競馬の福永騎手のリハビリとして、アメリカのドーマン博士は、胎児が獲得・発達させていく機能の順次性に従って訓練をした。それを長い時間をかけて根気良く続け、ほんのわずかであるが歩行能力や言葉を回復させた例がある。

145 名前:saihikarunogo 投稿日: 2003/12/20(土) 14:38 [ VMof5sMQ ]
鈴木亮氏の著書とプロフィール

http://www2.snowman.ne.jp/~tb-ryo/index.html
「子育て環境論」(近代文藝社、1993年)
「子育ての環境学」(近代文藝社、1996年)
幼児教育あれこれエッセイ「雑感・熟考」
北海道内の紀伊国屋書店、大丸札幌店、JRタワー旭屋書店で発売中

社団法人北海道私立幼稚園協会理事、同研究委員長を経て日本私立幼稚園連合会理事に選任され、同研究常任委員等を昭和54年3月まで十数年にわたり歴任。「健康」、「自然」、「幼児の交通安全教育」、「家庭における幼児教育」等の各領域で全道全国各地にて助言者、講師として活躍中。

昭和50年 北大三宅教育学部長と共にアメリカのスタンフォード大学、マサチューセッツ大学の幼児教育を視察、ヘス・デェイ両大学教授と教育討議懇談。
昭和53年3月 あすなろ書房より「やる気を育てる幼児教育」を出版。
昭和53年7月 国際幼児教育会議の第1分科会「遊びと仕事」に日本代表パネラーとして研究発表・討議。
昭和54年 北海道教育大学釧路分校非常勤講師。1月より北海道新聞学芸欄「保育日誌」、「保育ノート」執筆担当。 財団法人日本保育学会会員、財団法人幼少年教育研究所所員となる。
昭和58年 教育出版より「赤ちゃんばんざい!」が出版され、その中に曽根綾子(作家)、小松左京(日本沈没、SF作家)、広中平祐(ノーベル賞受賞者)、畑正憲(作家ムツゴロー)などの各界の権威者と共に対談が掲載される。読売新聞に「幼児開発協会の理事、井深大(「世界のソニー」を築き幼児教育に情熱を注ぐ著者)が各界の文化人と語った珠玉の幼児教育対談集である」とその内容を紹介される。
平成元年6月 日本保育学会にて「ニューメディアと保育」のシンポジウムパネラーの依頼を受ける。
平成2年10月 TBマーガレット・行動工学研究所を設立。
平成5年11月 近代文藝社より「子育て環境論」を出版。
平成8年4月 近代文藝社より「子育ての環境学」を出版。

146 名前:kojikoji 投稿日: 2003/12/21(日) 07:53 [ wZa0RlvU ]
Saihikarunogoさんが紹介された鈴木亮氏のエッセイで、気になった点が数点あります。
まず、2002,9,23付の新聞記事ですが、鈴木氏は以下のように新聞記事を紹介されています。

>私はその一例として北海道新聞に2002年9月23日に掲載された記事を紹介したい。
>天才騎手の福永洋一さんは1979年に落馬して植物人間になったと報道されていたが、
>その後アメリカに渡りドーマン博士の下で機能回復訓練の指導を受け、帰国後は家族
>に支えられながら血のにじむような反復訓練を1日10時間、これを5年間続けた。

実際の記事にはドーマンという文字が無く「リハビリの権威」という表現が使われています。
福永氏がドーマン法を続けた期間ですが、3年経った所で卒業認定されたものの、まだ自分で
歩けない・喋れないという状態だった為、御一家は暫くの間ドーマン法を続けていらしたよう
です。新聞記事によると、約5年間続けたと書いてありました。しかし、その時期に前後して
研究所とのトラブルがあり、「人間能力開発研究所」を脱会されたようです。
調べても、どの資料にも脱会した時期が明記されておらず、年度は特定出来ませんでした。

他に、鈴木氏の以下の記述に疑問があります。
>グレン・ドーマン博士は物理療法科が専門で、脳が損傷している場合はその部位を切除す
>ることで機能回復が図れるという考え方を持ち、実際に手術の成功例も持っている。

グレン・ドーマン氏は理学療法士であり医師ではない為、自身で手術を手がける事は
有り得ないと思いますが、手元にあるドーマン著「親こそ最良の医師・2000年改訂版」
を読んでみても、上記の点に関するような記述はどうも見当たりません。
ドーマン氏が嘗て勤務していた病院のフェイ医師に関する記述は詳しく書かれていますが。

ドーマン氏は理学療法士になって間もなくの頃、テンプル大学医学部付属病院に勤務して
いましたが、その病院には脳神経外科医の権威・テンプル・フェイ博士がいました。
脳手術を見た経験が一度も無いドーマン氏に対して、フェイ博士は、ある日見学を許可
します。その手法・考え方に魅了されたドーマン氏は、そこで脳神経学や脳神経解剖学
について多くを学んだと著書の中で語っています。暇を見つけては度々手術室に入って
いた為、理学療法科の上司に注意される程だったとも述べています。(21〜30p)
後年、ドーマン氏は脳障害児の為の研究所を開きますが、フェイ医師から受けた影響
こそが研究所開設の原動力になったことは間違いないようです。

次に、2002,9,23の北海道新聞・福永元騎手に関する記事を全文掲載します。

147 名前:kojikoji 投稿日: 2003/12/21(日) 08:08 [ wZa0RlvU ]
ここからは、福永騎手について書かれた新聞記事を転載します。

見出し  −天才騎手・福永洋一さん・1979年落馬しリハビリ生活―

序文―突然の事故に愛する家族が見舞われ、障害者になったら・・・?
   中央競馬で天才騎手の名をほしいままにしていた福永洋一さん(53)は23年前の
   レースで落馬、大けがを負った。少しでも回復させたいと願う家族の懸命な思い
   に支えられ、福永さんはリハビリに励み、笑顔を取り戻した。
   10月に開かれる障害者インターナショナル(DPI)世界会議札幌大会を前に
   滋賀県栗東市に住む福永さん一家を訪ねた。        (稲塚寛子)

―序文の下段に福永洋一氏の経歴欄―

ふくなが・よういち。高知県出身。1968年に19歳で騎手デビュー。
70年から78年まで中央競馬の9年連続リーディングジョッキーに輝く。
通算騎乗数5086回。そのうち1着は天皇賞(72、76年)、皐月賞(77年)など983回。
獲得賞金71億円。79年3月毎日杯レース中に落馬、重傷を負い、騎手生命を絶たれる。

148 名前:kojikoji 投稿日: 2003/12/21(日) 08:17 [ wZa0RlvU ]
本文見出し1  −厳しく温かく支える家族―
本文見出し2  −妻有見子、義父・多毅夫さん「一家の柱として」−

応接間の棚に賞状、トロフィー、写真がぎっしりと並ぶ。ひときわ目を引くのは
9年連続リーディングジョッキー(年間最多勝騎手)の功績をたたえるトロフィーだ。
1979年春、絶頂期に起きた落馬事故。一時は「危篤」とも報じられた。手術、リハビリ
を経て福永さんは1年8ヶ月後に退院。妻有見子さん(47)の懸命な看病もあり意識は
回復したが、寝返りさえ打てなかった。

小見出し    −手のひらにマメ ストレス増すー

「このまま洋ちゃんの一生を終わらせるわけにはいかない。わずかな可能性にもかけたい」。
有見子さんは、よりよい治療法を求め、父・北村多毅夫(たつお)さん(77)と81年に渡米。
リハビリの権威からトレーニングについての指導を受けた。
帰国後、同年3月から父と母・眸さん、手伝い2人の計5人で一日10時間もの機能回復
訓練を約5年間続けた。「幼い2人の子育てにも追われ、つらかった。亡き母がいたから
できたようなもの」と有見子さんは振り返る。訓練は苛酷だった。手足に力が入らない
福永さんを立たせ、頭上に設置した棒を握らせ、歩かせた。
毎日、一定の距離をはわせタイムも計った。
福永さんの手のひらにマメができ血がにじむことも。ストレスが重なってか、おなかを
こわしたこともあった。家族ぐるみのリハビリが実り、福永さんは同年9月には自分で
立てるまでになった。その回復ぶりは米の専門家も舌をまくほどだった。
有見子さんたちにトイレや食事などの意思を伝え、両腕を支えられて歩く。
以前からの愛唱歌「南国土佐を後にして」も笑顔で口ずさむ。

149 名前:kojikoji 投稿日: 2003/12/21(日) 08:25 [ wZa0RlvU ]
小見出し    −娘は理学療法士 息子は騎手にー

落馬事故のとき、長男祐一さん(25)は2歳3ヶ月、長女妃呂巳さん(23)は、
わずか5ヶ月。2人は懸命にリハビリに取り組む父と支える家族の姿を見て育った。
多毅夫さんも有見子さんも洋一さんを子ども扱いはしなかった。
「一家の柱として接してきた」(多毅夫さん)。
厳しくも温かい家族の思いはしっかりと子に受け継がれた。
祐一さんは父と同じ中央競馬の道を選んだ。妃呂巳さんも理学療法士となり、
神奈川の病院で患者の機能回復訓練に努めている。一家にとって北海道は縁が深い。
多毅夫さんは帯広生まれで獣医の資格を持ち、道庁に勤めたこともある。
有見子さんも小学1年まで日高管内浦河町で過ごした。
洋一さんが元気なころはレースの開催に合わせて札幌に長期滞在した。
20年以上、洋一さんとともに暮らす多毅夫さんは「洋一さんはわが子も同然」と
目を細め、有見子さんもそんな2人を温かくみつめる。
最近、一家はトレーニング室を増築した。祐一さん用のマシーンが並ぶなか、
洋一さん用に車いすのリフトも設置した。
「また訓練しようか」。多毅夫さんが話し掛けると洋一さんが笑顔を返した。

(以上、2002年9月23日、北海道新聞朝刊記事より原文ママ転載させて頂きました。
記事中央には、洋一氏、奥様、奥様の父上の素敵な写真が掲載されています。尚、
見出し・小見出し・序文・本文などのタイトルは、説明上こちらで付加したものです)。



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